人間であることの野性に向かって

鳶野克己(2010)「人間であることの野性に向かって」『立命館大学人文科学研究所紀要』94,1-24

http://www.ritsumei.ac.jp/acd/re/k-rsc/hss/book/ki_094.html

PDFあり

CiNiiにはないが、独自機関リポジトリで色々収録

立命館大学人文科学研究所紀要↓

http://www.ritsumei.ac.jp/acd/re/k-rsc/hss/book/kiyou.html

 副題は、内なるカマラを思い、カマラを生きる となっている。

 人間とは何か。この根源的な問いを、かの有名な「狼に育てられた少女(カマラ)」を題材にネットリと考え抜かれているすごく読み応えのある論文。難しい言葉もあまりなく、哲学者の考察とか引用とかもほとんど無い。ただ一点、人間とは何か。そして人間になるとは何かである。

 私たちは人間であるが、その自覚は、どうやって為されるのであろうか。また、チンパンジーはどこまで人間的なのかという場合の、【人間的】とは何を指すのか。そんなこと考えなくても、人間は人間だろという向きもあるけれど、では、狼に育てられたカマラは人間なのか。生物的に人間であることには変わりはないけれど、それだけで普段私たちは人間とは考えていない。生物的にヒトは、他の生物と同じように、呼吸をして、食事をして、排泄をして死ぬ。それが自然であるが、それだけでは人間だとは考えない。先のチンパンジーの例でもあるように、どこまでが人間的なのかとか人間として生きるとはと思考してしまう。この論文ではあまり触れていないが、最近は、というか倫理学では、人間であるだけではなく、大人になるとは何かとか、良き人生を送るとは何か、モラル・理性が欠けている人間は人間ではないとかそうした基準で、人間を捉える。

 カマラは、結局、人間として正常の発達を示すことなく死んでしまうと言う意味で教育の失敗例とされている。また愛情深く神父が育てたが、人間として身につけるべき行動が身につかなかったことから、人間らしく育てようとした事への失敗として語られるし、やはり人間が人間を育てないと人になり得ないという言説で語られる。

 しかしカマラの気持ちになったとき、果たしてそうであろうか。母親であった狼は人間によって射殺され、奇異の目で見られ、分離されたこと。また、果たして、人間の中で育つことがカマラにとって幸せだったのか。知らず知らずのうちに人間の傲りというものはなかったのか。そして、人は人間ではない何かになる可能性が、カマラの中に見ることが出来るのではないか。そんなことをネットリと。

 野性と対比される形で人間が語られるが、人は野性へシフトする可能性がある。その変容は日常の中でも穴を開けて待っているのである。この論文では語られていないけれど、人間よりもより高い知能を有する生物や宇宙人がいたとした場合、カマラは私たちである。そして、カマラである私たちは、その宇宙人の知性や知能を想像できない立場に置かれるのである。その時、宇宙人たちは我々をどう観るのであろうか。

 あの有名な狼に育てられた少女のことはかなり詳しく、かつオルタナティブな視点と思考で語られているので、教育学とか発達心理学に興味のある人は是非読んでほしい内容。

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救護施設→知的障害児施設→通所介護施設(高齢者)と15年以上。これからも思考と体力で、働いていきます。

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