現代社会における幸福と愛をめぐって

菅野博史(2011) 「現代社会における幸福と愛をめぐって」『帝京社会学』24, 41-59

http://ci.nii.ac.jp/naid/40018763688

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 リストラやいじめ、鬱病など暗い話題ばかりが目に飛び込んでくる現代社会は、後世、人々から生き甲斐を奪うような暗く陰鬱な時代であったと歴史家から総括されそうであること。また、人々の閉塞感を分析していくための視点として、幸福と愛といういわば反対概念から考察した論文である。特に、学問をする上でのジレンマ、知れば知るほどその人の苦悩は深くなって、むしろ学問が逆効果になりかねないとする記述。

 例えば、非正規雇用労働者をめぐる格差社会についての社会学的言説を知れば知るほど、その知識を身につけた人たちが怒りに満ちていく一方で、自分たちが現実を何も帰られない無力感から自暴自棄に陥ったとしたら、むしろ何も知らなかった方が幸福だったと言うことにもなりかねない。

 取り上げられたのは、フロムとバウマン、そして菅野仁の『愛の本』を手がかりに、現代社会で生きる我々にとって愛とは何か。そして愛を手がかりに主体的に生きるとは何かを説いている。中でも参考になったのは、自己愛と利己主義の違いである。自己愛とは、自分自身への配慮、尊敬、責任、理解という健全な自己愛がなければ、他者を愛することができないこと。自分自身のエゴしか関心を向けない現代の利己主義者は、自分自身への配慮などが本質的に欠けているため、自分のことを本当は愛していないとする見解である。

 資本主義下の恋愛とは、自分自身と相手の商品価値を見極め、その商品の限界を見極め、取引を行うものであるとする。

 ふつう恋心を抱けるような相手は、自分自身と交換することが可能な範囲の『商品』に限られる。私は「お買い得品」を探す。相手は、社会的価値という観点から望ましい物でなければならないし、同時にその相手は、私の長所や可能性を、表のあらわれた部分も隠された部分もひっくるめて見極めた上で、私をほしがっていなければならない。

 その後、フロムの思想的なところをバウマンが引き継いだとした見解で、ソリッド・モダン社会とリキッド・モダン社会との対比で人間関係がより切片化してきていること、欲望が待ったなしになり、軽薄・短小になっていることを描いている。愛は、情動と欲望でいわゆるその場の恋、長期的な関係を期待しないでとりあえずつきあう恋愛関係が主流になっていることを論じている。

 その上で、いわゆる宗教が説くような愛は、現代社会では無意味なのか。あるいは、希望として描かれないかについて論じているが、端的に、道徳とか社会的、制度的な愛はあり得なく、本当に親密圏における、もっというなら二人称でしか愛は存在しないとされる。

 愛の行為を選択することは1人ひとりの行為者に属する事柄であるため、それを社会規範に解消することができないことになる。こうした個人的行為の積み重ねによってしか出現しないというわけである。

 まぁ、一般論としてはよく分かるが、例えば、旦那が交通事故になって働けなくなって、四肢が動かせなくなっても、離婚もせず、浮気もせず、家庭を支える妻は、資本主義のロジックで恋愛関係を営んではいないと思う。特に険悪にならなくても離婚するカップルもいれば、どんなにいざこざがあっても傷つけあっても離婚もせずに長続きするカップルもいる。愛とは何か?中にも書いてあるけれど、打算抜きの相手への配慮である。自分自身に向かう求心的な感覚ではなく、「そこに存在する物へと拡張し、越え出て、手をさしのべたいという衝動」として、私から外へと向かう遠心的な力である。

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