ゼロ年代「セカイ系」アニメにおける社会領域と公共圏

中垣恒太郎ほか(2011)「ゼロ年代「セカイ系」アニメにおける社会領域と公共圏」『大東文化大学紀要〈人文科学編〉』49

http://ci.nii.ac.jp/naid/40018750573

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 いわゆるライトノベルとかポップカルチャーでは「ゼロ年代」による小説群が最近よく目にするようになっている。または日本の現代哲学でもよく話題に上がるし書籍を目にする(東浩樹とか)。

 ゼロ年代とかセカイ系はよく聞く言葉であるが、そもそもそれが何を意味するのかよく分かっていなかったので、上の資料から簡単にまとめて雑感をまとめておこうと思う。この資料は駒澤大学でのパネルディスカッションで4人の口頭発表を分筆・再構成したモノで力作となっている。

 ゼロ年代とは、二つの出来事以後と称され、一つが「阪神淡路大震災」もう一つが「地下鉄サリン事件」である。未来への展望が見出しにくく、成長も発展もなく、混沌が増えていくだけという時代的雰囲気の中で生み出される作品群。

 セカイ系とは主人公とヒロインに関係する小さな問題が、具体的な社会領域の媒介無しに「世界の終わり」という非日常的な大問題と直結する物語構造。現実社会から閉塞した「終わり無い世界」を想像し、その中に自閉した物語を再生産される。それは現実世界における個人の無気力感の裏返しであり、この無力感が強ければ強いほど物語の中の個人の有能感は非現実的なまでに膨張するとされる。(引用作品:エヴァ、とある魔術の禁書目録、涼宮ハルヒ、村上春樹:IQ84、嘘つきみー君など)

 空気系とはセカイ系特有の「世界の危機」や「世界の終わり」という非日常は存在せず、代わりに〈日常〉という閉鎖的な領域で、とりとめのない〈日常〉エピソードが散在する。また「きみとぼく」という主人公とヒロインの恋愛関係がないし、自意識の変化や葛藤が描かれない。(引用作品:けいおん!、あずまんが大王、らき☆すた)

 この他ポスト・セカイ系としての『東のエデン』について論じていたり、富野由悠季(ガンダム)のコンセプトの変化などに論じている。

 セカイ系も空気系も共通するのは、ループする〈日常〉の閉塞性とか浮遊性であり、セカイ系はどちらかと言えば、ループする閉塞する日常からの脱出とか外により安定した日常があるとする考えが見え隠れする場合がある。空気系は現実の社会情勢が過酷であり閉鎖的と感じるが故に現実とはやや異なる「日常」を消費することで、その現実から一時的に解放感を得る事ができるとする。

 背景には1999年まであったノストラダムスや核の冬など終末論が盛んに消費され、「世界の終わり」が大きな物語として受容できる環境にあった。しかし、就職氷河期や衝撃的な事件の頻発などによって社会の不安定化が日常的に実感されはじめ、その世界観は「すでに終わってしまっていた世界」に終わりはないとするする時代的は雰囲気に変容していった。

 注意しないといけないのは、これはあくまでも「物語」であり、消費されるジャンルであることである。ゼロ年代「セカイ系」だけが文学ではない。ただセカイ系はこれまであまりみられなかったジャンルであり、それをツールに世界観を扱う一部の哲学者がいるに過ぎない。その時、セカイ系の世界観に囚われて動けなくなっている人がいたとすれば、それは本末転倒である。

 とはいえセカイ系から「多様性」を学ぶことができる。これまで現実か非現実かを選ぶとすれば現実を選ぶことが合理的で倫理的であるとする一元的な見方から、その現実すらその人の主観であり認識されたセカイであるとする「現象学的」視点に気づいたことである。多様な認識によって現実は構成されている思念の大切さ繊細さは、一元的で暴力的言説をも取り込みながら、より豊かな物語を紡ぐことを可能にしてくれた。

 そして思考は大切であり、思考に支えられてはじめて人は動くことができる。現実に対抗するには個人は無力であるかもしれない。けれども思考こそが、社会認識を変え社会を動かしているをセカイ系は図らずも示してきた。ここ最近の中東でのSNSを介した民主化運動や独裁政治の終焉は多様な社会への気づきと思考が変革することを示しているのではないだろうか。これはポスト・ゼロ年代~10年代となりうるのだろうか。それとも歴史が繰り返してきたクーデターや民衆運動の変奏にすぎないのだろうか。とはいえ、ここ最近の民衆運動はいつだって現実は変えることができることをよく現している。とするならば、セカイ系は逆に「世界は変わらない」ことを強調し、個人を抑圧する危険性があるのではないか。もし望むなら自分がこうありたいという世界へと作り替えることができる。世界側がそれをすでに示してきていたのではないか。

 ゼロ年代「セカイ系」によって終わり無きセカイは示された。ループする日常が描かれた。どこにも進行しない世界がある。そんな世界であっても仕事をし、子どもを育て、夫婦を営み、飯を食い、他者と折り合いながら、時に仕事でパワーゲームに巻き込まれながら生きることは合理的であるし意味のあることだと思うし、人が生きるって事はそれ以上でもそれ以下でもないと思う。そして現実の枠組みは広大でよりシビアである。そして「働かないと飯は食えない」という有史以来からの「大いなる物語」は健在である。

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救護施設→知的障害児施設→通所介護施設(高齢者)と15年以上。これからも思考と体力で、働いていきます。

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