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保育における「遊び」の捉えについての一考察

横井紘子(2006)「保育における「遊び」の捉えについての一考察」『保育学研究』44(2), 189-199, 日本保育学会

http://ci.nii.ac.jp/naid/110006197722

PDFあり

 副題は、現象学的視座から「遊び」理解の内実を図るとなっている。

 遊びを客観的に捉えるだけでは、保育者は子どもに遊びとは何かを伝えることができない。しかし、これまで遊びのパターンとかカテゴリーなどで研究されることはあっても、「遊んでいる」といった「遊ぶ」主体の内的態度は視野に入れてこなかった。現象学的な視点を取り入れることで、これまで主観的な物として排斥されがちだった、保育実践において子どもの『遊び』を捉えるという営みの実態が、生きられた体験により近いものとして明らかにすることをねらいとしている。

 J.アンリオの遊びの定義を軸に保育場面での論者の関わりの解釈が行われている。アンリオの遊びの定義は、

  1. <もの>として名付けられるレベル(<チェス>をして遊ぶとか)
  2. ある主体が実際に行っている行為の客観的・外部的レベル(チェスをしていることが観察される→遊んでいる)
  3. 行為を行っている主体的の内部的な態度(当事者同士が、チェスを遊びとして認識していること)

 特に重要視するのは、3である。遊びとしてそのものを認識しているかどうかが大事であり、1人遊びではない限り、その遊びは相互性を伴った間主観的な出来事であるといえる。言い換えれば、お互いに遊んでいると認識することで、その<遊び>は遊びとして成立すると言うことである。

 その一方で、保育者が<それが遊びだ>と認識するには、特に1の命名されたものを手がかりにするしかないことも明らかにしている。言い換えれば、当事者同士が何をして遊んでいるかを理解するには、外部(保育者)がそれがどのようなルール(遊びの構造)を持っているかを理解しないといけない。そのためにはこの命名が重要な意味を持つとされる。遊びの構造を理解すると、たちどころに、<それが遊びだ>と理解しできるとされるが、果たしてそうだろうか。

 この論文の中で、保育者(論者)がある子どもがひとりでトランプをいじっているのを見て、自分の理解の及ばない(遊んでいるわけではない)ことをしていた。しかし、その子にとって、トランプの絵柄を見たり、並べたり、保育者に数字を読んでもらって面白がっている姿は、遊んでいるのではないだろうか。西村清和あたりの『遊びの現象学』ではそう捉えるはず。まぁ、アンリオの定義の範囲で考察しているから、それ以上は踏み込めなかったんだろうけど。

 ちなみに、この紀要は、保育学では一応最高峰。ただで読めるので、興味のある人は芋づる式でリスト化してみても良いかもしれない。

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救護施設→知的障害児施設→通所介護施設(高齢者)と15年以上。これからも思考と体力で、働いていきます。

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