ループする日常と成熟という夢

片上平二郎(2009)「ループする日常と成熟という夢」『応用社会学研究』51, 79-91, 立教大学


http://ci.nii.ac.jp/naid/110007031117


PDFあり


 副題は、(先駆的「モラトリアム」の作家としての押井守)となっている。


 昔、BSで押井守の特集で主要作品を一挙に放送していたことがあって、それで何となくほとんど観てしまっていたので、押井守がどんな作品を作っていたのかを知っていた。なので、この論文に出てくる作品について想像できるし、読んでいてそういう解釈もありなのかという納得できるところが多々あった。特に、うる星やつらの劇場版、「ビューティフル・ドリーマー」にはかなり衝撃を受けた。


 以前にポストモダンの世界観について書いているけれど、努力すればみんな成長やそれに基づいた自己実現や自己確立という物語は終わりを告げた。同じような特定の枠組みの中で競争し、お互いを高めあっていくような物語ももはや存在しない。あるのは、いま目の前にあるさえない日常が変わることなく、出口を出ても、また同じような風景が広がるだけという閉塞感だけが募っていくそうした世界観である。オタク文化論では、メタフィクションという。「ビューティフル・ドリーマー」は、そんな時代的な雰囲気をよく表している内容だし、論文の解説は非常に納得できるものであった。


 その後、パトレイバー2における戦争とメディア、虚構と現実の反転、テロリズムと兵器、暴力のあり方などなるほどと思わせる描写が続く。最後に、成熟について、押井守はスカイ・クロラにおいて若い人たちに珍しくメッセージを発している。それまでの作品は、ループする日常にある種の焦燥感をもって描かれていたが、スカイ・クロラにおいては、終わらない日常の反復を前提としながらもその世界を“生きていく”ことの姿を丹念に描いている。脱出しようと焦っても、ただ息苦しさの感覚は増していくだけである。脱出に向けて焦ってしまうと言う自体も否定されることなく、ある一つの風景として認めるべき事でもあると。


 最後の文章に私は考え込まずにはいられなかった。



 「成長」を止めてしまった社会、つまり「成熟」を迎えた社会において、その中を生きる個々の人々にとって「成熟」というものがどのような意味を持つのか、という問いはいまだ大きな意味を持っている。「…中略…」これから訪れる“新たな“社会が、個々人のとっての“新しい“形式の「成熟」を生み出す社会であるのか、それとも「成熟」など不要な社会であるのかもまだ分からない。だが、いましばらくの間、私たちは「成熟」の“困難さ“という課題の中で思考を続けていかなければならない。



 しかし、その一方で私は思うに、確かに見える世界は同じでも、人は認識を変えることができる。自分が成長していることが努力によって実感できるのならば、それは自分の日常の成長であるのではないだろうか。押井守のこだわりもまた、初期に比べるとスキルも表現も格段に成長している。終わり無き日常であったも、努力は無駄と無気力になるのは違うと思う。ただ、努力すれば報われるという簡単な世の中ではなくなったと言える。成熟するためには、ある意味、一筋縄ではいかない努力と繊細さが求められているのだと思う。



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救護施設→知的障害児施設→通所介護施設(高齢者)と15年以上。これからも思考と体力で、働いていきます。

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