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人間存在の回復についての試論

加國尚志(2010)「人間存在の回復についての試論」『立命館大学人文科学研究所紀要』94,25-50

http://www.ritsumei.ac.jp/acd/re/k-rsc/hss/book/ki_094.html

PDFあり:独自リポジトリ

 簡単に言って、モンテーニュとデカルトの人間のとらえ方について詳述している。モンテーニュは人間は自然(神)と調和するべきであり、医学などの科学はあまり当てに出来ないと。心と体を統合し、自然(神)の声に耳を傾けるならば、人間そのものへと立ち返ることが出来るだろうと。デカルトは、心(頭)と体があり、頭によって体がある…二元論で有名である。しかし、そのベースとなるのは、自然の調和を目指すと言っても、私たちは判断を間違うものであるし、神の善意によって仕組まれた自然の教えに直接一致することはそれほど簡単ではないとする立場である。つまり、自然が教える感覚的触発の直接性と「自然の光」が与える正しい認識にあるのは人間の「自然=本性」の「弱さ」であると。

 とはいえ、私は考えるから、私は存在できるとするのも一面的で、現実生活において私たちは時として、思考を止めることが最善であることもあると考えられなくてはならないこと。それはただ考えないのではなく、考えないことが最善であると考えること。それは真理の問題ではなく、善の問題であると。

 こうした議論をベースに、自分たちの体は有限であるが故に、判断を間違う存在でもある。そして、客観的な科学的な視点で判断するという多様態の中にある事を示している。

 この論文を読んで、人とは何かと議論する上で、例えば理性と感情、あるいは知性と野性といった便宜的に線を引いて区別しているに過ぎない。しかし、いまや人々は説明の付かないような出来事が何となく知っているし、言語化されない様々なことが人間を形作っていることを知っている。その一方で、肉として、分子だったり化合物であったり、電気信号だったりもする。そして自分とは自分の所有物であったり時に他者の所有物になったりする存在でもある。そう思うと、人という存在とは一体なのか。それは簡単に説明が付かないという結論に達するしかないのではないかと思う。


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救護施設→知的障害児施設→通所介護施設(高齢者)と15年以上。これからも思考と体力で、働いていきます。

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