NPO介護福祉系について2本

 介護福祉のNPO法人関係について二本まとめてみた。この論文の共通性は、介護保険における硬直性や事業展開の困難さにある。

 共に、PDFあり

 金谷は、介護保険が成立した当時は、民間団体の投入やその当時にNPO法が脚光を浴びていたため、介護系NPO法人がかなり設立していたこと。しかし、介護保険制度がある程度浸透したときに、NPOの存在意義が薄れていっていることを背景に、現在、どのような状況にあるのかを調査している。特に、介護保険は万能ではなく、むしろ消費者として排除される存在をカバーできないこと。また、介護保険以外のサービスは提供できない。あるいは、上乗せ横だしのサービスは中央の集権的な意向もあり、各自治体ではあまり機能していない。そうした中で、NPOがニッチなサービスを提供する役割が求められている。調査の実際としては、生活の切れ間の無いようなサービス提供やいわゆる痒いところにも手が届くような日常的なサポートが中心であることが分かる。しかし、運営自体は、介護保険内での収入にかなりの部分頼っていること。またボランティア的なため、人材確保や育成が思うようにいかず、リーダー的存在の育成ができないことなど多面的な調査結果を論じている。よく調べられた内容で、興味のある方は読み応えがあるかと思われる。

 本郷は、2003年と2006年に介護系NPOで働いているSW(社会福祉士)の実態調査を行っている。結果的には、SWは必ずしも必要であるという訳ではなく、といっても不要というわけでもないということになっている。金谷も述べているように、NPOは介護保険制度以外のサービスを提供することが特徴としてあげられる。しかし、制度が10年以上運用されていく中で、そうした制度外のサービスを提供すること自体が難しくなり、制度によってカバーされるようになり、翻って、こうしたNPOの独自性が薄まってきている。制度外のサービスを提供するためには、地域住民からの相談やニーズの発掘、社会資源の活用や独自サービスを企画・運用すると言ったSW的な視点を有する必要がある。本郷の調査結果からも、社会福祉士よりもケアマネや介護福祉士の人材を求める傾向が強くなっていること。また、社会福祉士でなくても相談に応じることが出来るなど、特段、社会福祉士が必要ではないという現状が浮かび上がっている。とはいえ、社会福祉士の配置自体は増えており、そのニーズは相談業務以外の法人全体の活動など総合的な専門的な判断を持つスーパーバイズ的な存在を求めているようである。また、一様にNPOは財政が不安定であり、それが社会福祉士を配置することを困難にしていることも明らかにしている。


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ワーキングプアとか子供の貧困とか3本

 今回は、ワーキングプアについて実態調査と子供の貧困の連鎖を集めて読んでみた。共通するのは、低学歴であること、また親世代もまた不安定な労働環境であったり親もまた低学歴であることだった。参考にした論文は下記の通り。

 福原は有料(367円)、他は無料PDFあり

 福原は、労働運動、連合の立場から大規模な調査を行っており、その紹介となっている。数的調査では620件のアンケート、聞き取り調査では大都市圏を中心に120人となっている。その中から、この論文は、特に聞き取り調査の概要を論じている。シングルマザーのような就業の機会の狭さなどによる貧困も際だっているものの、だいたいが、転職を繰り返していきながら、リーマンショックなどで派遣切り就労機会の減少からにっちもさっちも行かなくなっていく様子が具体的な数字を元に描かれている。また、学歴でもワーキングプアになりやすい属性としては、高校中退や大学中退などなんらかの「つまずき」によって就労が限定されていること。また親世代の教育への熱心さ、親自身も低学歴であることなどから、子供もまた低学歴であることが示されていた。またワーキングプアの仕事の周縁性や雇用への不安定さは、職場への接合を不確かにさせることなど、様々な社会的排除について具体的な数字を元に明らかにしている。

 西田は、いわゆる低学歴の子供が大人になってどのようなライフコースを歩むのかについいてインタビューを元に構成した非常に興味深い論文を書いている。低学歴、フリーター、ワーキングプアなど社会的に抑圧された子供が犯罪を起こすのかどうか。最初は、犯罪を起こしがちであるという観点から書いてあるのかなと思って読み始めたが、どうも槽ではないという結論に持って行っている。というのも、親も低学歴だったり不定期労働などいわゆる底辺とされる階層で育つと、自分もまたそうしたライフコースをたどるのが「自然な移りゆき」だと思うことを様々なインタビューを元に描き出している。よって、非行や逸脱行為は、不満とか反抗と言うよりも楽しいから行うのであり、強さを認められるためにけんかをするという「遊び」であるのである。そして、将来こうしたいとか上昇したいといった欲望よりも、どうしたいという見通しがなく、そのまま移行していることが明らかになっている。そうした視点で、フリーターとはもともと学卒後の一括就職で安定した職業のルートに乗っていない若者という意味である。その意味で、中・上層の若者の姿を一般化している。それは希望の喪失と描かれる。しかし、貧困・生活不安定層出身で不安定就労状態のある若者はそのカテゴリーに含まれていないことを明らかにしている。

 も西田同様、家族の低学歴や教育へのモチベーションがない中で育つ子どもは、同じライフコースをたどることを3名の10代の女子から聞き取り調査をしている。この論文は、一人ひとりのライフコースをじっくりと個別的に描いたあと、進路選択に至るまでの日常生活というカテゴリーでコラージュした内容となっている。インタビューをじっくりと載せており、臨場感がある。特に最後の方で、経済的困窮(家庭内不和や離婚などなど)で、学業に専念することが出来ないことによる学業不振やお金がないことなどに起因した様々な学校という空間からの排除、周辺化を経験することで、友達などが出来ずに帰属感が希薄化する。そのため、たとえ不安定な環境であっても家族にますます引きつけられることになる。そのため、自分の世界を相対化して見たり、将来への展望を描くという動機も希薄化し、これで良いのだと思うようになる。何も学業だけが生きる道でもないというわけである。確かに、そうした学業だけが生きる道ではないが、狭い世界観だけであればそれは結局の所貧困を連鎖させる結果になる。西田もいうように、自分が貧困であると言うことすら知らないのである。アンダークラスと命名するのは、中・上層社会に属している人たちであるからだ。しかし、アンダークラスであること自体一旦認めた上で、それでもそこから上がっていく道筋を見つけるのがやはり教育である。生まれながらにしてアンダークラスの人がいる一方で、転落して途中からアンダークラスになる人々もいる。そうした人々が再び安定的な収入を得て、精神的にも物的にも安定した暮らしをしていく道筋を作る必要がある。それが憲法25条のいう文化的で最低限度の生活の保障なのであるのだから。子どもの素朴な受け答えに考えずにはいられない内容となっている。

 貧乏でも、親が低学歴でも子供自身が努力して、サクセスストーリーを歩む例は芸能界や芸術あるいは起業の中で散見されるが、それはごく一部で、その下には屍が累々積み重ねられている。しかし、それを屍と見なすかどうか。大卒や研究者、あるいは経済界は、そうした低学歴で不安定労働に従事している若者や労働者を、「仕方のないこと」「当たり前」と見なしているのではないだろうか。それは、世界的にも歴史的にもそう見なしてきたと言える。しかし、いわゆるアンダークラスの人々を非難し(努力しないとか怠惰であるとか)、抑圧する(馬鹿にしたり無視したりする)ことは、歴史的にも暴動と化すことは歴史が証明している。必要なのは、こうしたアンダークラスの人々がいること、社会の多面性や重層性を可視化し、適切な支援を行うこと。それが社会の包摂でも有ろうと思う。



縄文文化など2本

 何となく縄文時代の宗教観とかそういうのを読もうかと思って手に取った論文2本。

 すべてPDFあり

 中島は、非常に詳細に縄文時代の紀行の変動から狩猟時代の光景を生き生きと描いている。西日本と東日本では風土が違い、また樹木の形態から東日本は非常に狩猟や木の実などの採集に適していたために、稲作へ移行するまで西日本とはかなりのタイムラグがあったこと。また温暖期から氷河期になって行くに従って、川の堆積の具合から西日本の方で稲作に適していたことなどを詳述している。また宗教的には、土偶や蛇への信仰があったことなどを紹介。特に蛇は何度も脱皮したりしていくことから円環を指していることから特別視されていたことなど興味深い。いずれにしろ、縄文時代の生活を本当に分かりやすくそして面白く書かれており、高校の授業でも使えるんじゃないかと思えるほど参考になった資料だった。たぶん、こんな事を話してくれる先生がいたら、もっと歴史に興味を持っていただろうなぁと思ったり。いずれにしろ、この論文を踏まえると、縄文時代の発掘報告会でも納得できる予備知識となることは間違いない。

 青野は北海道の縄文文化とくに貝塚などについて紹介。北海道は、本土に支配されるまでアイヌが支配しており、アイヌが狩猟を中心に生活をしていたことから、こうした貝塚が近代まであった。そのため、海獣(アザラシなど)の骨が多数出土している。とにかく、北海道は特に海のもの(サケなど)が豊富に取れていたこともあり、長らく狩猟が文化として残っていたことが分かる。豊富な図説や写真などから北海道独特の文化を知るきっかけになる資料である。また貝塚も、単なる捨て場として使われたモノから、動物儀礼的なものとして丁寧に埋葬されたと思わしき犬の骨などといっしょに出てくるケースや、物送り場として、物の霊を天国に送った骸として扱ったりする場所などが出ていることを紹介している。

 これらをつきあわせて考えると、なんだかんだ言って、稲作といった定住や食糧の安定供給が難しい時代にあって、乱獲は厳禁だったろうし、温暖期で人口が増えていっても氷河期で減っていくなどの試練がある以上、こうした祭祀的な動物や食物、あるいは自然への信仰は必然であった。それは、餓死や病気などで亡くなっていく人を鎮魂をすることや、儀礼を施すことで、生き残っている人々は、自然への諦念(ままならないこと)を意識することが生きる術であったことも容易に予想される。

生活保護とか4本

 今回、生活保護などの関連論文を4本。

 すべてPDFあり

 生活保護と聞くと、なんとなく自分とはあまり関係がないような気がする。また生活保護を受けていて、パチンコをしに行くとか、仕事もしないで酒ばかり飲むと言った、自堕落な人という印象を持つ。あるいは、フルタイムで働いていても生活保護以下のサラリーしか手にしていない人もいるのにと批判的な眼差しで見られる。

 またその一方で、では生活保護の成立過程や原理、歴史的背景、実際の運用などはあまり知られていないし、福祉系大学でも公的扶助は割と分かりにくい教科となっていたし、実際私も余りよく分からなかった。

 というのも、多分、生活保護を受給した場合という実感が湧きにくいってのが先にあるんだろうと思う。なんでもそうだが、イメージが湧かないというのは理解がもっとも難しい。

 その中から、実際に生活保護を受けている人々の実態などを中心に読んでみた。

 村田は、石川県金沢市のホームレスから生活保護を受給した人、5人から聞き取り調査を行っている。実際に自分がホームレスに転落するまでのいきさつから、生活保護を受給する際の行政の対応までを詳細に論述している。一人ひとりのケースを分かりやすく、そして具体的に書かれており、行政の冷たい対応まで色々と考えさせられる。際だったのが、生活保護を支援する人が同行した場合はすぐに申請が受け付けられるが、一人で行くとかなり冷たい対応をする…どうしてそうなんでしょうねと。そして、一人ひとりの人生を読むにつけ、転職、ケガ、病気、借金など人生の中で起きる様々な出来事のちょっとしたことですぐに転落してしまうことを知ることが出来る。読んでいて身がつまされる内容である。

 森満は貧困家族で生活している子どもたちにスポットを当てている。学校生活上でも、貧困家族の子供は成績が非常に悪く、そして将来に対してもかなり投げやりになっていること。こうしたことに教員は、できるだけ貧困であることを隠そうとしていることなどが、エスノグラフィー(民族誌)的手法で書いてある。この手法によれば、一つの物語(ストーリー)として描くことが出来るので、インタビューでは、一人ひとりの状況にスポットが当てられるため、個別的な印象を持つが、エスノグラフィーは、その実態が、生徒・教員サイドが文脈に沿って構成されるため、一つの物語として読むことが出来る。この論文を読んで、前に生活保護を受給するまでに葛藤した家族の番組を思い出す。母親は精神病で引きこもり、祖父は24時間介護が必要な状態。父は不況のあおりで失業と就職を繰り返す。そんな中健気に家族を恨むことなく、宿題から家事までを行う小学5年生の女の子。靴下は汚れ、着ているモノも汚い…当然、友人もほとんどいない…それでもその女の子は学業やスポーツは成績が良かったから、学校に居場所があったが、それでもそうした状態が続けば…貧困は連鎖する。そして、学校側も限界がある。そんなことを考えさせられた内容だった。

 河原は、授業で派遣切りについてどう思うのかを中学三年の最後の授業で行った内容をレポートとしてまとめたもの。この大失業時代に、首を切られた派遣社員は文句を言いすぎること。派遣という楽な道を選んだのは自分である。働くところはいくらでもある。文句言う暇あったら仕事探せといった論調である。こうした派遣切りについて国の責任と企業を弁護する、自己責任論が結構根強い。このレポートでも授業の最初の方では、そうした論調が強い結果となっている。しかし、なぜ派遣が奨励されたのか、ワークシェアは何か。サブプライムローン問題や景気とは何かを学んでいきながら、みんなで討論をした内容。これ授業で使ったらとっても面白いんじゃないかと思うような内容。中学のみならず、高校でも使えるんじゃないかと思える。こうした多面的な情報をつきあわせ、単に感情論だけでは済ませないようにすること。これが思考するって事だろうと思う。もし、あなたが、簡単に解雇されたら…、そして守る術を知らず、皆に自己責任だろって切って捨てられるとき、あなたはどう思うだろうか。まぁ、「しょうがない」と言って自分で何とかするんでしょうけど…それで良いのかどうか。

 村上は、経済哲学と小難しい名前で書いているけれど、アマティア・センの理論を援用しながら、人々は単に最低限の生活水準を保つだけでは、生活を保障されたとは言えないこと。それは単に公正性や金銭給付でいくら上げたらいいのかと言うことでもないことを論じている。そもそも母子加算とは、母子家庭の貧困が明らかであるから加算がついていたのだし、老齢加算でも、高齢者独特の事情を鑑みて出されていたのであるが、それが公平性の観点から廃止となる。しかし、生活保護自体が、単なる社会保障ではなく、社会福祉としての役割があり、その理念は、単に最低生活の保障ではなく、人間らしく生きて、究極的には自立した人生を歩むための制度であることを確認している。その意味で、センのベーシック・ニーズの理論は、人々の生活と個人の自由に影響を与える決定過程への人々の参与が根底にある。これは、単に生活保護を支給する行政側の意志決定に従うのではなく、自分の生活や行動の自由を確保するためにこうした支給する側への意見する自由を認めることにある。その他、詳しく論じられており、おそらくそこから、ベーシック・インカムの議論へとつながっていく理論的要素が多分に含まれている。そうした議論の基礎的な資料であると思われる。

介護保険制度と福祉行財政

山本隆(2002)「介護保険制度と福祉行財政」『立命館産業社会論集』37(4),13-39

http://ci.nii.ac.jp/naid/40005482032

 PDFあり:ただし下記独自リポジトリより

http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/ss/sansharonshu/374j.htm

 副題は、介護保険制度実施2年間のレビュー となっている。

 副題にもあるように、介護保険が始まって2年目の評価についてとなっている。現在、10年以上経過しているし、すでに介護保険事業計画が5回改定されている。改定でも抑制一辺倒でもなかったりしている。なので、その当時と言うことで読むと良いかと思う。

 この手の制度分析などは、既に沢山の論文を紹介しているので省略。この論文の特徴は、一つの論文ではあり得ないほどの調査報告をぶち込んでいること。

  1. ホームヘルパーの派遣事業のプロセス(措置制度と介護保険の比較)
  2. 特別養護老人ホームの入所プロセス
  3. 介護保険制度実施に伴う事業費及びサービス量の変化
  4. 措置制度と介護保険制度における専門職者間の連携に関する比較
  5. 護保険制度下におけるケアマネの現状である。

 結論として、サービス利用者における一定の進展が見られたこと。しかし、全体として市場的アプローチによって様々な問題が生じていること。民間事業者の参入によりサービス量が拡充したが、点検が必要になったこと。そして、利用者負担による利用抑制が顕著であることなどを明らかにしている。

 考えようによっては、介護保険は強制加入により、介護サービスの利用という間口を拡げた。そのことは喜ぶべきことである。またある一定の自己負担は健康保険などでも既に施行されており、自己負担の利用抑制はその様な問題ではないのではないかと思う。問題は、利用者、事業者のモラルハザードであり、2002年以降にコムスン問題などのチェック機能が課題になるだろうと思う。多様な調査を行った労作である。


高齢者ケアを実践している専門職の専門性・弱点に関する認識と多職種連携

袖山悦子・志田久美子・小林由美子ほか(2012)「高齢者ケアを実践している専門職の専門性・弱点に関する認識と多職種連携」『新潟医福誌』12(2),41-47

http://ci.nii.ac.jp/naid/120005058839

PDFあり

 介護老人保健施設での看護師、介護士、リハビリ、栄養士のそれぞれが弱点と思っていること。また連携する上でどのようなことを心がけているのかを調査したものとなっている。栄養士は、普段の生活が把握できないことなどを挙げている。また看護師は医学モデルで見てしまうことを弱点として意識している。介護士は逆に医学知識の不足や業務範囲が狭いことなどを挙げていた。リハビリも栄養士同様リハビリ以外の生活が見えないことなどを挙げていた。連携に関しては、それぞれの弱点を補うために各専門職からの意見などを情報として取り入れて多面的に判断するようにしようとしていることが共通としてあげられている。そして情報収集をする核としては看護師がダントツ重要視されていることが明らかになっていた。また、逆に連携しづらい事として、職種よりも個人によることや相談する時間が取れないなどが上がっていた。

 このように考えると、どの職種も自分たちの業務範囲を意識してはいるが、できるだけ多くの情報を把握しながら、目の前の利用者を理解しようとすることが分かっている。考えてみれば当たり前のことであるが、人々は業務範囲だけでは仕事はしていないし、判断はしていないのである。その判断は様々な意見の中からつきあわされて下されるのである。

 読みやすい内容で、たぶん高齢者福祉の施設関係者ならばうなずくことが多いかと思う。

障害者の就労と多様な『自立』支援策の必要性

石倉康光(2008)「障害者の就労と多様な『自立』支援策の必要性」『立命館産業社会論集』44(3),41-62

http://ci.nii.ac.jp/naid/40016826032

PDFあり:ただし、下記のリポジトリから

http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/ss/sansharonshu/443j.htm

 副題は、知的障害及び精神障害を持つ人の本人調査をもとに となっている。

 題名の通り、就労を通じて障害者は自立をしているのかを論じている。端的に、経済的自立はまず困難であり、就労とは名ばかりの現状である。しかし、授産施設や作業所など、生活の活動場所があることに関して障害者も家族も非常に有意味なことである捉えている。障害者の自立観についての詳しいレビューが載っており参考になることが多い。特に障害者自立支援になってからは、『依存しながらも社会生活における自立』という選択肢を保障する公的な努力を弱め、また収入認定も家族の収入を基礎として家族依存を暗黙の前提としており、『自立』とは矛盾していることを厳しく指摘している。

 いずれにしろ膨大な調査データを駆使して、就労に関する知的障害者と精神障害者の実態をつまびらかにしており、この手のことを知りたい人には最適な内容となっている。最後に、確かに就労は自立にとって最終目標になりうるが、それによって経済的な自立が困難な現状である以上、それ以外の社会生活や活動の支援がより充実するべきであるという提言はもっともである。


統合失調症者の自己決定要因に関する研究

辻陽子(2012)「統合失調症者の自己決定要因に関する研究」『関西福祉科学大学紀要』16,97-116

http://ci.nii.ac.jp/naid/110009488491

PDFあり

 副題は、グループホーム入居者へのインタビュー調査からの一考察 となっている。

 副題の通り、2名の統合失調症の入居者から自己決定とは何かについて半構造でインタビュー調査している。前段でしっかりと自己決定とは何かについてまとめており、自己決定の積み重ねが自身のエンパワメントになっていくことなどを明示している。

 ところで自己決定は、そもそも意思が明確であること、あるいは理性的な判断が出来ることが前提になっており、その意味で精神障害者は疑問符が付くことが多い。しかし、自己決定と言っても、それは「人生の決断」とか「重大決定」の連続であるよりもむしろ、日常で自分がしたいことや、行動の決定を自分自身で選べることにある。とはいえ、人からのアドバイスを聞き入れて自分で選択することも自己決定だし、したくないと思っても、やらざるを得ないと判断することも自己決定である。とするならば、自己決定とは自分自身で全て決めることでは無いとも言える。

 では、自己決定が出来ない状況とは何か。それは自分の意思の介入する余地が無く移行される様々な行動の不自由さであろう。しかし、それすらも完全に可能なのかという反証もあるが…そんなことをグルグル思いながら読んでみた。

 この論文では、逐語録を適時挿入しながら、この二人は自己決定には自己責任を伴わないといけないといった強迫観念に捕らわれている。自分で決めたことは自分で責任を負わないといけない。それは一面ではそうであるかもしれないが、何から何まで背負い込む必要もない日常の意思決定もある。また誰かの手を借りることを決定することも自己決定でもある。最後の方でも述べているが、自己決定をしていることを意識して、積み重ねること。それが自信にもつながり、自己評価を高め、また社会の中で生きていこうと思うようになる。これが重要なことである。つまり、何気なく人々は自己決定をしている。しかし、精神障害者の人々は自身の疾患や社会的評価の中で自己評価が低い。それは自己決定をしていないと思いこんでいる節があり、こうした何気ない自己評価を他者が気付かせてあげること。これがその人自身のエンパワメント担っていくと言える。非常に読みやすくよく練られた論文である。

 それもそのはず、修士論文を加筆修正したモノであるから、少なくても査読が3回は入っているからね。

認知症関連(3)

 認知症高齢者へのアプローチ以外での論文は6本。認知症の現実認識、家族介護者への調査などであった。

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 特に阿保森塚らの論文は良い内容であった。

 認知症の独特の世界については、和田が見当識障害について調査研究している。心理学の数学的手法に基づいて行われており、人文系の私としては結果だけを頼りに読んだが、認知症はすべからく顔と名前が一致できなくなることや、昔からの人すら忘れる障害があると見なされるが、例え重度であってもそうでないこともあるなど、その障害の多様性について良くまとめられている。

 また阿保は、認知症から見える世界について、認知症ではない人々は新自由主義のもとで効率性と自己責任の足かせをはめて生きている。認知症はそうした足かせから卒業し、現実社会とは異なる常識を作り上げて、影絵のような世界を生きていると論じる。その上で、施設の中で暮らす認知症高齢者の生活を生き生きと描出している。よく観察され、非常に優しい眼差しで書かれた内容。是非読んでもらいたい。

 森塚らは、End Of Life Careに関する文献を一覧にしてまとめた労作。End Of Life Careとターミナル期は混合されて使われており、定義が定まっていないことを問題としてあげている。End Of Life Careは高齢者に特化し、かつターミナル期だけではなくより長期的な意味(余命半年とか一年とかではない)で使われるようである。とにかく、抽出された22本の文献一覧が5ページにわたり書かれており、ターミナル期やEnd Of Life Careの事を調べるには良い資料となっている。

 森本は、認知症サポーター養成について概説している。こうしたサポートの取り組みがあることを初めて知ったし、養成結果、現在200万人のサポーターがいるってのも知らなかった。ただ、有機的にいろいろな機関とつながっていないのも現状のようである。

 認知症高齢者を介護する家族については二本の論文を収集した。

 大夛賀らは家族がケアする時間・時間帯・内容と認知症の有無の違いでどうなのかについて調査している。介護負担ではやはり睡眠不足が明確になっていること。また認知症がある場合は、BPSDによる夜間対応、特に深夜2時毎に発生していることを明らかにしている。

 黒澤は、認知症高齢者をめぐる家族介護の現状について文献を中心に概説している。広範に家族の意識調査から在宅サービスの利用状況まで紹介しており、この手のレポートを書く人には参考になる内容となっている。


認知症関連(2)

 今回、認知症に関する内容で収集したのは11本。

 そのほとんどが認知症高齢者にどのように対応するかであった。今回、認知症へのアプローチについての論文、5本を紹介する。

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 特に、長畑ら奥村は読み応えのある良い論文であった。

 長畑らは、施設で働く熟練看護師が認知症高齢者へどのように対応しているのかを面接調査している。その結果、「相手の状況に合わせた対応により、ケアを受け入れてもらえる関係性を築く」「専門的知識をもとに対象に合わせた方法でからだを整える」のカテゴリーが抽出されている。インタビュー内容の逐語も適時取り入れ、説得力がある。こうした実践知に関する研究は看護分野では進んでおり、その延長線上に新人への教育を念頭にあるため、福祉分野でもこうした研究が蓄積されればと思う。

 高森は、主に認知症高齢者が地域で暮らす際の社会資源活用について俯瞰している。題名がソーシャルワークが含意されていることから、こうした社会資源を以下にコーディネートするかがテーマとなる。特にこの研究では小規模多機能型施設の活用とそこで暮らす人々の事例を豊富に掲載している。一つの在宅生活をどう支援するか。示唆に富む内容となっている。

 矢澤は、認知症高齢者グループホームの歴史的・政策的背景について概説している。特に、2015年の「高齢者介護ケアモデル」について詳しく言及している。過酷なケア労働に触れながら、介護保険が迷走している様を批判。認知症高齢者グループホームを糸口に政策・制度理解をする上でちょうど良い内容となっている。

 奥村は、認知症の医学的理解、また非薬物的アプローチについて概説している。この論文一つで認知症の基本的知識がしっかりと把握できる内容となっている。特にアプローチに関しては、回想法について多くのページを割いて、運用する際の問題点や注意点を論じている。回想法は割とよく使われるが、この研究では様々な実践や文献に当たりながら非常に良くまとめた労作である。

 牛田らは認知症へのアプローチとして、近年主流になっているパーソン・センタード・ケアについて実践報告している。特に認知症ケアマッピング(DCM)という評価を用いている点が目新しい。また最後の考察の方でこのDCMがスタッフへのプレッシャーとか叱責するためのツールになってはいけないこと。そのためにも、スタッフに対してもパーソン・センタード・ケアアプローチを施すことが大切であるとする視点は同意できる。

ケアマネジメント関係(2):政策、連携など

 ケアマネについて今回8本を串刺しレビュー。8本の内、政策とか会議の持ち方などについて4本、ケアマネが感じる困難ケースについて2本。そして家族介護者とケアマネについて2本であった。今回は、政策などの4本をまとめて紹介。全てPDFあるので、興味のあるモノはダウロしてみてください。

 政策的な一連の流れの中でケアマネのあるべき姿について、筒井らが論じている。そもそもケアマネジメントは政策的な経緯の中でどのように扱われていたのかと言った記述している。業務においても管理体制の不備やモラル・公平性の上でも課題があることを論述している。総合的な内容で、ケアマネの基本としてよくまとめられた内容となっている。結論として、煩雑すぎる業務を整理した上で、ケアマネの役割を1.給付管理に限定する。2.給付管理を簡素化し、利用者にゆだね限定的に給付管理として関わる。3.計画作成などに特化し、給付管理は独自のセクターで行うといったものであった。つまり、寄せ集めの何でも屋であり続けると室はいつまでも担保されないと主張している。

 居宅介護支援事業所は在宅介護支援センター(以下、在介)が合わさったところもあるが、ケアマネ=居宅が主流である以上、そもそも在介ではどういう事を行うのかと思う人が現在は多いのではないだろうか。この在介について春名が解説をしている。簡単に言って、居宅はケアマネジメント、在介はケースマネジメントだと思えばいいのだけど、その区別すら付かない人もいるかと思う。在介は介護保険サービスでは対応できない生活困難に対応する福祉的対応である。春名はそうした在介の成立から吸収、合併の歴史などその当時の雑誌記事を引用してまとめた労作である。後半に、兵庫県の在介、基幹型と地域型の従事者からの聞き取り調査も行っている。結構基幹型への地域型の不満などが生々しく載っている。ケアマネは介護保険サービスだけではその人の生活困難は全く解消できないことも知っている。その時、基幹には基幹の。地域には地域の役割があるものの、勉強会を通じて積み重ね、共有し、検討していく熱意が大事であると説いている。

 また春名は別論文で、地域ケア会議のあり方について提言している。ここで、ケアマネジメントの方向性として、サービス志向とシステム志向があり、前者が利用者主体、後者が費用対効果の視点で行われることを示している。在介は介護保険では対応できないような生活困難性にも対応しないといけないため、利用者主体のために、社会資源の開発も込みでより総合的にアクションを起こすことについて確認している。その上で、地域ケア会議が有効に活用されていくためには、こうした処遇困難ケースの共有、累積的検討と地域計画の作成などを通じて、行政に働きかけていく機能を活性化させるべきであると提言している。

 こうした各機関の連携について、横井が事例で検討している。いまでこそ他の事業所との連携は当然視されているが、2004年以前の取り組みとしてはあまり考慮されていなかったこともあり、参考になる内容となっている。

ケアマネ関係(3):処遇困難など

 今回は、処遇困難ケースとか、家族介護支援のニーズ調査を合わせて4本まとめて紹介。ちなみに、全てPDFあり。特に、斎藤ら湯原らは面白い内容なので興味のある方は是非ダウンロードして読んでみてほしい。

 処遇困難についてケースごとに齋藤らが分類している。ケアマネ16人にどのようなケースが対応困難であるかをフォーカスグループインタビューしている。その中で約30の事例が抽出され、「事例」「状況・ニーズ」、プロセスでの「アセスメント」「計画」「実施」「モニタリング」で整理されている。研究手法や手順もしっかりと示されており、説得力のある内容となっている。共通性として、「虐待」「認知症」「不安定変動」「医療依存」「ターミナルき」「多問題」「拒否」「介護不足」「経済困難」が挙がっている。またプロセスでは「計画」「実施」が特に難しいと感じているようである。いずれにしろ介護保険サービスで対応できるのかどうかの線引き、また抱え込まずにチームで対応することの重要性を提示している。かなりしっかりとした内容で読み応えのある内容である。

 同じようにケアマネが対応困難と考えるケースを逆にケアマネ自身の力量不足の観点から布花原らが20名のケアマネからインタビューしまとめている。力量不足と言っても、このケースの何をどう主題化したらいいのかと言った迷いと言った類で、上から目線の力量不足の指摘ではない。カテゴリーとしては「契約時」「明確化」「ケアプラン作成時」「モニタリング」「関係形成」「チーム調整」「生活支援」「社会資源」等々ケアマネの業務の中にある諸要素を具体的な困難に交えて分かりやすく描いている。たぶん、ケアマネを実際やっている人なら、「あるある」とうなずきながら読むことが出来るのではないかと思う。また各項目に対する解説も丁寧な親切設計である。後半の考察もいちいちもっともである。アセスメントの重要性、アカウンタビリティのスキルがまず求められているのもうなずける。初心者にとってアセスメントから分析し問題を主題化するスキルはその後の計画・実施に繋がることである。まずは介護問題の視角化こそがスキルとして求められると言える。

 介護は本人だけではなく、特に在宅の場合、家族なしには成立しない。そうした家族への支援のあり方について廣橋が論考している。内容自体はケアマネとは何か。介護保険における役割とは何かの教科書的な記述で、まぁ、復習するには丁度良い内容となっている。後半に1000人規模での高齢者世帯の調査を紹介し、高齢者にとって家族を一番頼りにしており、こうした家族へのケアマネからの支援は介護そのものを保障するという論点である。何かのレポートには使える内容かと思う。

 逆に家族介護者から見たケアマネの役割というユニークな視点で湯原らが研究している。家族の中にはケアマネって何する人なのか分からないという認識を持つ人も結構いる。その意味で、家族にとってケアマネはどんな存在なのか、あるいはケアマネへの望むことなど、家族からインタビューを行っている。特にケアマネへの家族への評価は結構厳しい。ちょっと苦笑いをしてしまう内容。特に家族にとって担当がコロコロ変わることはイヤなんだなぁと実感する。そして望むことは、もっと勉強して知識を持てと。なかなか的を射るものの耳の痛い内容となっている。後半の考察も示唆に富み、ケアマネの業務をしている人にはある意味必読かもしれない。

貧困からの脱出を阻害するもの

江口信清(2002)「貧困からの脱出を阻害するもの」『立命館大学人文科学研究所紀要』80,1-27

http://ci.nii.ac.jp/naid/40005482075

PDFあり:ただし、下記のサイトからダウロのこと。

http://www.ritsumei.ac.jp/acd/re/k-rsc/hss/book/ki_080.html

 副題が、ドミニカ国農民社会の実例 となっている。

 27ページと長い論文であるが、かなりさくさくと読める内容となっている。文章も平易で、構成もしっかりとしている。この論文は、ドミニカのある貧困層が多くいる農村をフィールドワークしたものである。

 結論から言えば、奴隷制度からは解放された後、社会や生活を改善向上していこうとするモチベーションがカトリックによって去勢されていることを明らかにしている。または、古くからの口伝などもそうした去勢に一役を買っていることなどを紹介している。逆に言うと、宗教的な規範が社会や民衆に及ぼす影響の大きさをよく表している。

 収入だけを見ても絶対的貧困にある村人は、それを貧困とは思わずに、精神的に豊かですとあっけらかんと話す。その一方で、献金が少ないと白人の神父に怒られるのを気に掛ける。または、周りとは劣らないような家屋を建てることには非常に気を配る。こうした収入と支出のアンバランスが際だっていると分析している。これって、稼ぐ手段を見いだせず貧困状態なのに、見栄っ張りで、そのくせ、精神的には豊かですって事だろうと思う。

 カトリックの良さもあるが、宗教とは両義的な側面もある。慎ましく暮らすことの大切さを説く一方で、抑圧された民衆の解放をも説く。しかし、ドミニカでは前者による抑圧と貧困による周辺化を維持していると結論づけている。

 宗教による教育が民衆にどのように作用するのかを知る上では良い内容となっている。


I・M・ウォーカー「『アッシャー家の崩壊』における恐怖の『真正な』根拠」の翻訳

岩崎洋一・古宮照雄(2007)「I・M・ウォーカー「『アッシャー家の崩壊』における恐怖の『真正な』根拠」の翻訳」『木更津工業高等専門学校紀要』40,167-173

http://ci.nii.ac.jp/naid/110007646631

PDFあり

 『アッシャー家の崩壊』は、ポオの有名な小説であるが、なにぶん文体が読みにくいために敬遠していた。それで、具体的にどんな小説なのかとちょっとネットで調べてみたら、この論文がヒットした。

 どうもこの小説は、ドイツ怪奇小説あるいはゴシック小説と見なされてきたようだけど、ポオ自身はどうもそう思われるのは心外であるようであったとのこと。なぜ心外であったのかの原因について論じたものとなっている。

 結論を先取りすれば、これは主人公のロデリックの精神崩壊を情景と共に一体的に描かれたものであり、またマデラインが墓から復活したと思うのはロデリックの幻想・精神崩壊の決定的な徴として理解するべきであるという論調である。

 この論文、崩壊に至るまでの情景や語り手自身もロデリックの狂気に影響を受けて行く様を文脈を頼りにじっくりと描かれており非常に説得力のある内容となっている。一つの読み物として完成度も高く、これを機に原文を読んでみようかなと思わせる内容であった。


 ちなみに、青空文庫でアッシャー家の崩壊をままで読めるので、興味のある方はどうぞ。 http://www.aozora.gr.jp/cards/000094/files/882_20930.html

「バレンタイン・チョコレート」はどこからきたのか(1)

山田晴通(2007)「『バレンタイン・チョコレート』はどこからきたのか(1)」『東京経済大学 人文自然科学論集』124,41-56

http://ci.nii.ac.jp/naid/110006611530

PDFあり

ただし、サイトのリンク切れで下記からダウロ出来る。

http://repository.tku.ac.jp/dspace/handle/11150/481

 バレンタインにチョコレートを送る風習は日本独自というか、そもそも欧米文化では人に贈り物をする文化があり、その変質であることは疑いがないけれど、では、どう定着していったのかの起源を論考している。

 贈答品にチョコレートに執着している、女性から男性への一方通行的な贈答などが特徴であるが、バレンタインデイ自体、欧米でも配偶者や恋人に愛を表す日であるとされている。最初に、贈答としてチョコレート戦略をしたのがモロゾフと言われている。で、読んでいてちょっと意外だったのが、モロゾフって最初神戸でロシア人が立ち上げていたんだけど、途中で日本人が乗っ取っていたんだなぁと。

 とにかく、1930年代から1960年代初頭までのチョコレート会社の広告戦略などの動きを読むことが出来る。雑学として面白い内容となっている。


小説『1Q84』における悪の表象について

熊田一雄(2011)「小説『1Q84』における悪の表象について」『愛知学院大学文学部紀要』40,31-38

http://ci.nii.ac.jp/naid/40018778569

PDFなし

ただし本文は、下記のサイトから読める

http://d.hatena.ne.jp/kkumata/20100830/p1

 『1Q84』は読んだことがないが、ラヴクラフトについて検索をしたらこの論文が出て来たのでとりあえず落として読んでみた。

 どうもこの小説の中には現代カルトであるオウム真理教や山岸会などが出てくるらしい。またはエホバの証人とか…それでこの小説の中での各宗教のカリスマの背後には『リトル・ピープル』という深淵にあるという仕掛けになっている。この深淵の存在とラブクラフトが創造したクトゥルフ神話を重ね合わせた内容となっている。

 また村上春樹自体、ラヴクラフトを愛読していたことや、セカイ系でも有名な作者であることから、ラヴクラフトが作家としての姿勢、引きこもりがちであること、また自分の身の回りの出来事がセカイの危機に直結していることなどを重ね合わせて面白い論考となっている。

 内容としては、ユングとかグノーシス教など出てくるものの、そんなにこねくり回したものではなく、また文学論として、作者のインタビューの引用などを挿入しながら読みやすくなっている。

 ただ、『1Q84』を読んだことがないので、もう少しあらすじから、邪神の存在をほのめかしたような『1Q84』内の文章の引用があればより楽しめたと思う。


恋愛対象者への熱愛度と肯定および否定的感情

羽成隆司・河野和明(2012)「恋愛対象者への熱愛度と肯定および否定的感情」『文化情報学部紀要』12,65-69,椙山女学園大学

PDFなし(秋田大学教養学部図書館:収集)

副題は、日本語版熱愛尺度を用いて となっている。

 熱愛という定義について、一人の他者と結びつきたいという強い欲求状態であり、返報的な愛には充足感と恍惚を伴い、報われない愛には空虚感、不安、絶望を伴う、今日呂な生理的覚醒状態となっている。

 熱愛尺度というものが有るのもびっくりだが、これが世界でも使われているとのこと。結果として、あまり有意さが見られないと結論づけているものの、女性は同性の友人に比べて、恋愛対象者である男性への「尊敬」が相対的に低く、逆に「軽蔑」「嫌悪」は男性回答者よりも高かったことから、熱愛度と人格評価の独立性は女性の方が明瞭であったとのこと。

 つまり、確かに恋愛対象者のことは熱愛しているが、同性の友人に比べて、尊敬する人物かどうかと言えば、そうではないこと。また尊敬する同性の友人に比べると軽蔑したり時に嫌悪することがあるって事だろうと思う。そうした感情が男性回答者からあまり見られていないと言うことは、恋の盲目になるのは実は男性の方なのかもしれない。

プロフィール

kuma

Author:kuma
救護施設→知的障害児施設→通所介護施設(高齢者)と15年以上。これからも思考と体力で、働いていきます。

自分のサイトもあります。
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