家族の近現代

牟田和恵(2006)「家族の近現代」『社會科學研究』 57(3/4), 97-116,東京大学
http://ci.nii.ac.jp/naid/110004999163
PDFあり

 副題は、生と性のポリティクスとジェンダー となっている。
 この論文で、ほぼ家族を巡る言説を知ることが出来る良い内容である。特に、前提となる近代家族のこと、そして、ポスト(脱)近代家族の議論を比較して読める内容である。近代家族とは、異性愛による生殖行為を通じた生産が政治的にも社会的にも望まれた形である。中でも、性差が科学的な言説によって巧妙に、イデオロギーとして人々の中に浸透し、男らしくとか女らしくといった社会的な役割が付与されている事への疑義はなるほどなとうならせる内容である。近代市民社会において、セクシュアリティとジェンダーとセックス(解剖学的性差)が同延上に重ねあわされ、ある種の異性愛を強制するヘテロセクシズムが作られていったという引用がそれを物語っている。途中、明治天皇と皇后の報道、ケア労働についての考察も面白い。最後の同性愛者の絆・友情と延長線上の結婚の記述は、新しい家族の在り方を想像させてくれる。良い内容である。

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介護施設職員の抑うつ・ストレス反応と関連要因の検討

原田小夜・宮脇宏二(2013)「介護施設職員の抑うつ・ストレス反応と関連要因の検討」『聖泉看護学研究』 2, 9-17
http://ci.nii.ac.jp/naid/110009585690
PDFあり

 小難しい数式とか統計でよくわからなかったので、結論を斜め読みし、結局、障害者施設よりも高齢者介護施設でのストレスと抑うつ傾向が高いことが示されていたこと。また、中でも特養では、夜勤による不規則勤務、長時間勤務などが影響している事。また、相談者も少ないことなどが示唆されていた。また、仕事の満足度も介護施設では他の施設よりも低い傾向にあった。端的に、自分のやっている仕事に対して生きがいとか使命感よりも、過酷な労働環境、スーパービジョンを含め話を聞いてくれる人が少ない事とが原因であると…

夫婦の不仲は親子の不仲」か

野田潤(2006)「「夫婦の不仲は親子の不仲」か」『家族社会学研究』 18(1), 17-26
http://ci.nii.ac.jp/naid/130001590443
PDFあり

 副題は、近代家族の情緒的関係についての語りの変容 となっている。
 近代家族を調べる上で、最初の方で採集した論文。面白いのが、1914年から2003年の読売新聞の悩み相談欄での親子・夫婦の相談に関するものを取り上げ、助言者がその時々でどのような答えを載せているのかを分析している。
 家族成員間の情緒的な結びつきが近代家族の重要な要素であるが、それが夫婦の事なのか、親子の事なのかがしっかりと区別されていないことから、どの時点でどうなったのかを明らかにしている。その結果、1930年代までは夫婦の問題は、子供に及ぼさないとする言説であり、時代とともに変容していったことが分かる。そして、こうした問題を区別することを通じて、ある関係性が崩壊した時に、別の関係をも破たんさせないような仕組みがあるとされ、今のように、親子の問題も夫婦の問題も浸透し、一体化した中では、どちらかの関係が崩壊した場合、一緒に破たんするという意味で、息苦しい社会であるとする結論は納得できる。いずれにしろ、昔の相談とかが例示され、読みやすい内容となっている。

グリム・メルヘンに登場する4人の「魔女」たち

大淵知直(2001)「グリム・メルヘンに登場する4人の「魔女」たち」『藝文研究』 81, 177-160,慶應義塾大学
http://ci.nii.ac.jp/naid/110000422458
PDFあり

 副題は、魔女・魔法使いの女・賢女(けんにょ)・老婆 となっている。
 一般に、特に日本においては魔女といえば、一種類しか思い浮かべないけれど、グリム童話では副題の通り、4種類の使い分けがある。語源とか登場の仕方とかを様々なグリム童話から例えて論じており、非常に読みやすい内容となっている。
 魔女は、そのままの通り邪悪なイメージである。魔法使いの女は、もとは運命の女神のような、妖精のような存在であるが、加筆されていくにしたがって、悪寄りになっていった。賢女は、善の側にあり、主人公に様々な手助けをしてくれる。老婆もどちらかといえば善であるが、賢女のような役回りであるが、手助けというよりも、助言とか示唆を与える程度で賢女よりも控えめであるとの事。
 共通するのが、人里を離れている事や捨てられたような存在であること。そこに女性への扱いの時代背景を読み取ることが出来る。童話好きな方で、雑学としては丁度良い内容となっている。

配偶者間介護と家族ダイナミックス

春日井典子(2003)「配偶者間介護と家族ダイナミックス」『甲南女子大学研究紀要. 人間科学編』 39, 39-48,
http://ci.nii.ac.jp/naid/80015923340
PDFあり

 副題は、介護者の語りをとおして となっている。
 介護保険が始まり、介護の社会化が謳われるようになっているが、近代家族の言説は根強く、特に高齢者にとって、夫婦間での介護では、妻は夫の面倒を見るべきであるとか、子供には迷惑を掛けられないとする言説は根強い。これはいくつかの事例を基にじっくりと描かれており、読むに値する内容である。というか、これがおそらく現実なんだろうと思う。特に、夫が妻を介護する場合は、子供世代や介護サービスに対して開放的であるが、妻が夫の介護をする場合は、自分一人でやろうとすることや他の介護者の手を借りようとしないといった閉鎖的である。それがいくら周りに手伝っている人がいたとしても…である。妻の心情をよく表している内容である。そして、それを縛り付けているのが、近代家族とかこれまでの生活の中で形成された関係性である。読めば読むほど考えさせられる内容となっている。夫婦関係システムの閉鎖性、夫婦関係は最も親密で排他的な関係であり、夫婦は健やかなる時もやめる時も愛し助け合うという夫婦愛原理や男は仕事、女は家庭という性別分業規範などは、子育て期には適合しても、高齢者介護に置いては、核家族の自律性原理のような排除する原理があるとする視点はかなり示唆に富んでいた。

福祉改革と家族変動

藤崎宏子(2004)「福祉改革と家族変動」『福祉社会学研究』 2004(1), 113-125
http://ci.nii.ac.jp/naid/130001928738
PDFあり

 副題が、二つの制度領域間のインターフェイス となっている。
 二つとは、社会福祉制度と制度(法)的な意味での家族である。言い換えれば、家族と社会が、子育てや高齢者介護をどのように分担し、責任を持つかという事を論じている。これは、日本型福祉社会とか近代家族の言説に則り、自助努力や家族(世帯)単位での生活保障を政府が行ってきている。また、女性へのケア労働を担わせる暗黙の了解への批判など、広範囲に論じられている。後半に、家族よりも個人単位で考えるべきだとする立場に立ちながらも、実際は、家族が介護をしているという現状の中、当事者とは介護されている本人だけではなく、家族も含めるべきという事。しかし、家族の意思が前面に出ることで生まれる不利益もあるので、その辺をどうバランスをとるのか。それが家族と福祉制度のインターフェイスであろうと思う。

「近代家族」思想と社会福祉

田中秀和(2012)「「近代家族」思想と社会福祉」『新潟医療福祉学会誌』 12(2), 67-72,
http://ci.nii.ac.jp/naid/120005058843

PDFあり

 要約にあるのを若干引用

 今日の日本は福祉国家であり、それを実現するために政府は様々な社会福祉政策を行っている。「…中略…」筆者は社会福祉政策には、政策立案者や社会福祉専門職者が無意識のうちに「当然」と考えている思想が各々の政策に通底しているのではないかと考える。そうした仮説に基づき、本稿ではその答えを「近代家族」に求め、その歴史と課題を整理する。「…中略…」 また、結論として、社会福祉に関係する職業に携わるものは、「近代家族」像に対しより自覚的になり、その規範から外れたマイノリティに対しても支援の手を差し伸べる必要性を訴える。「…後略…」

 近代家族は、気づく、気づかないとは別に、独身であっても、理想の結婚像とか夫婦像、家族像を描き出し、そしてそうした理想に合致するように考え、ふるまっている。しかし、近代家族の規範、夫婦和合とか男は仕事、女は家庭とかそういうのが生まれたのは、近代、明治後半から大正に生まれた言説であるが、それがあたかも古代からあるかのように政府が情報を流布しているにすぎないとする視点は明記しておくべきである。この論文を読んで、言いたかったことを先に言われたとちょっと「しまったなぁ」と思った。

社会福祉理念の変更と介護保険制度

吉田明弘(1998)「社会福祉理念の変更と介護保険制度」『川崎医療福祉学会誌』 8(2),279-288,
http://ci.nii.ac.jp/naid/110000479266
PDFあり

 介護保険が出来るころの論文で、古いが、介護保険の狙いとしては日本型福祉社会の総仕上げであったとする視点は今も正しいと思う。日本型福祉社会とは聞こえが良いが、自助努力、家族の連帯による私的領域でのケアリングを重視し、公的ケアの抑制=国費抑制を旨とする福祉モデルである。そもそも、この日本型福祉社会が提唱されたのが、1970年以降のオイルショックなど財政危機を理由に福祉見直し論が台頭したころである。そして、今、介護保険により、介護の社会化がなされたというものの、いまだ家族介護を当てにしているのは周知の通り。短い論文だが、日本型福祉社会についてよくまとめている。

戦後日本における<家族主義>批判の系譜

阪井裕一郎・藤間公太・本多真隆(2012)「戦後日本における<家族主義>批判の系譜」『哲学』128,145-177,三田哲學會
http://ci.nii.ac.jp/naid/40019301962/
PDFあり
 副題は、家族国家・マイホーム主義・近代家族 となっている
 近代家族についての学説を大まかに概説した内容となっている。
 日本においては、家族とは家父長制が広く知られるところである。その後、マイホーム主義、核家族が主流になっているが、なぜ家族の形が大事かというと、国の秩序形成のためには、理想の家族形態を示す必要があったからである。家父長制が民主的とか主体、社会的連帯を阻害するものとして批判され、マイホーム主義もまた閉鎖性や社会への無関心さとかエゴイズムであるとする観点から批判されるようになる。そして、つまり自明だと思える、家族とはこうあるべきだとする言説は、その時々で移ろうものである。この論文は、その辺のことをじっくりと記述しており、とても勉強になった。
 近代家族を語る上では、家族成員間の情緒的なつながりが最も重要なキーワードになる。男女が、恋愛などのロマンティック・ラブによって婚姻し、生殖活動を行い、子供を愛情深く育てること。これが社会秩序にとって重要なことであると。この論文は、家族の在りかたを問うとはいかに政治的なものであるか。また、こうした政治的な意図が個人の家族に深く浸透しているかを読み取ることが出来る内容となっている。最後に書かれている、家族に縛られることなく、でも解体する事でもない生き方を模索するべきなのかもしれないとする記述に考えさせられた。

西欧近世における魔女・供犠・エロス

黒川正剛(2008)「西欧近世における魔女・供犠・エロス」『太成学院大学紀要』 10, 63-77
http://ci.nii.ac.jp/naid/110006966917

PDFあり
 息抜きで、魔女狩りとかオカルトとかその辺をサイニィで検索し、適当に落とした論文だった。しかし、これは面白かった。貴重な銅版画や当時の裁判記録などを引用しながら、どのような人が魔女狩りにあったのか。処刑が、見せしめであったと同時に、供犠の様相を持っている事。しかし、魔女狩りでの供犠は、宗教的な意味で神にささげるというよりも、キリスト教による裁きという意味では、厳密な意味での供犠にはなっていないことなどをじっくりと論じられている。
 何より、いたたまれないのが、魔女として、魔女ではないかもしれなかった「女性」が常に犠牲になっている事。また、裁判記録から処刑されたのは、たぶん、言われもなき罪をかぶせられた最下層の人であること。無理やり自白というかでっち上げられた裁判記録を基に観衆に嘲られ、好奇のまなざしを持って、あるいは性的な興奮を伴って処刑されていたのは、尊厳を損なわれていたのは、そうした名もなき最下層の人であったという事実である。社会が抑圧的であったり、抑圧しないと体制が維持できないほどに脆弱になった社会では、こうしたガス抜きが、最下層の犠牲の上に成り立っている。これは、中世の出来事だけではなく、現代においても「ある」出来事である。考えさせられる内容である。

「近代家族」の概念実践

上谷香陽(2007)「「近代家族」の概念実践」『応用社会学研究』 49, 163-173,立教大学
http://ci.nii.ac.jp/naid/110006221636
PDFあり
 副題は、日本版「名前のない問題」のアポリア となっている。
 名前のない問題とは、物質的な豊かさが保障され、愛する夫と子どもを世話する毎日。幸福であるはず、幸福でなければならない境遇で不可避に感じてしまう不安や不満。しかし、なぜ自分が不安なのか、何に不満があるのかを、説明できない。むしろこの境遇で不幸を感じてしまう自分自身に、何か深刻な問題があるのではないか。妻たちは出口の見えない、いわゆる『名前のない問題』を抱え込んでいる。
 こうした視点で、山本文緒の「あなたには帰る家がある」という小説を手掛かりに専業主婦の主人公が子どもへの漠然とした不満、社会からの孤立を描いている。また、それにとどまらず、夫の立場での家族とは何かを引用しながら分析しており、どちらにも感情移入しつつ、近代家族の規範意識を鋭く問う内容になっている。
 ひょんなことから近代家族のことを調べ始めた私にとって、近代家族とは何かについて、この論文を読むまでいまいちピンとこなかったところがあった。しかし、この論文では小説とはいえ、一つの家族の中にどのような規範が入り込み、しばりつけ、問題として存在するのかを具体的にイメージすることが出来た。イエに縛られているのは、妻だけではなく、夫も同様であり。そして、問題はイエを自明視している夫の方にあるのではないか。もし家族の関係が崩れた時、再構築できるのは妻なのかもしれない。そんなことを考えてしまう内容である。

看護短大生と文系短大生の性意識・性行動に関する調査とその比較

石沢敦子(2006)「看護短大生と文系短大生の性意識・性行動に関する調査とその比較」『桐生短期大学紀要』 17, 189-194
http://ci.nii.ac.jp/naid/110006392237
PDFあり
 ジェンダーとかその辺のことを調べているうちに、迷い込んだ論文。息抜きのために読んだ。比較としては、予想通り、看護短大性の方が、性感染症とかの教育に関してはあるのがわかるが、文系、看護系共にそれが実際のパートナーと共有しているかといえば、決してそうではないという結果になっている。また妊娠に関する心配はあるものの、避妊はほとんどがコンドームに頼っているという結果になっていた。避妊に関しては、ピルが最も確実であるが、それを選択することは少ないことも合わせ、買いにくいとか売っている場所が分からないといった情報不足も問題視されている。

 ちなみに性行動をした事のない層は、この年代では看護系では37%、文系では約21%という結果であり、経験者の初体験は全体で16~18歳が半数を占めていることになっていた。もっとも、看護系は一年から三年をそれぞれ70名前後で、文系はひとくくりに76名ということから、調査にバラつきがあることは仕方のないことだし、それが主眼のものではないので参考程度に。

プロフィール

kuma

Author:kuma
救護施設→知的障害児施設→通所介護施設(高齢者)と15年以上。これからも思考と体力で、働いていきます。

自分のサイトもあります。
kumaの学習ノート

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