「『遊び』の充実」を志向する保育者のありよう

横井紘子(2008)「「『遊び』の充実」を志向する保育者のありよう」人間文化創成科学論叢 11, 247-257,お茶の水女子大学大学院人間文化創成科学研究科

http://ci.nii.ac.jp/naid/120001437841

PDFあり

 副題は、現象学的視座から「遊び」援助の内実を探る となっている。

 既にこのブログでも3本を紹介しているけれど、いま論文を作成している最中に非常にお世話になっている先生(といっても会ったこともないけれど)。

 この論文も、西村清和とガタマーをベースに、エスノグラフィーを使って、遊びの光景を描写する。西村清和については、これまで言及してきたので割愛するけれど、西村清和の遊戯論、中でも遊隙、遊動を中心に、子供たちの遊びの発展とは何か、そして援助者の役割とは何かを考察している。分かりやすい事例と西村らの遊戯論を前段階でしっかりと解説しているから、その後の考察がよく整理されていて、文章も構成もよく練られているのが分かる。さすが、お茶の水の保育、大学院の研究論文だと思う。

 しかし、最後まで読んでいると、ふと疑問に思うことがある。確かに保育では遊びは重要である。そして充実した遊びをするためには援助者は、遊び続けるように仕掛けていくこと。そのためには、遊びとは何かを深いところで理解すること。その点に関してはまったく異論はない。繰り返しになるが、保育という現場は遊びを教育のカリキュラムとしている。よって、上手く遊べなかったり、「保育の時間」で遊ばないのは、保育の失敗、あるいは根幹に関わる。ならば、よく遊ぶにはどうしたらよいか、あるいは充実した遊びを提供するとは何かと躍起にならざるを得ないのかもしれない。しかし、そのことによって、遊び続けるように援助者がある種の強迫観念をもって、遊動を発動させたり、遊隙を見出したりするのはガタマーや西村が考える遊戯論とはちょっと違うのではないかと思う。

 仕事や日常生活/生存の行動様式と同じように、人は遊ぶ。そこには優劣はなく、ただそうであるとしか言えないとする。よって、遊ばないこともまた当たり前のことであり、遊ぶことも当たり前なのである。だから、遊び続けないからと言ってそれが、良くないとかではないし、むしろ保育の時間であっても遊ばないという選択を行動様式の中にあることも折り込むべきなのである。そして、その時に遊ばなかったからと言って、次に遊ばないとも限らないし、むしろいつかは遊んでいるのである。充実した自己表現とかそんなのはむしろ後付であり、むしろ西村らから学ぶのは、遊びは人間の基本的な存在様態であるという一点であると思っている。

 とはいえ、継続研究を重ねている横井先生は、非常に熱心に遊びを描写しようとしている。そして、私も大いに参考にさせてもらっている。今後の活躍を期待する先生である。

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救護施設→知的障害児施設→通所介護施設(高齢者)と15年以上。これからも思考と体力で、働いていきます。

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