誰がパートタイマーになるのか

中村三緒子(2007)「誰がパートタイマーになるのか」『日本女子大学人間社会研究科紀要』13,79-89

http://ci.nii.ac.jp/naid/110006228894

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 通説では、女性は結婚する前まで就業し、その後出産などを経て、ある程度落ち着いたら再就職するとするM型のカーブを描くとされていた。しかし、この論文では、そうした通説はあまり有効ではないことを全国のパネル調査をもとに分析している。

 結果としては、要約に書かれているように、再就業する規定要因は、学歴、短大、高卒、大卒による大きな違いはないこと。また子どもの年齢も3歳以下でも就業すること。夫の収入が高いほど専業主婦になる傾向にある。さらに、親と同居する場合は、パート再就業するケースが多いこと。これは、親が育児の援助を頼める可能性が高いことで、パートとして再就業することが可能であることが推測されている。

 まぁ、夫の収入が低いならば、再就業は仕方のないこととはいえ、再就業の場合は正規雇用が難しいのも現状で、これなどは女性という性差が作用されていることが予想される。

 分析の手法などは良く分からないので結果だけ読んだけれど、ちょっとした雑学にはなる内容だと思う。


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魂に対する態度

丸田健(2010)「魂に対する態度」『大阪大学大学院人間科学研究科紀要』36,263-278

http://ci.nii.ac.jp/naid/120004842220

PDFあり

 副題は、他者との関わり・自然との関わり となっている。

 道徳教育に関しての原理的な問い、「人に心はあるのか」をめぐっての考察となっている。人に心はあるのか?それは一件自明なことだけど、実は良く分からないことである。デカルトが「我思う故に我有り」とは思考する存在である自分が自分たらしめている。もし、自分が思考しないということは、自分が生きていることを実感しないことと同義となる。簡単に言って、人は考えるが故に、自分が世界に存在することを理解するのである。しかし、それはあくまでも自分のことであり、果たして他者もまた我思うが故に我有りと思うのか。あるいは、自分に心があるからという理由で、相手にも心があると断じることが出来るのか。そんなややこしい問いをデカルトやウィトゲンシュタインなどの命題を元に考察している。または過去未来現在は地続きだとだれが分かるのか。二秒前の風景と今、目の前に映る風景はつながっていると誰が証明するのか。そんなことなどを論考している。

 結局の所、心と体の他に、人は魂という統合するものがある。その魂で、心がないと思われる自然にも心があるように扱うし、他者も魂があるかのように振る舞う。心とか体よりも人は魂の中で生きている。そんなことを東洋・西洋問わず広範囲に哲学者を引用しながら解説している。

 一見すると読みにくいかと思うが、じっくりと読めば分かる内容で、その上哲学の基本的な問いを扱っており、興味のある方は読んで欲しい。

医療機関におけるソーシャルワーク実習教育に関する一考察

上山崎悦代(2012)「医療機関におけるソーシャルワーク実習教育に関する一考察」『日本福祉大学社会福祉論集』126,181-194

http://ci.nii.ac.jp/naid/110008916915

PDFあり

 副題は、実習指導者へのインタビューを通して となっている。

 3人のMSWから社会福祉士の実習指導についての学生のあり方や指導者の思いをインタビューしてまとめたものとなっている。2006年以降は社会福祉士の実習が病院や診療所でも出来るようになってきたことを踏まえ、医療系での実習ではどのような事が求められるのかを探索している。

 もっともそれまでMSW養成の実習は独自に行われていたが、社会福祉士がMSWとして採用されることが多くなっている現在こうした医療系の実習のあり方はこれまでの施設実習とは違った新鮮さがあるんだろうと思う。

 内容としては、学生の態度もさることながら、ベテランであっても自分の指導は正しいのかと不安に思っていること。また実習で伝える意義は、こういうMSWという職種が医療系で必要であるなど、施設実習や他の相談系とそんなに変わらないなと。また人に教える中で自分の業務を振り返るという自分自身のためになると言った効果があるなども、他の形態の実習と同じである。

 結局、医療系でも福祉系でも実習の意義はそのあたりにあるんじゃないかと思う。内容自体は分かりやすく、読みやすい内容となっており、MSWに興味のある人は一読の価値があるかと思う。


琉球における中国的宗教文化

窪徳忠(2005)「琉球における中国的宗教文化」宗教研究 78(4), 1249-1272,

http://ci.nii.ac.jp/naid/110002826694

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 もともと庚申講について調べていてヒットした論文。沖縄には庚申信仰の形跡を探しに行った筆者が、それらしき物を見出すことが出来ず、予定を変更して中国的な信仰の痕跡を調べた内容となっている。

 いくつかの本などでも、沖縄には本土とは違う独自の信仰があるんだろうなぁというイメージはあるけれど、実際はどうなのかについては知らなかったが、この論文ではそのあたりのことをよく調べ、また中国的な信仰が沖縄という異文化の中で変容していった様子を分かりやすく論じている。中でも、古来は日本には道教は伝来してこなかったというのが定説だったらしく、筆者が、庚申信仰と中国の三尸信仰を関連づけて講演したらさんざん叩かれたということから出発している。

 また博学な老学者の飄々とした語り口についつい吸い込まれる。琉球が中国と交易し、時に中国の支配を受けていたことは歴史的にも明らかであるが、そのあたりの経緯も詳しく論じている。そして、道教的な信仰がいかに民間に広がっていったのか、そして土地の神として定着していったのかを論じており、興味のある方は是非読んで欲しい内容となっている。

 中国や韓国から流入した様々な宗教、あるいは流入する前からあったアニミズムもまたロシアなどの影響もあることを考えると、日本独自の宗教と言うことにこだわらず、宗教の持つ伝播力とそこに込められた様々な願望や欲望を根底に見ることの方が大事ではないかと思う。

社会福祉学におけるセクシャリティの課題

田中秀和(2012)「社会福祉学におけるセクシャリティの課題」『新潟医福誌』12(2),73-79

http://ci.nii.ac.jp/naid/120005058844

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 セクシャリティとジェンダー、性差と女性への差別などについて概説している。その上で、社会福祉学ではどの程度、そうした学問的な蓄積が成されているのかを考察しようとした内容であった。

 仮説として、これまでセクシャリティについて社会福祉学はタブーとして殆ど論じられることがなかったこと。社会的弱者の救済を中心にし、たとえば、利用者・利用者家族(高齢者・障害者問わず)が援助へのセクシャルハラスメント(性的嫌がらせ)を行うことなどは現場レベルでは報告されているものの、問題視されてこなかったことを指摘している。さらに教育として、たとえば社会福祉士の相談援助においてこうしたセクシャルハラスメントが取り扱われていないということもいかに送れているかを示していると言える。社会的弱者であっても性欲はあり、ハラスメントへの対応をしっかりと学ぶ必要があるといえる。この論文では論じられていなかったが、ジェンダーの視点では、介護はアンペイドワーク:無償労働との関連で、職業的にも低位に置かれているという問題がジェンダーとの絡みの中であることもまた論じられるべき課題であると考える。


村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』論

山崎眞紀子(2009)「村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』論」『札幌大学総合論叢』27,176-151

http://ci.nii.ac.jp/naid/110007564609

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 副題は、火曜日の女から金曜日の女へ となっている。

 この論文は、主人公である岡田亨ではなく、その妻、久美子の自己成長を軸に論じられている。そして、火曜日に事の発端が起こり、金曜日に久美子が自分を取り戻すために行き直すことを決心するという意味である。

 この論文では、「新潮」で掲載されたものと、単行本化された後に消された文言の比較や村上春樹へのインタビューをほどよく挿入し、論文を立体的に構成している。この小説は、久美子が突然主人公から姿をくらますことからスタートし、主人公が妻を取り戻すために、無意識の世界や歴史的な過去をさかのぼったりとするきわめて幻想的な小説である。そして久美子は、久美子の兄によって人間的に何か損なわれるようなことをされたこと。その兄は人を汚染することにかけて非常に長けていること。それは一種のカリスマとも言え、主人公はそれとは別の人を癒す能力を身につけていこうとする物語である。

 久美子はそうした主人公と兄との間にあり、主人公との出会いの中で自分を取り戻そうとする。それは、主人公とともに「何かと関わり合っていく」という意志を自己のエンパワーメントのために振り向け、自らの力で解決しようとし、責任もきちんと引き受ける女性像を描き出した内容となっている。

 あくまでも小説のテクストを追って記述しており、文学論にありがちな精神分析や哲学の引用も少なく、正統的な作りとなっており、じっくりと読める内容となっている。「ねじまき鳥クロニクル」が面白かったと思った方や文学論に興味のある方や一読の価値があるかと思う。


ジャニーズファンの思考

徳田真帆(2010)「ジャニーズファンの思考」『くにたち人類学研究』5,21-46

http://ci.nii.ac.jp/naid/120002205324

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 ジャニーズファンがどのようにジャニーズのアイドルに熱狂し、その世界で遊ぶのか。そうした生態を詳しく論じている。

 60年からのアイドル論を概説しながら、山口百恵とか吉永小百合など、実像と本音、建前と虚像のギャップを埋めようとした時代から、虚像であることを前提にして、その世界観を楽しむようにシフトしていったことを論じている。その中でジャニーズは虚像であること。そして、ファンであることを「担当」として引き受けることなどを詳細に論じている。ジャニヲタ用語とかその用語の使われ方、グッズの消費の実態、ネット上でのファンクラブでの交流などを詳しく描いている。特に、自分の担当がかぶらないようにネット上でコミュニティを広げていく実例など、なるほどねぇと思う。後半、そこにレビィ・ストロースの構築主義的な引用はハッキリ言って蛇足だと思う。

 後半、グッズの消費と同様に、アイドルから受け取る性的なメタファーを積極的にファンは受け取り、担当という擬似的母子関係とセクシャルな部分を消費する議事恋愛の対象としてアイドルを見ていること。それは、近親相姦の構図を見るという論考は面白い。ジャニーズファンでなくても、アイドルに熱狂する人々の生態を知りたい人は一読の価値があると思う。

家族介護支援の政策動向

菊池いづみ(2012)「家族介護支援の政策動向」『地域研究 : 長岡大学地域研究センター年報 』12, 55-75

http://ci.nii.ac.jp/naid/40019547047

PDFあり

 副題が、高齢者保健福祉事業の再編と地域包括ケアの流れの中で となっている。

 介護保険発足時は、家族の介護負担軽減も謳われていたはずなのだが、金銭給付をするかどうかの論議の後はあまりパッとせず、緊縮財政のあおりをくらい、現在、介護を要する受給者自体のサービスが行き渡っていない状況の中、家族介護は後背に追いやられているのが現状である。

 そうした現状をつぶさに介護保険発足当時の議論から、在宅介護の施策を細かく論じている内容となっている。また、地域支援という名称で、家族ではなく地域で支え合おうとするスローガンが主流であるが、それすらも家族介護を前提にしたものであり、地域とは何を指すのか。あくまでも家族で介護できなかった部分をフォローするということである。

 とりあえず、2011年までの地域包括ケアのシステムまでを詳細に論じており、高齢者の在宅サービスを知る上では、良い内容となっている。中でも、今後の介護労働者の大幅な確保が急務中、家族介護者ヘルパー受講支援制度が廃止になったことに触れ、介護人材という観点から考えると、こうした家族介護者のヘルパーの付与は、大きな意味での人材育成となるという提言はもっともである。


高齢者介護の人間関係がもたらすもの

阿部陽子(2011)「高齢者介護の人間関係がもたらすもの」『社会福祉』52,35-46,日本女子大

http://mcn-www.jwu.ac.jp/sw/backnumber_mokuji.html

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 副題が、新たなこと共同性の生まれるフィールド となっている。

 ケアの倫理に近い内容で、ケアする人はケアされる人から学ぶことがあるとか、人は子であると同時に共同性の中で生きる存在であること。その中においてケアされる人もまた共同性の中で生きていることを、ケアする人が改めて知る場が、介護現場であると言った教科書的な内容となっている。

 介護は医療、看護やケアマネ、医師と比べて福祉サービスの利用者から見下されがちであることを引き合いに出しながら、それでもそうした素の顔を見せてくれるのも介護の良さだとか…まぁ、そう考えましょうかね。

 この論文では主に訪問介護と通所介護それぞれの介護現場の違いやそこで生起する共同性について書かれており、こうした現場にいる型は一読してみても良いのではないだろうか。その一方で、後半の方で、介護保険の効率化がそうしたケアの現場を貧しくしていることについて言及している。

 分かりやすい事例を割と多く載せているので読みやすいかと思う。


語られる施設化

麦倉泰子(2003)「語られる施設化」『年報社会学論集』16, 187-199

https://www.jstage.jst.go.jp/article/kantoh1988/2003/16/2003_16_187/_article/-char/ja/

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副題は、知的障害者施設入所者のライフヒストリーから となっている。

 麦倉さんは、この手の援助者と利用者に潜む権威性について継続して研究している。読みやすく、また構成もしっかりしておりよく参考にする学者の一人である。

 この論文は利用者自身が、いかに自分を知的障害者として認知していくのか、あるいは受け入れていくのかをインタビュー形式で明らかにしている。自分は何者であるのか。そして役割としての自分はどう振る舞うべきなのか。これは自分自身が決めると言うよりも、外部からの様々な言説から自分の中で再構成していると考えるべきである。しかし、その言説は固く決められたものではなく、その都度発見され、命名されることでコード化されている。知的障害もまた医療の権威的なコードであり、また注意血管障害など新しい定義もなど細分化されたコードを人々に当てはめていく。これを脱私化という。

 その脱私化のメカニズムを4人の知的障害者更生施設に入所している人からインタビューし明らかにしている。そもそも知的障害であると自分自身では思っていない時期から医療に関わったり行政に関わるようになり徐々に自分自身が障害者になっていく様子などが分かりやすくかかれている。その一方で、自分が何でこの施設にいるのか分からないという人もいた。援助者として考えるべきは、利用者であるからと言って、皆が知的障害であることを理解しているわけではないと言うこと。あるいは、知的障害であること受け入れているわけではないことである。そして、知的障害というカテゴリーすら流動的であり、付与された物であることに自覚的であると言うことである。

山岳信仰に見る修験道の特色

新保哲(2008)「山岳信仰に見る修験道の特色」『文化女子大学紀要. 人文・社会科学研究』 16, 13-28

http://ci.nii.ac.jp/naid/110006612260

PDFあり

 修験道といえば、険しい山を渡り歩きながら、ホラ貝みたいな大きな貝をブオ~と鳴らしたり、何日も山にこもって修行する、いわゆる山伏を想像する。そうした修験道とは、そもそも何を起源とするのか。あるいは、どのような信仰に基づいているのかを明らかにしている。

 もともと、山海経について調べていて、ネットで見つけてとりあえず落としておいた論文なんだけど、結構面白かった。

 日本の宗教の特徴として、習合というのがある。仏教と神道の習合はどこでも見られるし、中国の思想とかアニミズムとかも混ざることもある。修験道もまた、山岳信仰、仙人、仏教、シャーマニズム、アニミズム(主に山に神が降りる)などがほどよく混ざったものであった。その上、修験道に見られる呪い(まじない)もまた、民間信仰として発展してきたもので、呪術とか神通力など、修行を積むことで得られると信じられたものの一つとして修験道がある。

 修験道が政策的に統合されていく歴史的ないきさつから、そもそも論まで幅広く論じられており、秘技とされる修験者のいきさつなども詳らかに論じられている。

 また修験道として神と讃えられている、役小角や日本霊異記についても詳しく、興味のある人には雑学として面白く読める内容となっている。

SF映画『エイリアン』のメッセージ再考

石塚倫子(2002)「SF映画『エイリアン』のメッセージ再考」『那須大学論叢』 3, 25-35

http://ci.nii.ac.jp/naid/110007124170

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 副題が、怪物表象に見られるセクシャル・ポリティクス となっている。

 単純に言って、ジェンダーの視点から主人公であるリプリー(女性)がどのようにエイリアンと戦ったのか。そして、その背後にある組織やシステムとの戦いを描いている。エイリアンとは科学とは相容れない野蛮なものであり、組織は男性優位の社会として位置づけ、リプリーが活躍することは、女性の社会挑戦あるいはジェンダーの象徴として扱われている。

 また、清潔な宇宙船の内部、それに比べ粘液で淀んだエイリアンの巣。そこに出産、妊娠、欲望のメタファーが隠されていること。またエイリアンに体が乗っ取られ体を突き破って出てくる様に、レイプと出産などのセクシャル・ポリティクスを論じている。

 その他、様々な映画のシーンを引用し、その背後にあるメタファーを、ジェンダーとセクシャル、そして対抗する家父長制社会を読解している。

 こうした映画論や文学論は、あくまでも一つの見方を提示しているだけで、それが真実でも客観的な物でもないことを踏まえて読むことが大切である。

 もしエイリアンを観たことがある人は是非読んでみて欲しい。そして、読んだ上でまた映画を見てほしい。その時、いままで漫然と観ていたものが違った物に見えるはずである。

 とはいえ、単純に恐がり、スリルを楽しむ。それが映画の楽しみであることには変わりはないと思う。

知的障害者小規模作業所のエスノグラフィー

堀内浩(2008)「知的障害者小規模作業所のエスノグラフィー」『北星学園大学大学院社会福祉学研究科北星学園大学大学院論集』 11, 27-45

http://ci.nii.ac.jp/naid/110006612721

PDFあり

 副題は、職員-利用者間の相互行為から となっている。

 昨今の障害者福祉では、当時者性とか対等など支援者・援助者の権威性(パターなリズム)への批判がある。障害者へのサポートは、本人の自己実現やニーズ充足、あるいは自己決定権を最大限図るべきだとすることが強調されている。

 では、実際の現場ではどうであろうかと言うことについて調査した内容となっている。主に会話分析とエピソード分析であるが、基本的にどんなにそうした理想(対等など)があっても日常の細部には援助者と利用者にはどうしようもない非対称性、権威性が存在するという視点で描かれている。

 またちょっと笑えるのが、最初の分析で、ボランティア的な立場で入った筆者への援助者の注意を元に、ねちっこく分析している。というか、食事の際にテーブルに肘をつかないことをボランティアの筆者に注意するのは当然でしょ。それを非対称的だとか、規則を押しつけるだの。権威性をちらつかせたの穿ちすぎッス。まずは、明確な利用者に対する会話から入るべきではなかっただろうか。また、会話分析にしろ、エピソード分析にしろなぜその様な事例を取り上げたのかに対する基準があまり明確ではないので、まずは枠組みを提示しながら、そのカテゴリーに沿ったエピソードを整理すると良かったと思う。

 概ね、日常のコミュニケーションに対する権威性や示威的行為を細かく取り上げており、そこには容易に乗りこえられない組織の力を観ることが出来る。ただ、作業所という視点で見た場合、知的障害へのパターナリズムだけではなく、作業をこなす上での効率性や経済性、あるいは労働による身体の規格化の観点からも働きかけているべきであり、そうした視点での考察も必要ではなかったのかとも思った。

 ただ、こうした日常の細部に宿るパターナリズムの実例は研究としては少なく、その意味ではとても参考になる内容である。


ハリー・ポッターと賢者の石

三浦京子(2012)「ハリー・ポッターと賢者の石」『北海学園大学学園論集』152,213-252

http://ci.nii.ac.jp/naid/120004798245

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 副題は、私は誰? 錬金術的解釈 となっている。

 この論文はシンポジウムに使われた原稿であり、それも市民公開講座に使われたものとなっている。

 こうした文学の解釈は、文章の中にある言葉や描写から例えば、作者は何を意図しているのかとか、それは心理学・哲学的にはこう捉えられると論じられる。ハリー・ポッターもまた、他の論文では聖書から解釈やキリスト教と登場人物を重ね合わせたりしている。または、他の作品、例えばナルニア物語との対比などである。

 この論文は表題にあるように、『賢者の石』を題材に、その背後に隠されている象徴や記号に錬金術的な解釈を施している。

 錬金術とは、金ではない物から金を生み出す技法として捉えられているが、究極的には、神とは何か、自己とは何か、あるいは「世界の真実」を追究するといった途方もない思想が根底にある。

 とにかく、例えばグリフィンドールの旗の色と絵柄、あるいはスリリザンの旗の色と描かれている蛇の解釈、11歳になったポッターがなぜ魔法使いと言われ、ホグワーツに行ったのか。なぜホグワーツ行きの列車が9番線4分の3なのか。その数字の意味などを丹念に論じている。とにかくかなり専門的で、錬金術やキリスト教思想に興味がないとぶっ飛んだ内容である。逆に言えば、記号学的な解釈は、え~そこまで読むのとにやにやしてしまう内容である。

 図説もいっぱいあり、ファンタジーとかTRPGが好きな人にはうんちくを語る上でかなり刺激的な内容になっている。ただ、文学がこうした知識を元に書かれていたとは考えにくい。確かに、錬金術的な知識も含みながらポッターを書いたかもしれない。しかし、作者の中にある無意識のイメージやさまざまな物語の原型が幾重にも折り重なって書かれたと考えるべきで、これは一つの解釈の仕方に過ぎないという程度に読むと良いと思う。ただ、こういう解釈もあるのかと面白く読める内容ではある。

「おやすみです」の多いおみせやさんごっこ

仲明子(1992)「「おやすみです」の多いおみせやさんごっこ」『幼児の教育』91(4), 39-47

http://ci.nii.ac.jp/naid/120001933785

PDFあり

 お店屋さんごっこと言えば、すぐに品物を並べて、買い物客と売り子のやり取りを楽しむことがイメージされる。この論者もそうした物をイメージしていただろうけど、予想に反して、子ども達が先ず作ったのが「おやすみです」と言う看板であった。それで、なんでお休みなのかについて、子どもとのコミュニケーションを介して明らかにしていくわけだけど、そのやり取りが非常にほほえましい。

 遊びを実践して記述すること~学術的に書くことは非常に難しい。中には観察された遊びの記述は出来るが、一緒に遊ばれた経験を振り返り、臨場感とか一回性をどう描くのか、非常に困難な作業でもある。

 とにかく子どもと筆者のやり取りを楽しみながら、子どもの活き活きとしたお店屋さんごっこの風景をよく描いている。筆者の意図しない方向へ展開するあたりも、遊びの一回性をよく表している。短い内容で、分かりやすい。子どもと遊んだことのある親には是非、その筆者の暖かいまなざしと自分を重ね合わせることが出来るかと思う。

ひきこもる人のニーズの多様性と社会的支援

竹中哲夫(2007)「ひきこもる人のニーズの多様性と社会的支援」『日本福祉大学社会福祉論集』117,1-20

http://ci.nii.ac.jp/naid/110007864861

PDFあり

 副題が、包括的支援の法制化を展望して となっている。

 当初、引きこもる人々には多様な要因があり、その要因について分類した物なのか、あるいは引きこもりの精神疾患の有無によるパターンの違いなのか、あるいは生活環境や家族関係などの事例なのかと収集した。しかし、副題にあるように、法制化、それも具体的な条文化に至るまでのプロセスを丁寧に論じている内容であった。

 最初、読み始めて、当てが外れていたので、?マークが付いていたけれど、綿密な条文化に至るまでの思考、背景を読み進めていく内に、これは実はすごい論文を読んでいるのではと思うようになった。

 なぜ引きこもりの人への独自の法制度を作る必要があるのか。そして現存する社会資源とは何か。そして、それをどう活用するべきか。そして予算を得るにはどうしたらよいのか。これらの最も有効な手段、そして実践が法制化であることをこの論文では示している。こうした法制化をすることで、個別支援計画などが活きてくることになるし、引きこもりに関わる人々への安定的な財政基盤を提供することが出来る。そうしたプロセスを総合的に論じている内容で、興味のある方は是非読んで欲しいと思う。


巨人伝説の考察

竹田伸一(2005)「巨人伝説の考察」『金城学院大学論集(人間科学編)』2(1),20-28

http://ci.nii.ac.jp/naid/110004746877

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 副題が、聖書的伝承とハリ・ポッター となっている。

 ハリー・ポッターの作中で有名なのが、ハグリットであるが、そもそも巨人とはどのような存在なのかを主に旧約聖書から引用している。

 巨人は、人間の娘と天使の間に生まれたことと解釈されること。また、その後数を増やして人間を食べたりするようになったことなどを聖書を下に非常に分かりやすく論じている。その後、ノアの箱船などで、巨人がかなり粛正され、サイズも小さくなっていったこと。ノアの箱船の件で、滅ぼされた巨人が死霊となってさまよっていたことなどを紹介している。その後、ダビデにより巨人が対峙される件は、長い引用によって詳しく論じられており読んでいて楽しい。要約されると、旧約聖書における巨人は敵であり、滅ぼされる対象であった。それは「隣人を愛し、敵を憎め」というラビの教えであり、それが新約聖書によって、乗りこえられていくことを明らかにしている。そして、ハグリットもまた、旧約聖書での巨人の凶暴性と滅ぼされて言ったことを語り、巨人と人間の混血であるハグリットの中に、隣人のように敵を愛せとする新約聖書のような願いをこめて存在させていることを論じている。

 旧約聖書や新約聖書と聞くと何となく敷居が高いと思いがちだけど、長い引用をつなぎ合わせてみると非常に面白いファンタジー物語として浮き上がる。名画も多数紹介され、ビジュアルとしても面白く、一読の価値があると思う。

 つくづく、聖書などの古典はあらゆる物語の原型であるなぁと思わせてくれる。
プロフィール

kuma

Author:kuma
救護施設→知的障害児施設→通所介護施設(高齢者)と15年以上。これからも思考と体力で、働いていきます。

自分のサイトもあります。
kumaの学習ノート

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