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文学作品とエディプス的・前エディプス的な同一化

田中雅史(2008)「 文学作品とエディプス的・前エディプス的な同一化」『甲南大学紀要. 文学編』153, 57-83

http://ci.nii.ac.jp/naid/110007016724

PDFあり

 副題は、宮部みゆき『ブレイブ・ストーリー』その他を使った試論となっている。

 エディプスとは何か。簡単に言って、例えば父親のようになりたいと男の子が思うような同一化を指す。この同一化によって、社会的で現実的な欲望を持つことができるとされる。前エディプスとは、父親よりも男の子も女の子も、母親と自己が融合していると感じられる状態(包まれている感覚)から、分離してきたなぁと思う漠然とした不安感を指す。この論文の主旨、文学論についてはっきりとこの論者が言明しているところがあるので、抜き出しておく。

 作品に前エディプス期の精神内界という角度から光を当て、いわば作品を「機能」させ、社会的現実を作り出している同一化(そこには筆者である私自身も巻き込まれている)を解明する武器として文学作品を使おうというものである。文学という名の下に多くの人によって組み立てられてきた言語的構築物の蓄積は、このように実用的に役立てることができると私は信じるものである。

 おそらく文学論、あるいは人文の根底にはこうした願いが込められているんだろうと思う一文である。

 私は、ブレイブ・ストーリーも文中に出てくるドラゴンボールもNARUTO、ゲド戦記、村上春樹のネジ巻き鳥クロニクルもよく分かるのでついて行けるが、たぶんこうした作品を読まないとついて行けない内容だと思う。それだけに文学を論じることの難しさがあるんだろうと思う。そして、NRUTOを論じながら、クラインとかコフートとかドゥルーズ=ガタリが無造作に現れては消えることに違和感を感じてしまう。

 いずれにしろ、現実において、「よい」とされる対象や環境は現実ではもろく、そして厳しい。良き父もある日浮気をして別の女と別れることもある。その子どもにとって良き父で満足していたものがある日その自明性が崩れるのが現実である。強い母が、父の浮気から自殺を図ったりもする。かくも現実はある日冷酷に子どもに襲いかかる。それは、子どもだけではなく、大人の世界にもある。自明なものは何一つ無い中で、自分の自我は揺さぶられ、崩れ、そして生きるためには立ち直り、歩いていかないといけない。そうして前向きに生きている良き人々は周りをちょっと見ればいる。そうした人々にコンタクトを取って行くには、まずは自分と向き合うことそして一歩踏み出すことが必要である。その意味で、揺籃期のような前エディプスの退行もまた現実と自己を見つめ直すこと必要なことであり、そのことで画一的になりがちな自己のスタイルに複線をもたらす。前エディプス期は通常幼児期であるが、それは大人になっても必要なことなのかもしれない。

 生き直すことはできる。その揺れ幅がどこに向かっているかは分からないが…それでも、人の内界は豊かである。向き合うことは苦難が待ち受けているが、現実に疲れたときに、ふと頭をもたげる虚無感はもしかもしたら内界への旅の誘いなのかもしれない。

 いずれにしろ、ブレイブ・ストーリーを読んだ後にこの論文を読めば、もう一回読みたくなるかもしれない。そんな論文である。

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救護施設→知的障害児施設→通所介護施設(高齢者)と15年以上。これからも思考と体力で、働いていきます。

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