災厄の痕跡

鈴木智之(2005)「災厄の痕跡」『社会志林』52(2), 19-47,法政大学

http://ci.nii.ac.jp/naid/110006199981

PDFあり

 副題は、日常性をめぐる問いとしての『ねじ巻き鳥クロニクル』(1)となっている。このあと、(2)もciniiに公開されていたので、そのうち寸評などを載せていきたいと思う。

 村上春樹の小説の中で、私が唯一読んだのが、このねじ巻き鳥であった。前に寸評した、ゼロ年代セカイ系の論文の中にも村上春樹が出てくるんだけど、何がセカイ系なのか、そしてしばしばポストモダンの代表的な作家としても取り上げられることから、この唯一読んだこの小説のことを書いた論文を読んでみたというわけ。この論者が捉える村上春樹の問題提起を以下のように記述する。

 村上春樹の作品-特に、長編小説-が描き出していたのは、「イズム」や「主義」の夢想から覚めて、「社会生活」へと引き戻された人々が、そこに生の拠り所となりうるだけの「現実」を見いだし得なかった状況であった。そしてこの点において、一つの世代の物語が、同じように「地べたにある」ような「現実」を実感し得ないその他の世代にも訴求力を持ち得たのだ、と言うことが出来るだろう。[…中略…]

 しかし、その物語が反復されればされる程、回帰すべき「こっちの現実」はますます心許ない世界、足場としてそこに立つことが出来ない脆弱な世界に変容していくように見える。[…中略…]

 自らの視点を基礎づけるような「本当の生活」など存在しない。その不在の感覚の中で、いかにして「現実」にとどまることが出来るのか、「現実」を生き延びることが出来るのか。そこに諸作品を通じて問われ続けている主題があったはずである。

 その後、ねじ巻き鳥は、他者との同一性をめぐる問い、身体と世界のつながりをめぐる問い、湧出する(歴史的)記憶をめぐる問い、世界を構築(秩序化)しようとする力との闘争がずれたり、もつれたり、重複したり、あるいは飛躍する形で複雑に物語が紡がれていると考察し、それぞれについてテクスト分析している。文学論にありがちな、心理学や哲学の援用などを交えて描かれている。ねじ巻き鳥に関する文学論の他文献はまだ未読であり、この論文の解釈だけでは把握しきれないが、この論文でなるほどと思ったのが、後半に世界を構築しようとする力との闘争についての記述であった。結局、だれかの世界構築の力~言説の権力的使用は意識することだけではなく、無意識的にも刷り込まれている。その言説は単なる「コトバ」ではなく、自己の生存に関わる命令文であり、自己の生を起動させる「言霊」である。だから言説は、自己を喪失させることもあるし、自分の生命力を失わせもし、また人との関係性にも重要な役割を与える物である。だから、その言説~命令文を書き換えるには、世界秩序を構築するための新たな言説を用意する必要がある。しかし、この言説を構築するのは、暴力の移行、あるいは創設的な暴力の間での選択であることを明らかにしている。結局、言説とは暴力であるし、どちらの暴力が正しいとかではなく、その人が生存するために選択されるものに過ぎないというわけである。そして、村上春樹が描くのは、その暴力の正当性ではなく、あくまでも正しさの不在の中で恣意的に押しつけられたものであるという身も蓋もない現実なのかもしれない。

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