介護保険制度2

 主に施設と介護保険システムについて論じているものをまとめている。

  1. 浅野葉子・橋本伸也(2012)「介護老人保健施設の入退所状況と地域における役割」『藤女子大学QOL研究所紀要』7(1),77-85
  2. 真砂良則(2007)「施設サービス計画の現状と課題」『北陸学院短期大学紀要』39,189-198
  3. 佐藤英晶(2010)「特別養護老人ホーム入所に関わるアカウンタビリティーとアドボカシー」『帯広大谷短期大学紀要』47,1-10
  4. 吉田初恵(2012)「わが国の高齢者介護におけるアカウンタビリティ:非営利組織のアカウンタビリティを中心として」『総合福祉科学研究』3,15-21,関西福祉科学大学
  5. 竹原健二(2001)「社会福祉における利用者の主体性の阻害と課題:介護保険制度を例として」『岐阜大学地域科学部研究報告』9,93-105
  6. 池田幸代(2012)「介護事業利用者の介護サービス選択に関する調査研究」『東京情報大学研究論集』15(2),53-67
  7. 佐橋克彦(2012)「わが国介護サービスにおける選択制と利用者主体の限界:準市場の観点から」『北星学園大学社会福祉学部北星論集』49,99-114
  8. 中村晋一郎(2008)「介護保険市場における営利法人についての考察:地域型福祉構築の可能性と問題点」『龍谷大学大学院法学研究』10,145-166
  9. 坂本毅啓(2009)「介護職員確保のための介護報酬改定とその前提条件」『創発:大阪健康福祉短期大学紀要』8,77-92
  10. 川瀬善美(2009)「第4期介護保険下の介護保険施設の経営:2009年第3回改訂の影響」『白鴎大学教育学部論集』3(1),71-87
  11. 大友芳恵(2008)「介護保険制度施行以降における特別養護老人ホームの援助の変化:1996年調査と2006年調査結果の比較から」『北星学園大学大学院社会福祉学研究科北星学園大学大学院論集』11,137-152
  12. 野口典子(2003)「老人福祉法制定前後における"新しい老人ホーム"の構想と実際」『日本福祉大学大学院社会福祉学研究科研究論集』16,1-12

野口はPDFなし

 まず、野口は老人福祉法成立前後の施設状況や設備、最低基準について詳しく述べている。昨今のキレイな設備やケアサービスの充実は歴史的な動きの中で積み上がってきたと観るべきで、現業の人には知り得ない昭和38年くらいの老人ホームの実態の一端をかいま見ることが出来る。ある意味労作である。

 介護保険施行前後の援助の変化について、大友がまとめている。北海道の施設約70から回答を得た内容で、理念としては契約や対等といった事が前面に出るが、実際は、リスク・コストに焦点が行き、労働の流動化、低賃金、パート採用、リスク回避のために施設側の管理や判断が増加したこと。一方、離床時間の拡大などの拘束という名のリスク回避などがされているといった実態が明らかにされている。

 介護保険が施設に及ぼす影響について、経営的な視点で川瀬が論じている。この論文は第4期に当たる時期に書かれ、ちょうど人材確保や処遇改善交付金など賃金の改善が謳われた時期であった。そのため、労働環境などについて割とじっくり論じられている。興味のある人は読んでみると良いかと思う。

 同じように介護員確保と介護保険を論じたものとして、坂本の研究がある。すでに介護労働の定説、女性労働による低賃金、非正規雇用の多さ、離職率の高さ、全産業にくらべると圧倒的に少ない給与…これらに一つ一つ現状を論じている。後半、労働曲線?、おそらく経済学の何かから、最適な状態について開陳しているがよく分かりません。結論として、そもそも介護報酬が低く、経営が不安定なまま使途が限定された処遇改善交付金のような補助金を交付したところで何も解決されない。かといって、保険料の引き上げは国民一人ひとりに負担が増すことなど本文の4章に詳しく書かれてある。

 介護保険と民間参入については、中村が論じている。NPOなど非営利団体が福祉業界にも浸透しているが、本論では特に営利団体について焦点を当てて論じている。営利である以上、利益を出さねばならず、出ないであれば退出する。これが資本社会であり、営利の目的である。しかし、高齢者の持続的な生活を支えるサービスである以上、採算だけを考えてはうまくいかない。この論文では、法人格はたくさんあること、また出資者の法人的性格による地域に根ざした運営が出来ることをいくつかのモデル提示している。

 実際の在宅サービスを利用しての使い勝手や制約について、池田が概説している。約6人の事例からなり、分かりやすい内容になっている。また在宅福祉の現状についてもさらっとまとめている。

 介護保険の市場という取り扱いについて、佐藤がかなり踏み込んで論じている。特に本当に利用者に選択の自由があるのか、市場が通常使う選択は、介護保険ではあるのかなどかなりシビアに問う内容である。前提として、既に要介護認定を受けて限度額を受けることは市場の言う選択ではないし保険給付であるサービスにも平等性が短押されていないとばっさり。地域における格差も前提に組み込まれた介護保険とは何か。考えずにはいられない内容である。

 竹原は利用者の主体性に焦点を当てて介護保険を批判している。そもそもこの先生は障害者福祉論で有名な先生なので、平等とか人権とかが念頭にある人なので、そうした立場で読むと良いかと思われる。

 介護保険ではアカウンタビリティの重要性が説かれているが、このことについては、佐藤が特養について、吉田が法人全体を念頭にまとめている。アカウンタビリティは通常サービス提供者と利用者には様々な情報の非対称性があり、その非対称性を取り払う努力を提供者側がしないといけない。この説明責任を指す。その他、吉田は、モラルハザードについて、佐藤は、利用者と入所者保護とか入所優先順位なども問題視して論じている。

 その他、施設サービス計画について、真砂が論じている。施設サービス計画のあり方について5事例をもとにコメントしている内容。重症化している高齢者への計画作りの参考になるかと思う。

 浅野らは、一施設の入所状況を表にして論じている。もし施設で何かしらの現状と課題をレポートにすることが必要であれば、この論文は調査項目やまとめるべき表作りまで非常に参考になるかと思う。

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介護保険制度1

 介護保険制度などについて収集した論文は24本。

 大まかに制度成立過程とシステムへの批判的検討、そして特に介護保険制度が施設運営にかかる内容に分けられた。

 成立過程とシステムは論文の中で混在することが多く、システムと施設運営はリンクする。なので、これらを厳密に分けることは困難であった。とりえあず、施設運営と介護保険の影響は2にして、ここでは成立過程とかシステムについての論文を紹介していく。

  1. 鏡諭(2012)「介護保険と高齢者福祉の政策的課題:介護予防政策をめぐって」『淑徳大学研究紀要.総合福祉学部・コミュニティ政策学部』46,1-28
  2. 角能(2008)「ケアサービスにおける官・民・家族の役割分担に関する理論的検討--「公的負担の公平性」を中心に」『東京大学大学院教育学研究科紀要』48,103-114
  3. 清水浩一(2003)「介護保険法の成立過程にみる「隠れた論点」--福祉政策決定過程における情報公開と情報操作」『明治学院論叢』690,129-154
  4. 圷洋一(2003)「介護費用に関する素描:社会保障の財源論から規範的議論へ」『長崎国際大学論叢』3,93-101
  5. 大沢光(2010)「介護保険法改正と指定制度:その行政法学的検討」『青山法学論集』51(3),249-289
  6. 岩本康志・福井唯嗣(2011)「医療・介護保険の費用負担の動向」『京都産業大学論集.社会科学系列』28,159-193
  7. 安宅川佳之(2010)「少子高齢化時代の社会保険制度の展望」『日本福祉大学経済論集』40,1-32
  8. 山田亮一(2009)「高齢者福祉施設と社会福祉の史的発展における一考察」『高田短期大学紀要』27,59-67
  9. 佐藤満(2010)「介護保険法の成立過程」『立命館法學』5,2197-2232 補助
  10. 柏崎洋美(2010)「介護保険料に関する一考察:公費方式導入の可能性」『実践女子大学人間社会学部紀要』6,109-124
  11. 孫珉璟(2012)「施行4年目を迎える韓国介護保険:その現状と課題」『佛教大学大学院紀要.社会福祉学研究科篇』40,19-34
  12. 宣賢奎(2010)「日本・ドイツ・韓国の介護保険制度の比較考察」『共栄大学研究論集』8,1-18

清水PDF無し

 海外との比較では、が韓国の介護保険制度の現状について紹介している。韓国も家族介護の限界などから介護保険は2008年から施行されている。また韓国では一人暮らしの高齢者が多くなり、結婚率の低下や離婚率の上昇など日本と同じような傾向にあることが分かる。またシステムは日本のそれとほぼ同じであるが、現在の利用率が6%くらいで、介護度も3段階であるなどの違いがある。人材確保からサービスの内容まで幅広く紹介しており、海外との比較をしたい方には良い内容となっている。

 または韓国に加えて日本、ドイツも加味して比較している。それぞれの制度の成立過程や背景の違いを比較しており、歴史を知る契機になっている。特にドイツでは20年、日本では6年、韓国はより短い期間で成立したこと等や一覧表があり読みやすい内容である。これを読むと案外、日本はサービスが豊富で手厚い印象を受けた。

 柏崎は特に保険料に焦点を当てて、税方式か社会保険方式にするか、そのメリット・デメリットをドイツ、イギリスの比較のもとで検討されていた。しかし、途中から日本の介護保険料の成り立ちから、徴収方法、減免処置、判例を詳述した内容であった。しかし、判例は結構丁寧に書かれ参考になることが多かった。

 介護保険はこれまで5回改正されており、改正のポイントや史的な考察もある。佐藤は介護保険の成立過程を総体的に描写している。政治家・官僚・各種委員会・審議会等々の議事録や発言などをつぶさに取り上げ、再構成し、言説のぶつかり合いからつぶし合いまで、一つの舞台裏を観るかのような内容で、一種の政治小説にも似たスリリングな内容となっている。内容が二転三転する様やどのような言説で組み上げたのかそうした裏事情も含み非常に面白い内容で、労作である。

 同様に介護保険成立過程での政策的意図せめぎ合いについては、清水が論じてる。介護保険成立後二年ほど経過して書かれた内容であり、現在2013年2月現在では意味合いも違ってくるが、安宅川が政策決定の舞台裏を描いているが、清水は事例などを紹介しながら、在宅福祉は家族介護の補完に過ぎないこと、選択の自由は疑わしいこと、情報操作をしたことなどに論点を絞り、その証拠に審議会や政治家のやりとりを証拠として肉付けした内容となっている。歯切れが良くダイナミックな内容で面白い論文である。

 介護保険に至る高齢者福祉の歴史的概説は山田が行っている。たった8ページ読めば高齢者福祉の成立過程が分かるコンパクトな内容で復習にはよいかと思う。ただ、ネオリベ寄りなので、その辺は鵜呑みにしてもいけないが。

 史的展開として社会保険の状況について安宅川が公的年金、医療保険、介護保険のそれそれを広く扱い描写している。どちらかといえば、2000年以降から2050年までの将来的な内容であり、今後の社会保障がどうなっていくかと言った設計に関わる内容となっている。よく持続可能性のある社会保障という言葉がメディアや清司科学にするが、その内実は実は多岐にわたり容易ならざる問題をはらんでいる。その意味でこの論文はじっくりとそのあたりのことを描いており、読み応えがある。

 同様に医療・介護保険について2050年まで詳細にシミュレーションを岩本らがしている。介護保険の方が公的負担分が多いが故に保険料ののびが深刻化することが明らかになっている。また対策として、積み立て方式を示しており、二重の負担をする世代の負担軽減になることが示されていた。

 制度的な課題などについては、指定制度の変遷を中心に大沢が論じている。そもそも介護保険は民間活用、自由な競争で企業などの参入を歓迎していたが、この論文が書かれていた当時、コムスン問題などで2005年の介護保険改正では、監督権や指定取り消しをめぐる法的規制が為された時期で、指定制度とは何かあるいは監督権とは何かについてじっくりと書かれた内容となっている。コムスン問題とは何か、そして何が変わったのかを知る契機になる論文である。

 改正に関わることとして、は2012年の介護予防など第五期介護保険事業計画の内実について紹介を行っている。すでに第5期がスタートして2年目に突入するわけだけど、実際の介護保険業務に従事している人たちにとっては理念や実際のサービス運用について改めてすることはないかもしれない。しかし、現場はともすれば自分の持ち場にことはよく見えるが、その他はまったくということがあり、その意味で総体的な理解としてはちょうど良いページ数で詳しく分かるという便利ものである。

 介護費用について面白い論考として、の研究がある。介護費用は財政や制度上の変遷で語られることが多いが、この論文では介護費用をより広く論じ、ヒト・モノ・カネあるいは、直接・間接といった多様な視点で論じ、"介護費用"というイメージの解体と再編成をしている。介護費用という一件決まったことであってもそこには様々な言説がせめぎ合い、イデオロギーが対立し、流動的であることが分かる内容である。

 介護保険に限らず家族、民間、行政のケアサービスについて四象限化しながら、が論じている。東大大学院の論文なので非常に精緻にこの関係について論理的に述べられている。理念的ではあるが、一口に福祉といっても、行政、民間、家族の役割は違っていて、その整理に役立つ論述になっている。私としてはこうした役割を把握した上で、当事者がどのような"福祉"を利用、選好するのか。そもそもどうしてそのサービスを選好したのかが大事であろうかと思う。じっくり読むとよく分かる内容となっている。


相談援助実習指導者の資格要件に関する調査研究

村田真弓・工藤歩・高木博史(2010)「相談援助実習指導者の資格要件に関する調査研究」『地域研究』 (7), 115-131,沖縄大学地域研究所

http://ci.nii.ac.jp/naid/40017263330

PDFあり

 社会福祉士などは実習指導者研修を受けないと実習が受け入れることが出来なくなって久しい。しかし、それによって実習の受け入れ施設が激減している。その現状を描いた内容となっている。沖縄で2007年以降に実習を受け入れた87機関から収集したのである意味、ほぼ沖縄全域にかかる施設から回収していると思われる。回答の中でも述べられているけれど、確かに実習計画から指導までレベルアップをすることは良いことだとしながらも、福祉事務所とかそうした社会福祉士がいないような所への実習が無くなることで、選択の幅が少なくなっていることなどが指摘されていた。その他、実情を余すことなく書いてあるので興味のある方は読んでみてください。実質8ページなのでサクッと読めるかと思う。

 その他、ちょっと気になって実習指導者研修が義務づけられて以後の実習受け入れ状況などを調べてみた。案の定、これまで受け入れていたけれど、この義務化によって激減していることが分かる。神奈川県では社会福祉士を持っているものの実習指導者研修を受けていない人は70%となっていたり、仙台のMSW養成でも受け入れ機関が27から9に減少したなどの結果になっている。

 また先に書いたように、社会福祉事務所は一つの相談援助としては申し分のない教育現場であるはずだが、社会福祉士がいないために実習先ではなくなっている。また、社会福祉士を有している施設はもともと少ない上に、指導者研修も受けないといけないとなれば、困るのは将来社会福祉士になりたい学生と養成校である。それでも現在、なんとか養成校もやりくりしているから別に大変とは思っていないか。

 いずれにしろ、実習指導者研修は確かに実習のメソッドを提供するという意味ではとても良い取り組みであろう。しかし、時間を割いた上、宿泊費や講習料、教材費まで取った上で、実習指導者にはまったく恩恵(指導料)が入らないという、善意だけを当てにしていてはダメなんじゃないかと思う。

神奈川県社会福祉士会の調査報告(クリックすればPDFが自動でダウンロードされる)

http://www.kacsw.or.jp/info_training/pdf/2011-03-jisyu-hokoku.pdf

山川敏久(2012)「医療ソーシャルワーカー養成に関する諸問題」『東北福祉大学研究紀要』36, 1-11(PDFなし)

http://ci.nii.ac.jp/naid/40019454425

在宅福祉関係2(家族など)

  1. 田辺毅彦(2007)「高齢者介護における心理学的な試みに関する一考察」『北星論集』45(1),47-57
  2. 權順浩(2011)「家族介護問題における介護サービス利用の効果と課題」『龍谷大学社会学部紀要』 38, 37-53, 2011
  3. 研攻一・板倉久美子(2012)「在宅における高齢者介護の問題(7)」『羽陽学園短期大学紀要』9(2),101-231
  4. 藤若恵美・進藤貴子・永田博(2010)「孫世代の高齢者介護観と介助に対する自信」『川崎医療福祉学会誌』19(2),351-357
  5. 大城トモ子・国吉和子・田中寛二(2005)「老人介護者の生活実態調査・研究報告(2)」『地域研究』1,117-125,沖縄大学
  6. 広瀬美千子(2010)「家族介護者の『アンビバレントな世界』における語りの記述」『老年社会科学』31(4),481-491
  7. 川崎陽子・高橋美千子(2006)「高齢者介護を通じての家族介護者の発達に関する一考察」『東京学芸大学紀要:総合教育科学系』57,115-126
  8. 永野淳子(2009)「わが国の家族介護者のソーシャル・サポートに関する研究」『東洋大学大学院紀要』 46, 67-80
  9. 梶原杏奈・牧正興(2008)「家族同居高齢者の孤独感に関する研究」『福岡女学院大学大学院紀要 : 臨床心理学』 5, 7-14
  10. 佐分厚子(2008)「日本の家族介護者研究におけるwell-beingの関連要因に関する文献レビュー」『評論・社会科学』 85, 83-114,同志社大学
  11. 無藤清子(2006)「高齢者の家族介護者・介護家族支援における重要な視点」『東京女子大学紀要論集』 57(1), 125-154,
  12. 岡本多喜子・Guat Tin NG(2010)「夫が妻を介護する理由」『明治学院大学社会学・社会福祉学研究』105-132
広瀬はPDFなし、佐分は同志社大所属のみ

 家族介護系を中心に、在宅介護者について収集した論文は12本。この手の研究の方向性は、介護がネガティブな面とポジティブな面があること。またこれまで家族での介護は、嫁や妻など女性を中心に、ほとんど義務とされてきた日本的な考えでは、今後の超高齢社会では立ちゆかなくなるといった危機感がある。また家族介護自体、ブラックボックスというか当たり前とされて特に注目はされてこなかったが、それでも度々メディアに上がる高齢者虐待や家族介護の疲れから心中や殺人など後を絶たない。やって当たり前という風潮の中で、では実際に介護をする側になったとき…その労苦は報われることが無く、女性を犠牲にして成り立っていた。

 その一方で、介護保険の登場で介護は社会全体で行うものであると宣伝された。40歳以上からの皆保険である以上そうでなければいけなかった。蓋を開けるとそうでもなかったが、そう謳った効果はあった。これまで無償で陽の当たらなかった家族介護者は、介護保険の登場で権利を有するようになった(と思う)。しかし、介護保険の財源抑制のために再び家族介護に回帰しようとしている。しかし、覆水盆に返らず、あるいは、介護保険前の家族介護とはまったく違った様相を見せる。それは社会側が家族介護に対して配慮をしなくてはならなくなった。しっかり社会で家族介護者をフォローします。だから保険だけはしっかりと払ってください。それだけのことはします、と。それがたとえポーズだとしても…

 と穿った見方をしてみたけれど、ともあれ家族介護については、在宅の利用者本人の聞き取りよりも豊富にある。それは翻れば、社会的な要請もさることながら、いずれ介護をしないといけない自分、または介護される側に立ったとき、よりよい関係とは何か。そうした模索が学者自身にとっても重要な意味を持っていると見た方がよい。

 前置きが長くなったが、在宅福祉関係特に家族やサポートする側に対する文献研究として、佐分がある。この論文を読めばまず家族介護の現状について幅広くレビューをし、膨大な文献の紹介も行っている。かなりの労作なので、この分野に興味のある人は先ずこれを読めと言いたい。同様に文献リュビューとしては、永野もある。こちらはストレスと介護者の関係そして、ソーシャルサポートに特化している。

 家族介護の中に介護者の孤立感がネガティブな要素としてあるが、その事については梶原らが施設の利用者、在宅高齢者、同居家族それぞれの孤立について論じている。相関関係や因子分析などから内実を明らかにしており、同居していても被介護者は対人消極性が、家族は対人不信感が孤立感として促進されていることを明らかにしている。

 ネガティブ要因を簡単に論じたものとして、大城らの研究がある。実質三ページしかない調査論文である。結論としては、精神的な支え~同じようなな環境に置かれている介護者同士の話し合いなどのサポートの重要性を論じてる。

 他に、田辺が介護によって生じるストレスとは何かについて概説している。ただし、論題が広義の高齢者負担だと思っていたが、読み進めると、主に介護保険施設で働く介護員の業務過多な状況について描かれていた。この業務過多になった外因などを知りたい人には参考になる内容。

 家族介護のポジティブ要因としては、自己成長感があるがそのことについては川崎らがインタビューをもとにM-GTAでコーティングして分かりやすく論じている。この論文、かなり面白く、どの段階で自己成長感を感じることが出来るのかなどを実際の発言をもとに書かれており、説得力もあり、途中に上げている表も見やすい。M-GTAの見本のような論文である。

 同様な内容として、広瀬もまたM-GTAを採用して、家族介護の役割について考察している。こちらは自己成長とかポジティブ要因の追求ではなく、どちらかといえばネガもポジも両方を含みながら介護が進行するというファジー(あいまい)な感覚を表現している。役割を遂行しようとする規範的な自分と心情的にも焦ったり投げ出したいとする遂行への抵抗などアンビバレントな状況をインタビューを交えて考察。こちらはある意味、より現実的な内容となっている。

 家族介護とジェンダーの視点で良くまとめているのが、無藤である。この論文もまた家族介護を語る上で重要な論文でこれを読めば家族介護の心理的段階からサポートのあり方、そしてジェンダーと介護のあり方を再考している。特にライフサイクルと介護、家族の関係などは非常に読み応えがある。佐分よりも先にこちらを読み、家族介護の全体像を頭に入れるとより理解は深まると思われる。参考文献も豊富で労作である。

 逆に夫が妻を介護する時のケーススタディとして、岡本らがまとめている。こちらも様々な症例と夫の対応を事細かに書いてあり、読んでいて考え込んでしまう内容である。豊富な事例と共に介護者である夫からの聞き取り調査もまとめてあり、最後に経済的に豊かだろうがそうでないだろうが、自分が妻を世話するのは当然だからという自然体へとたどり着いた夫達の覚悟のようなものをかいま見た。それはその逆もあるだろうと。実に読み応えのある内容。

 変わったところでは、孫世代の介護観についての調査を藤若らが行っている。おおよそ350人くらいの調査。こちらも因子分析で探索的にどのような介護観を形成しているかを構造化したもの。祖父母との親密さが介護への肯定感の正の関係にあること。またジェンダーバイアスなどは無く、社会資源に対して抵抗感はないなどの結果が出ている。結果だけでも面白い内容。

 介護保険サービスの実際の介入から家族と本人と事業者のやりとりを克明に描いたものに、研らの研究がある。これは事例研究としても非常に参考になり、ある意味生々しい。介護事業者が計画に持っていくまで、あるいは困難ケース(家族を含め)をどうまとめるのか参考になる内容である。

 同様に介護サービスが実際家族介護にどのような効果があるのかについては、が行っている。特に経済的な側面に注目して、批判的に考察している。在宅福祉サービスはある程度介護負担の軽減をもたらすが、それでも総体的な軽減にはなり得ないことや金銭的な負担や所得の多寡によってずいぶん違う結果になることをある意味リアルに描いている。

在宅福祉関係1(利用者)

在宅福祉に関して収集したものは、22本。そのうち利用者個人についての調査などは9本であった。

堀、菊池ら、金らは、PDFなし。他無料PDFあり

 在宅福祉関係の視点としては、利用者と家族のあり方に大別される。もともと在宅福祉は施設とは違い、家族と一緒に生活することを前提に利用するサービスである以上、家族と利用者の関係性などを考慮するのは当然である。また在宅福祉サービスを利用することでどのような効果があるのかが考察されることは必然である。

 利用者本人での調査のほとんどが在宅で継続して生活していく上でどのような条件や要件があるのか。あるいは、自立した生活とはどのようなものかを考察したものであった。

 福島らは、一人暮らしを継続させるためにはどのようなサポート体制が必要なのかをKJ法でまとめている。随所に図式化され視覚的にも分かりやすい内容となっている。継続条件として、身体・精神・社会的自立に分けており、サポートとしては精神と社会の環境の安定がより重要ではないかという感想を持った。中でも経済的な安定と孤立を防ぐための手だては外部からのサポートとして継続性が求められそうである。

 社会参加については、菊池らが地域コミュニティと余暇活動について考察をし、普段高齢者はどのような余暇を過ごしているかを調査している。案の定、家にいてテレビを見て過ごすことが多いながらも、元気な高齢者はサイクリングやジョギング、あるいはイヌの散歩などなんらかの体を動かす機会を自分で見出して行っており、近所の人たちとの旅行なんかもしている。この論文では、距離や頻度に応じた社会参加について図式化しており読みやすい内容となっている。高齢社会である以上、日常的な地域コミュニティの形成は高齢者自身にとってもそして今後高齢者になる人たちにとっても有用な取り組みだなぁと思う。

 反対に、閉じこもりがちの高齢者についての調査は、平田らが行っている。12名だけの少人数で、数字をはじき出すのはどうかと思うが、医療との関連性はあるが、介護保険では非該当になっているということから生活基盤の確立において福祉のサポートが得られにくい状況が閉じこもりを誘発していることが容易に想像できる。また歩行状態も閉じこもりを誘発していることが示されていたし、自分の活動性が低下していることを十分に理解している様子であった。

 この閉じこもりの帰結としての孤独死について考察したものが、である。この孤独死が注目されたのが、阪神・淡路大震災での仮設住宅での孤独死であるが、その後、無縁社会とか東京の片隅で無くなる事例などが報道されたことから脚光を浴びている。この論文では、そうした孤独死を扱った新聞報道を広く収集し論じた内容で、興味のある人は是非読んでもらいたい。多様な事例をもとに非常に重たい内容である。特に、「孤独」から「孤立」という記述の変化から、それは心情から社会的課題へとシフトしていったとする視点は正鵠を射ていると言える。

 中村らは、身体的な機能について、従来”老いとは”という概念は、高齢者ではない世代から定義づけられてきた。しかし、高齢者になっている人々の主観的な健康観や老いの境地と言うことはあまり調査されていないとする視点で聞き取り調査をしている。中でも、エリクソンの発達段階に沿った質問項目を用意しているのがユニークであった。エリクソンの発達段階は、循環したり行ったり来たりするので、そうした使い方は面白い。日頃高齢者は、特に死について楽観的であったり、気軽に話すこと。またやり直したいとか何かに後悔するよりも明るい諦念とも言うべき現状を受容している感覚に近いことなどが明らかにされている。

 この主観的な調査として、福本らも同様に行っている。こちらは健康が阻害されることで、高齢者はより自分が老いであることを意識するが、健康な状態、大きな疾病による変化やけがなどがない場合は、通常老いを意識していないという結果を報告している。更にやはりというか、ある程度元気な高齢者にとって、年寄り扱いを受けることはあまり好ましく思っていないという結果になっている。また施設入所に対しても負のイメージを持つ傾向にある。また普段老いを感じている人は幸福感とか自己受容が高く、老いを感じる度合いが少ない人は生活の張りや積極的外出などに生き甲斐を見出していた。

 小坂はデイに来ている高齢者の生活満足度を調査している。在宅での日頃の楽しみ方からデイ利用の満足度、デイを利用した結果QOLがどのように向上したかの効果測定である。デイ利用の楽しみは、入浴と食事であった。多分、普段家にいてもあり合わせのものしか食べないので、こうしたところで食べる昼食は一種のごちそうなんだろうと思う。意外だったのが、他者との交流に満足を得ているのは70%。職員サイドとしてはこちらに満足してほしいところであるが、実情はそうであった。

 小坂らに近いところでは、金らの介護予防の日常生活動作や運動機能向上プログラムの効果測定を行っている。今年度(2012年)から介護報酬が改定され、生活機能向上プログラムというものがデイで新設されたが、その参考資料として収集したもの。生活とデイでのトレーニングと両輪としてリンクしていかない。ただきっかけとしてデイでの取り組みが生活に張りや運動する意識付けになる契機にはなるかと思う。

 高見らは日本での利用者満足について広くレビューをしている。その中でもあまり調査されていないケアマネに対しての利用者の満足度調査を行っている。因子分析の結果、因子構造から1.ケアマネの対応、2.サービスのアウトカム、3.サービス提供者の対応、4.利用者のニーズ、5.サービスへの不安となっていた。またケアマネへの期待は利用者本人よりも家族が寄せられていることが分かる。

 このように大まかに見てきたが、総じて高齢者への聞き取りや考察は、自分がいずれこうなるから…というよりも、こうした高齢者の本当の声を聞きながらでは、福祉サービスはどうあるべきかと論じる傾向にあった。この中から特にオススメなのが、分かりやすいところでは、福島らが高齢者の生き方を良く描いている。は考えさせる内容。中村らの取り組みも面白いと思う。

歴史的地域素材の教材化とその特色

外池智(2003)「歴史的地域素材の教材化とその特色」『秋田大学教育文化学部教育実践研究紀要』25, 17-30

http://ci.nii.ac.jp/naid/110000970124

PDFあり

 副題は、「古里カルタ 私たちの八橋・寺内」を事例として となっている。

 私が小学校の時に、このいわゆる「八橋カルタ」をもらって、また校外学習として、高清水から八橋まで史跡巡りをした記憶がある。いまもそのカルタは大事に保管してあって、カルタの箱に、「たからもの」と自分でマジックで書いていた。今、子どもたちに夏休みの課題で、一緒に史跡巡りをしたり出来るのは、こうした教育があったためである。高清水の霊水とか記憶の底にあったんだけど、子どもとカルタを片手に地図を見ながら歩いたのはちょっとした記憶への冒険でもあった。

 そもそも高清水や八橋、あるいは寺内はかなり古くからある町で、平安時代までさかのぼることが出来る。しかし、こうした事実も教育無しでは理解できない。そう言う意味で教育の力ってすごい。逆に言うと、教育によって洗脳も出来るし、間違った歴史認識を…ってここでいうことじゃないか。

 とにかくこのカルタ、実は一人の校長先生の発案で行われたものだった。しかも県単位ではなく、市町村で、しかも校長一人が興したって所がすごい。当時、このカルタは1980年に制作されたんだけど、当時小学校では、1978年で児童数1600人38学級あった。その後、泉小学校が出来て幾分か分散したけれど、1200人34学級だった。またゆとり教育の走りの時期でもあり、4学級分の余裕が出来たことから、空いた教室で郷土教育を推進できたとのこと。またカルタを作るだけではなく、それを活用した様々な取り組みをしたこと(八橋人形の体験制作や作成過程のフィールドワークを生徒に追体験させるなど)や校長先生の述懐とか、かなり示唆に富む内容である。さらに当時の図版やどのようなことがカルタに取り上げられたのかといった分類まで詳しく分析されている。その後、この校長先生は赴任先でも同様にカルタをなんと5つも作っている。

 一人の発案から郷土教育が発展していく。その熱意に人々は突き動かされ多様な活動へと結実する。それは子どもたちに郷土教育を根付かせ、もしかもしたらまた自分の子どもに継承させる契機となる。私の恩師も、教育ってのは種まきだからとのこと。それが花を咲かせ、また種になる。そういうことなんだろうと思う。

 かなりレアな論文なので、是非お手元に。

認知症高齢者を介護する家族の抑うつ傾向の軽減に有用な介護保険サービスの検討

坪井章雄・NDパリー(2011)「 認知症高齢者を介護する家族の抑うつ傾向の軽減に有用な介護保険サービスの検討」『茨城県立医療大学紀要』16, 23-32

http://ci.nii.ac.jp/naid/110008464693

PDFあり

 茨城県全体の介護家族の人数を割り出し、そこから抑うつ傾向にある割合を算出。そして1000人以上からの回答を得た大規模な調査報告である。

 例によって、調査は考察しか読めないので、結果だけを示せば、論題が認知症高齢者と特化しているわりには、非認知症高齢者も対象にして約半数いることから、特化した意味がよく分からなかった。また有用な介護保険サービスについても、ショートやデイでは有意の値が出ていなかった。ただ、従来あるように、介護する側の人に、相談者がいること、援助者がいること、趣味があること、家族に相談できる環境があることが、抑うつには効果的であるという結果が示されている。結果として、家族の会とか介護教室、あるいは話し合える場を作ることが何より効果的であるという結果になっている。

 思うに、抑うつ傾向にある人に、今使っている福祉サービスは役に立ってますかって聞いても、抑うつが良くなるわけではない。とはいえ、これ以上悪くならない第一線に、在宅介護のサービスが日常にあるってだけなんだろうと思う。ただ、本当のうつ病にならないのは、まだ相談する相手があるとか、家族と話し合える環境にあるからなんじゃないだろうか。

 10ページの内、実質本文が4ページくらいしかないので、サクッと読んで雑学程度にどうぞ。

介護専門職における専門職性についての一考察

鴻上圭太(2008)「介護専門職における専門職性についての一考察」『創発 : 大阪健康福祉短期大学紀要』7, 175-183

http://ci.nii.ac.jp/naid/110006966793

PDFあり

 副題は、三好春樹論研究を通じて となっている。

 三好先生のことはよく分からないけれど、なんか介護系ではかなりの有名人らしい。一冊本屋で、「介護職よ、給料分の仕事をしよう」とかそんな題名の本を見て、やなこと書く人だなぁという程度で中身は読んでいない。どうせ、久田則夫とかヘルプマン(マンガ)とかと同じ類だろうと。どうも教えてやるってのが前面に出ているとか、これすげ~問題じゃね?、気付よバカって感じの論調の人って、なんか避けちゃうんだよね。

 で、サクサクと論文を処理していたら、この論文にぶち当たって、どれどれ三好先生の思想ってどうなのと興味半分、冷やかし半分で読んでみた。なるほど、普通の生活を送らせるのが、介護のプロらしい。でもって、医療とか看護師とかの医療は信じていないらしく、生活をしっかりと見なさいと。オムツははかない、機械浴は不要とかそうらしい。でもって、論者は、それってミクロの視点であって、社会的文脈ってものが無いジャンとか、科学的な見地を有しないと継続したケアは無理だろうと批判している。

 まぁ、豊富な知識と技術に裏打ちされた自然な動作による、さりげなくも心地よい介助ってのは理想だよね。そして、家で苦労していたときよりも快適な生活が送れるならばそれに越したことはないよね。当たり前の生活って言っても、ネグレクトが長かった人と過保護に生きてきた人の当たり前は違う。三好先生の本を一冊も読んでいないし、これからも読むつもりは全くないので、とりあえず、当たり前って何? ってことでよく分かりません。

 ちなみにこれを書くときにちょこっと2chで三好先生の評価を見てみたら、シビアなことで有名な2chでも、介護に思想を持ち込んだという功績と講演での話しのうまさは、認めていたって事で、一応プロなんだろうと思う。

 三好先生の講演とか本を読んだことのある人は是非、併せて読んでみてください。

ホスピスに見る死の分解

服部洋一(2004)「ホスピスに見る死の分解」『死生学研究』 4, 350-374,東京大学グローバルCOEプログラム「死生学の展開と組織化」

http://ci.nii.ac.jp/naid/120000863025

PDFあり

 副題は、終末期ケアの現場への文化人類学からのアプローチ となっている。

 これまで死生学での研究の流れから現在のホスピスにおける死の扱いについて考察している。はじめに死についての考察は、「葬儀」に見るイデオロギーとか資本社会における死の扱いなどを中心に行われてきたと論じている。言い換えると、葬儀に内在する規範、日常への回帰、あるいは残された人々が葬儀を通じてどのようにダメージを軽減するのかといった、生きている我々側の問題として捉えられていた。その一方で、ホスピスはまだ死に至らないが死に逝く過程が間近な人々であり、それを取り巻く医療とか家族とかがどのように介入しているのか。そして、ホスピス当事者がどのように間近に迫る死の中で生きていくのかが問われる。これは、死んでしまった結果から、その後を論じるのではなく、死に逝く人々をどう捉えるか。それは翻って、生をどのように捉えるのかがホスピスでの死の考察となる。簡単に言って、ホスピスの当事者をどう遇するのか。それは、いずれそうなる自分たちの扱いに関わる問題なのである。

 この論題~死を分解するとは…あまり好ましいものではないとイメージになりがちだが、内容を読めば決してそのようなものでもなく…かといって肯定的でもない。事実として、そうであるという意味で捉えると自然であろう。

 論者がアメリカでのホスピスでのフィールドワークを、もともとアメリカの学会で口頭発表したものを日本語で書き起こしたものと言うことで、必ずしも日本の死生観とは若干違うのかもしれない。日本においても臨終間際の人への聞き取り調査やお迎えをめぐる質的研究も散見されており、死を迎えることの蓄積はある。とはいえ、この論文はどちらかといえば当事者以外の死をめぐる取り扱いに焦点を置いて、より広い視点で論じられていた。

 私自身、分からないものをスピリチュアルなものに還元するのではなく、また個別の尊重の名の下で自分だけが特殊であるという陥穽にはまらず、ギリギリの中で考え抜くこと。それが生への豊かさを掘り起こすのではないのかなぁと思う。その意味で、分解という理解のもとで考えること。それは多分、必要なことだと思う。

介護老人施設で暮らす軽度認知症高齢者の日常での経験

服部紀子・安藤邑恵・中里知広ほか(2011)「介護老人施設で暮らす軽度認知症高齢者の日常での経験」『横浜看護学雑誌』 4(1), 63-70, 横浜市立大学

http://ci.nii.ac.jp/naid/110008146959

PDFあり

 認知症になった人への質的研究は最近結構盛んに行われている。というのも、認知症とは単なる物忘れ・惚けとは違った、現実世界と自分の関係性の崩壊を意味する疾病であるから、その内面で何が起こっているかを知ることは重要である。なぜなら今後(すでに)高齢者が増大する日本において、この認知症への理解あるいは対処は早急に取り組むべき課題であるからだ。

 この論文は、軽度認知症と診断されている高齢者から聞き取った質的研究。しかも介護保険施設に入所して生活している中で、彼女たちは何を想って生活しているのかを知る良い内容である。一般に、入所とは閉鎖的だとか自由がないとか、尊厳が守られていないと見なされる。また認知症は、その日のことも忘れるから聞き取ることは無理だと思う。あるいは、認知症がしばしば起こす「問題行動」は職員側がしっかりと認知症を理解していないから起こる問題だと言われる。そうした言説は、当事者の実際の声ではなく、外部や職員サイドからの把握でしかない場合が多い。そうした意味で、こうした聞き取り調査から当事者が実際どう思っているかを聴くことは非常に大切であろう。

 内容は本文を読めば分かるように、案外施設に対して肯定的な意見を拾うことが出来ていた。家族に惚けで迷惑をかけてきたので、ここで暮らすと安心だとか、同じ日課の流れでむしろ安定できるとか、動いたり疲れたりしていたからこうした上げ膳据え膳は楽だとか。また職員は家族と違って脅かしたり怒ったりすることがないので良いとか。またはみんなと話し合ったり、同じような年代の人たちと一緒に暮らすことは楽しいとか。一番気を遣っているのは、これ以上お世話になるのは気が引けるので体調だけは気をつけているというのは軽度であるが故の発言だろうと思う。

 いずれにしろ、ケアの質を高めなさいと言われるが、何のためにと言われれば、利用者のためと答えは返ってくる。しかし、当の利用者がどんなことを思っているのか。そうした事実を読めばまた仕事に対しての目的意識がより高まるだろう。入所者達は感謝している。だから良い仕事をすることは大切である。そんなことを確認させてくれる内容であった。

知的障害者グループホームにおける援助実践に関する研究

田中清(2006)「知的障害者グループホームにおける援助実践に関する研究」『佛教大学大学院紀要』34,195-209

http://ci.nii.ac.jp/naid/110006472603

PDFあり

 個別支援計画を軸に、知的障害者の地域生活をいかに支援するかを主眼にして論じている。グループホームがミニ施設化とか入所施設と大差ないと言われる批判がある。またバックアップ施設と世話人の力関係。あるいは世話人の地域生活の支援の欠如~専門教育を受けているとは限らない人たちがそこで働いていることなど様々な問題点がある。

 しかし、この論文では、それでもグループホームは原理的には入所施設とは違って地域で生活するためのステップ:通貨施設であることを踏まえ、では、実際にどのようなプロセスで行うべきかを洗い直している。

 私自身、知的障害児施設でしか働いたことがないので、地域生活支援とはいかなる事なのか。あるいはそうした具体的な実践に触れたことがない。なので、どこまでがそうなのかという事がよく分からない。その後、高齢者福祉関係に異動して、デイサービスの相談員をするようになって、個別支援とか在宅支援というものの一端に触れておぼろげながら、この論者が提唱する個別支援計画のシステムは、介護保険のそれとかなり類似しているなと。

 介護保険の在宅部門では、ケアマネジメントと各事業所が利用者宅に集まり、どのようなサービスを提供すれば良いのかを会議をする。長期目標を立て、実際のサービスの状況を話し、さらに家族や本人からニーズを聞き取り…。そうしたことをイメージしながら読むとなるほどと思うような内容。

 とはいえ、高齢者は、まず就労という選択肢はほぼないし、在宅だとまずもって家にいるためすでに地域生活をしているといえる。その点、グループホーム後の地域生活の確保、まだ若いのであれば就労の確保、そして知的障害という判断力をどの程度勘案するのか。またいまだに社会的防衛的な意味で知的障害児を囲い込んでいる体質が社会にある以上、それをどう打破するのか。その辺がうまくイメージできなかった。

 しかし入所とは別に、あるいはより地域で生きることを念頭に様々な調整をしていくことの重要性が、グループホームに関わる職業人には意識づけていくことが大切である。そうしたことだけは伝わってきた。

幻想文学論序説

花方寿行(1995)「幻想文学論序説」『比較文学・文化論集』11, 26-40, 東京大学比較文学・文化研究会

http://ci.nii.ac.jp/naid/120003324807

PDFあり

 副題は、現実と幻想の境界について となっている。

 う~ん、難しいというか、もうちょっと整理してほしいなぁという内容。序説なんだから仕方がないけれど、いわゆる幻想文学の類型化とかカテゴリー化を狙った内容。こうしたカテゴリー化の思考のプロセスを繰り広げているので、折りたたんだり、拡げたりするために、非常に読みにくい。というか、素養が私にはないから余計そう思うのかもしれない。

 幻想文学といえば古典とかゴシック怪奇小説などを対象にしがちだけれど、この作者はスティーブン・キングや指輪物語などの現代物やファンタジー小説までを視野に入れており、汎用性を狙っているようである。

 幻想文学、ファンタジー、ホラー、SFなどに興味のある方で、より深く読みたい方には参考になる内容かもしれない。

重度知的障害者の利用者主体に基づく支援に関する研究

津田耕一(2012)「重度知的障害者の利用者主体に基づく支援に関する研究」『関西福祉科学大学紀要』16,17-28

http://ci.nii.ac.jp/naid/110009486327

PDFあり

 副題は、支援の視点と支援過程からの考察 となっている。

 やや上から目線の記述で、う~んと思わないでもないけれど、知的障害者の福祉の流れをコンパクトにまとめている内容となっている。措置制度時代から現在まで。あるいは、利用者主体の概念の変遷、人権、エンパワメント、ケアの倫理などなどを分かりやすく記述しており、ちょっとした学習にはもってこいかもしれない。

 中でも利用者をどう呼ぶか、「ちゃん付け」か「ニックネーム」なのか「呼び捨て」なのか、あるいは大人として「さん付け」で話しかけるのか。それによって述語が違ってくる。そうした日常のやりとりで支援者と利用者の関わり方が違ってくると論じているところは、そうだよなぁと思ったり。

 この論者は一段高いところから述べているために、理想論を語っているように映るけれど、そうした人も必要なんだなぁと思う。現場のことを知らないクセにというのは簡単である。しかし、それで何も言えないかと言えばそうではない。重度知的障害者は意思疎通が難しく、存在そのものが非常に難しい立ち位置にある。しかし、それでもその人のことを知ろうとして、ケアの間に立って、潜り込み、自分と向き合って、相手のことを考え尽くすこと。それは人間に興味を持つことにつながっていき、それが支援に深みを増す。

 即効性のある内容ではないけれど、時々思い出したように読むと考えずにはいられない内容かもしれない。

社会福祉施設における高齢者虐待についての一考察

李相済(2002)「社会福祉施設における高齢者虐待についての一考察」『立命館産業社会論集』37(4),221-239

http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/ss/sansharonshu/374j.htm

PDFあり:独自リポジトリ(題名をクリックすればダウンロードされる)

 副題は、職員配置基準に焦点を当てて となっている。

 題名から分かるように、施設内虐待についての総括的な内容になっている。この手の論文はゴッフマンの言説を取り出して、閉鎖的な機関や施設での入所者は自由や尊厳が剥奪されることを引き合いに出される。いちいちもっともなんだけど、それだけでは解決できない。いくら職員が閉鎖的な中で利用者ここのニーズを適えようとがんばっても、そうできない理由があるからだ。

 この論文は、それを職員配置基準で雇用される職員数が制限をかけられていることに焦点を当てている。もちろん、そんな配置基準を無視してたくさん雇用すれば委員じゃないのということになるけれど、そうすると経営面で危なくなる。結局財源で基準ギリギリでなければ施設自体が立ちゆかないようにコントロールされている。では、何がコントロールしているのか。それは介護保険である。とはいえ、保険財源そのものが無尽蔵にあるわけではないから、その枠組みでやっていくしかないのである。

 それはそれとして、本論では高齢者の声をいくつか拾い上げて、キツキツに働いている介護員の実態などを明らかにしていて、その箇所だけでも読めば納得の内容となっている。

 職員は虐待をしたくて働いているわけではない。そして施設もまた閉鎖的であり続けたいとは思っていない。そうである構造的なことを総体的に書いてある。読み応えがある内容となっている。


ナラティブとエビデンスの関係性をめぐる一考察

奥野雅子(2011)「ナラティブとエビデンスの関係性をめぐる一考察」『安田女子大学紀要』39,69-78

http://ci.nii.ac.jp/naid/110008103436

PDFあり

 この論文は、医療におけるナラティブとエビデンスの関係について考察されている。社会福祉でもこのエビデンスとかナラティブは使われる。エビデンスは簡単に言って「実証」あるいは「根拠」、ナラティブは「語り」である。

 特にエビデンスは介護分野では使われ、その行為にエビデンスを示しなさい。あるいは、根拠のある介護、あるいは科学的に測定できる介護を目指しましょうと。ちょっと勉強したことのある人なら、EBM(実証に基づく医療)とかEBSW(実証に基づくソーシャルワーク)という略語を知っているかもしれない。

 エビデンスは客観的実証であり、ナラティブは主観的体験(語り)であるから、通常対立概念と考えられている。しかしこの論文には、濃淡はあれどもエビデンスの中にナラティブが、あるいはその逆にあり得ること。また症例をもとに時間的経過の中でエビデンスとして判断することもあればナラティブから判断することもあるなど、連続性や思考が行ったり来たりしていることなどを紹介している。

 考えてみれば当たり前の話で、たとえ量的調査でもそこには研究者の主観が含まれて数字が構築されるものだし、質的研究でも妥当性や手続きをする上で客観性を保持しようとする。また人は、どこかに根拠を持たないとその言動に説得力を持たないが、かといって主観的な判断からは逃れられない。結局、対立と言うよりも、研究でも判断でもこのナラティブとエビデンスは常に内包され、円環されるのである。本当のエビデンスとは初期条件だけであるとする視点は全くその通りと思う。

 短い論文ながら、ナラティブとエビデンスという言葉に興味のある方にはよくまとまった内容で理解が進むかと思う。

医療ソーシャルワーカーの養成のあり方と医療連携チームの今後の養成課程の方向性

鍵井一浩(2012)「医療ソーシャルワーカーの養成のあり方と医療連携チームの今後の養成課程の方向性」『関西福祉科学大学紀要』16,129-151

http://ci.nii.ac.jp/naid/110009488496

PDFあり

 簡単に言って、看護師や医師、あるいは理学療法などに比べて、MSWの教育は充分にされていないことを強調した内容になっている。大学院生の論文なので先行研究の下調べからMSWの存在意義が増した政策的背景、退院支援やそれに連なる生活へのフォローに対して診療報酬がついたことなどを詳しく書いてある。ただ、文章がくどい上に同じような言い回しが何回も出てきて、それさっき読んだし…とつぶやいてしまうこともしばしば。

 問題としては、社会福祉士がMSWになれることは資格の職域が広がって良いことであるが、しかしMSWの実習をしないままにこの世界に飛び込むには、社会福祉士のカリキュラムからすれば脆弱と言わざるを得ないだろう。医療には医療のロジックがあり、それを充分に踏まえた上で、社会福祉の視点で行わないといけない。ある意味、メディックの専門職~医師や看護師の土俵を十分に理解した上で、SWのロジックを主張していくという、よりも非常に難しい立ち位置である。

 昔、社会福祉士とは別に、MSWになるための専門のカリキュラムや実習形態があった。私の大学でも、その特殊な実習をしないことには医療相談系へ就職はできないという暗黙の了解があった。そう言う意味でも、昔からMSWになると言うことはそれなりの準備が必要なのである。

 ちなみに別論文では、社会福祉士の実習指導者研修が導入されてから現任のMSWが受け入れを拒否するようになり実習先が激減しているという現状もあり、今後どうするんでしょうね。

 それでも、もしMSWになろうかなと思う人には一読の価値があるかと思う。


自閉症者の生活状況に対する生活支援員の捉え方

松山郁夫(2012)「自閉症者の生活状況に対する生活支援員の捉え方」『佐賀大学文化教育学部研究論文集』17(1),111-118

http://ci.nii.ac.jp/naid/110009452933

PDFあり

 全国自閉症者施設協議会に加盟している入所タイプの障害者支援施設で、青年期・成人期の自閉症者の生活支援を行っている生活支援員約300人近くから回答を得た大がかりな調査である。その自閉症者のどのような生活を支援することに気をつけているかという内容。因子分析なので私はさっぱりなので相変わらず結果だけを示せば、自閉症者の生活状況を全般的に捉えようとしていること。しかし、文字の読み書きや全身の協調運動と言った発達敵視店はあまり考慮されていないこと。また生活状況を捉える上では、優先順位が高い方から、心理状態を捉えること。日常生活技能を捉えること。社会適応技能を捉えることの順番であった。詳しくは本文に書いてあるけれど、端的に自閉症は行動の把握や情緒の安定を図ることが難しいときがある。その内面への理解が生活支援の独自性といえる。

 とはいえ自閉症特有の行動ばかりに気がいくのではなく、それを踏まえた上での社会生活技能(読み書き、金銭管理、家事機能など)へのアプローチもまた必要なのではないかぁと思ったり。まぁ、知的レベルもあるから一様には言えないけど。

 日々障害児・者、特に自閉症と関わることがある生活支援員なら、この論文を読むことで自分の仕事を振り返ることが出来るのかもしれない。

「障害」をめぐる理解の差異はどのようにのりこえられるか

通山久仁子(2006)「「障害」をめぐる理解の差異はどのようにのりこえられるか」『西南女学院紀要』10,40-47

http://ci.nii.ac.jp/naid/110004866387

PDFあり

 障害への差別とはいったい何か。この問いかけをじっくりと考えた内容となっている。

 障害は差別してはいけないとか障害児も生きる権利があると言われて久しい。しかし、障害のあると出生前診断で分かったときに中絶を選択すること。障害者をみて気の毒だと思う心情。障害を克服するとリハビリをすること。それらは全て知らず知らずに障害を否定している。

 文中にある医師が障害がある子どもであることを告知しなかった故に、介護を含め賠償訴訟が起き、慰謝料や損害として5千万近くが認められた判例が紹介されていた。それが意味するのは、司法がそう判断した背景に、障害児が生まれることは両親にとって損害であると認められる社会的な素地があることを証明している。また、障害を持つことになると、ショック、否認、混乱、解決努力、あきらめ、居直り、という段階を経て受容に結びつくとされる。しかし、それは一つモデルであるとされながらも、それが一人歩きして、「あの患者は受容が出来なくて困る」といった発言が専門職の間でしばしば起きており、この障害受容論の持つ専制性を見いだすことが出来るなど、その指摘は鋭い。

 その後ナラティブによる語られなかった当事者の言説を紹介し、障害だからという一面性だけではなく、健常者と障害者の世界を行ったり来たりしているその事実を明らかにすることの重要性を謳っている。

 7ページだけれどもじっくりと考えられる内容となっている。

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 ちなみに中途障害者のライフストーリーやナラティブ分析については、引用文献で紹介されているのが非常に分かりやすく読みやすい。こっちはこっちで色々と考えさせられる内容で、まさに人の人生は通り一遍のストーリーラインではないことを知らしめる内容になっている。一人ひとりの人生(途上)について思いをはせることの出来る良い内容である。

田垣正普(2000)「中途障害者が語る障害の意味」『京都大学大学院教育学研究紀要』46,412-424

http://ci.nii.ac.jp/naid/110000083452

PDFあり

副題は、「元健常者」としてのライフストーリーより となっている。


ダウン症の子どもを持つ母親の「障害をめぐる揺らぎ」のプロセス

関維子(2010)「ダウン症の子どもを持つ母親の「障害をめぐる揺らぎ」のプロセス」『社会福祉』51, 67-87,日本女子大学

http://mcn-www.jwu.ac.jp/sw/backnumber_mokuji.html#51

PDFあり:独自リポジトリ(目次をクリックすれば自動的にダウンロード)

 副題は、障害のある子どもを持つ母親の主観的経験に関する研究 となっている。

 質的研究、M-GTAの技法を使ってとても分かりやすく書かれた内容。M-GTAはちょうど会議録にも似て、時系列でありながらもいくつかの話のまとまりを上手くコーティングするので、ストーリーとして非常に読みやすくなる。

 この手のテーマは、障害を持つ子を出産してから、悲嘆に暮れたり、葛藤したり、闘ったり、そして最後には受容すると言った、障害理解のプロセスを描き出すものが多い。この論文も基底にはそんなところがあるけれど、面白いのは、一直線に、ネガティブ→ポジティブの過程ではなく、ネガティブに思っていることが多いけれど、その反面ポジティブだったり、またポジティブに行動しながらも想いの中にネガティブなものがあったりと、常に「揺れ」ている心情を上手く表現している。またこの論文の独自性は、心臓などの重篤な合併症を持つことになったダウン症の子を持つ母親と内疾患がないダウン症の子どもをもつ母親の心情の違いを考察していること。

 結果だけ言うと、合併症を持つ方は、医療的なハードルを越えるので精一杯になり、命優先のケアに明け暮れていくウチに、ダウン症という障害そのものもプロセスの中で受容するらしい。その一方で、内疾患のない方は障害の受容が先になるが、その分障害と向き合わざるを得ない状況になる。

 母親達の肉声や現実の中で子どもを育てること、そして障害の持つ子どもへの、〈ずれ〉や〈揺らぎ〉がとてもよく表現されている。障害者関係で勤めている方には是非読んでもらいたい内容。一般に、障害を差別してはいけないとか障害の持つ子どももまた元気に生きる権利があるといったありきたりのスローガンに隠されがちな、リアルに育てている母親の声はいろんな事を考えさせてくれる。

椎名林檎における「歌」の解体と再生

石川伊織(2004)「椎名林檎における「歌」の解体と再生」『県立新潟女子短期大学研究紀要』41,187-201

http://ci.nii.ac.jp/naid/110004668461

PDFあり

 椎名林檎は好きなアーティストなので検索してヒットしたので、とりあえず落としておいたというもの。でもって、CiNiiで唯一、PDFで読める論文。

 今回、この論文を読んで、なるほどこういう解釈もあるのかと。もともと椎名林檎は難しい漢字とか意味不明なフレーズがたくさんあって、聴く人に多様な意味解釈を可能にしているんだろうなぁと思っていた。私自身、あまり歌詞をを重要視しないで、リズムとかで聴くのであんまり気にしていなかったけど、この論文では2004年頃までの椎名林檎の代表的な曲のいくつかを取り上げ、歌詞、コード、またはイントネーションから想起されるイメージなど幅広く解釈を施している。

 この論者に言わせると、歌詞は難解だが、楽曲の構造は非常にシンプルで古典的ですらあるらしい。ただ言葉を載せるときの半音の多さとかさびの部分での音の跳躍といったメロディにあると解析している。

 簡単に言って、ダブルミーニングを楽曲やメロディの中から宇神上がらせるように工夫しているのが椎名林檎の歌の特徴であると。その他、<短編キネマ 百色眼鏡>に観るアイデンティティを巡る椎名林檎の解釈とかとても興味深い。

 結論として、意味は聴き手によって聴き手の主観として再生産されることで成り立つ。テキストを仲立ちに対話が成立して初めて、意味という現象が間主観的に成り立つのである。そうした歌い手であるのではと推論。

 後半、哲学者などがポッと出てきて、面食らうかもしれないけれど、通して読めば面白い内容。といっても雑学程度にしかならないけれど。

人間存在の回復についての試論

加國尚志(2010)「人間存在の回復についての試論」『立命館大学人文科学研究所紀要』94,25-50

http://www.ritsumei.ac.jp/acd/re/k-rsc/hss/book/ki_094.html

PDFあり:独自リポジトリ

 簡単に言って、モンテーニュとデカルトの人間のとらえ方について詳述している。モンテーニュは人間は自然(神)と調和するべきであり、医学などの科学はあまり当てに出来ないと。心と体を統合し、自然(神)の声に耳を傾けるならば、人間そのものへと立ち返ることが出来るだろうと。デカルトは、心(頭)と体があり、頭によって体がある…二元論で有名である。しかし、そのベースとなるのは、自然の調和を目指すと言っても、私たちは判断を間違うものであるし、神の善意によって仕組まれた自然の教えに直接一致することはそれほど簡単ではないとする立場である。つまり、自然が教える感覚的触発の直接性と「自然の光」が与える正しい認識にあるのは人間の「自然=本性」の「弱さ」であると。

 とはいえ、私は考えるから、私は存在できるとするのも一面的で、現実生活において私たちは時として、思考を止めることが最善であることもあると考えられなくてはならないこと。それはただ考えないのではなく、考えないことが最善であると考えること。それは真理の問題ではなく、善の問題であると。

 こうした議論をベースに、自分たちの体は有限であるが故に、判断を間違う存在でもある。そして、客観的な科学的な視点で判断するという多様態の中にある事を示している。

 この論文を読んで、人とは何かと議論する上で、例えば理性と感情、あるいは知性と野性といった便宜的に線を引いて区別しているに過ぎない。しかし、いまや人々は説明の付かないような出来事が何となく知っているし、言語化されない様々なことが人間を形作っていることを知っている。その一方で、肉として、分子だったり化合物であったり、電気信号だったりもする。そして自分とは自分の所有物であったり時に他者の所有物になったりする存在でもある。そう思うと、人という存在とは一体なのか。それは簡単に説明が付かないという結論に達するしかないのではないかと思う。


誰のための施設(ホーム)か

櫻井淳司(2007)「誰のための施設(ホーム)か」『福祉研究』96,25-33,日本福祉大学社会福祉学会

http://ci.nii.ac.jp/naid/40015474309/

PDFなし

 副題は、人材育成の観点を交えて となっている。

 論文という性質上、ある程度前向きなこととか専門性向上のために書かれることが多いが、この論文は自分が勤めている施設はまだマシだが、他に目をやれば…というどちらかといえば今の暗い福祉業界について良く言えば過不足無く、悪く言えばブログ調で書かれている。

 専門学校や福祉系大学の定員割れ、それによって質の悪い学生をどんどんと入れざるを得ないこと。そして実習先ではまったく意欲が感じられない…無気力さ。そして受け入れる側の施設も一族経営の硬直性、営利至上主義、高齢者を食い物にしたビジネスの横行。場当たり的な研修と人材育成もままならない忙しさ。職員の資格取得に対する疑義。リスクばかり気にしすぎて、介護の質を問われないのが現状である事への嘆きなど。

 中でも面白い記述が、AO入試は、定員確保に苦しむ地方大や新設大では『ALL OK』というのが実態だ。あるいは、外部研修などで接遇や介護スキルなど「どこでも使える研修は、どこにも使えない研修」ということになる。あるいは、「福祉」ではなく「保険」改革となったと、色々と辛辣である。

 確かに介護保険によって誰もが受けられるようにはなった。また権利意識や透明性が従来よりはかなり良くなったと思う。これは私が措置制度からいたから分かるのだが、意識の変化はかなりのものだし、それによって利用者への接し方もかなり変わった。それも良い方向で。

 あとは国の政策を客観的に咀嚼して、自律的に思考して働ける知性である。この自律性を養うのが教育であり、それに連なる育成である。いまは国の方針やら施設の都合で不平不満を言っているレベルであるが、それだけではいつまで経っても介護の質は上がらない。

 もし手に入る環境にあるのなら読んでみてください。

メディア文化論6若者はなぜポピュラー音楽が好きなのか

水野博介(2011)「メディア文化論6若者はなぜポピュラー音楽が好きなのか」『埼玉大学紀要(教養学部)』47(1),193-203

http://ci.nii.ac.jp/naid/40019321688

PDFあり

 副題は、(その6)戦後日本のポピュラー音楽創作者は若者だったのか となっている。

 太平洋戦争終了直後からおおよそ1970年代までの歌謡曲あるいはポピュラーソングの変遷を概説している。その中で副題にもあるように、作詞作曲者は若者向けの音楽を作っていたが果たして、若者であったのかを明らかにしている。そんなわけ無いジャンって言うのは定説で、今のアイドルソングやヒットソングの作詞作曲が20代とかではなくむしろおじさん・ことによってはおじいさんなどによって担われていることは周知の通りである。

 その傾向は実は敗戦当時からの流れで、作詞作曲を自分で手がけるシンガーソングライター(1970年代はフォークソング)以外はみな年配の人が書いていたことを証明している。

 随所随所にその時代背景とかグループサウンドの生い立ち、あるいは歌謡曲がのちに演歌と見なされていくが、演歌はそもそも明治時代からあって、その当時は政治や社会批判を含んだ歌のことを演歌としていたなどちょっと見方が変わることなども紹介されている。10ページほどの小論文で、読みやすい内容。雑学にはよいと思われる。

ちなみにそれ以後のJポップは

http://ci.nii.ac.jp/naid/40019321198

に詳しい。PDFあり

他、先生のリストを上げておく。メディア論としてかなり書いている。

http://ci.nii.ac.jp/nrid/9000002428204


戦略型トレーディングカードゲームのための戦略獲得手法

藤井叙人・片寄晴弘(2009)「戦略型トレーディングカードゲームのための戦略獲得手法」『情報処理学会論文誌』50(12),2796-2806

http://ci.nii.ac.jp/naid/110007970562

PDFあり

 単なる興味本位で取り寄せた論文だけれど…中には数式がいっぱいでほとんど理解不能であった。さすが情報処理学会…

 それでも理系ともなれば、あんなにあるカードの中から様々なシミュレーションをしてコンピューターに学習させ、勝率を上げさせるために数式を組み上げるものだなと。

 トレーディングカードゲーム(以下、TCG)は、トランプのように決まった枚数ではない。また将棋のように盤上に全部情報が公開されるわけでもない。またTCGは、戦略や手順は非常に複雑で多岐にわたる。あるいは最適手というのも難しく、そのターン不利な状況、例えば手番を飛ばしたりわざと相手に攻撃させながら、次には優位に立つなど一時的不利などもある。いわゆる溜めというものもある。

 それでもそうしたことを含みながら学習機構の実装のための数式を組み立て、また数式を圧縮しながらより効率的に学習させる手順まで数式で表現していた。さらに計算機実験で、コンピューターの戦略パターンを堅実型とかバランス型などで勝率をはじき出し、新たなルールの追加への適応性や汎用的な戦略の獲得の道筋まで丁寧に解説。

 TCGのいくつかのカードの特徴や戦略パターンなどもシミュレーションの中に説明していて、数式を抜かして読んでもそれなりに面白い内容。

 理系の頭がほしい…そうしたらもっと楽しめるんだろうねぇ。

縄文文化における結髪の特徴

尾関清子(1986)「縄文文化における結髪の特徴」『紀要』 21, 188-220,東海学園大学   

http://ci.nii.ac.jp/naid/110000192781

副題は、九州地方に分布する剃髪土偶の問題をめぐって となっている。

同様に同じ作者で、

尾関清子(1982)「わが国における「櫛文化」の形成に関する考察 : 発生期の「櫛文化」の特徴について」『紀要』 17, 93-106, 東海学園大学

http://ci.nii.ac.jp/naid/110000192728

尾関清子(1985)「続、発生期の「櫛文化」の特徴について」『紀要』20, 66-88,東海学園大学

http://ci.nii.ac.jp/naid/110000192765

がある。すべてPDFあり

 共に縄文人が当時、どのような髪型をしていたのかを土偶を下に考察したもので非常に面白い。男性が剃髪をしたりするには縄文時代は鋭利な刃物はなかったが、考察の中で、石器でも鋭利なものがあり、遜色がなかったことなどが論じられており、その意味で様々な髪型が可能であったことが伺える。

 九州地方では他と比べて素朴であまり線などがないと言った特徴も紹介し、地方によって土偶の形態もまた違うことを明らかにしている。

 巻きものをしていたり、王冠らしきものを被っている土偶、また、おかっぱ頭から髷(まげ)を結っている土偶などなど、写真やスケッチをふんだんに使いビジュアルとしても非常に楽しい内容となっている。また櫛文化の特徴の方では、髪の毛の結い方までスケッチで図説し、土偶から導き出された髪型の詳述になっている。

 こうした論文を読むと、縄文時代の人々もいわゆるおしゃれをしていること、あるいは文化として山高帽とかターバンらしきものを被って生活していたんじゃないかという想像が働く。考古学と博物学、それと民俗学的な考察も含め力作である。


空想のアイドルグループの中で生きる女子中学生への治療的関わり

澤田愛子(1991)「空想のアイドルグループの中で生きる女子中学生への治療的関わり」『北海道大学医療技術短期大学部紀要』4, 13-22

http://ci.nii.ac.jp/naid/120001152478

PDFあり

 副題は、作話の心理的根拠を巡って となっている。

 学校の身体検査結果、軽度の右難聴と診断、その後耳鼻科で心因性難聴と言われ、神経内科に勤めていた論者との関わりの全記録。この難聴は論者と関わったときにはすでに軽減していたが、それ以上に彼女の心の悩みが作話や虚言癖などに顕れていたことからその対応を綴ったもの。

 知的レベルは軽度の精神遅滞レベルだったが、調べていく内に驚くべき想像力と空想力を有していたとのこと。内容は是非読んで欲しいのだけど、簡単に言って、自分の過酷な生活・現実から自分を守るために、空想のアイドルを生み出し、そしていつしか好きなこと自分がアイドルの一員になっていろいろな活躍をすることを臆面もなく治療者である論者に語っている内容である。

 現実の女子学生は孤立して目立たず、家でも愛人がいる母親と微妙な関係の姉とのトラブルが絶えない環境。そんな中自分が唯一それでも生きていこうとしたとき、こうした空想が現実から身を守っていたのである。この論文を読みながら、痛い中学生の妄想と切り捨てるのは簡単だけど、少なからず人は妄想の中で生きる。私もしばらくそうだったし。そして昔見た映画、「ダンサー・イン・ザ・ダーク」を思い出す。ビョークが演じるシングルマザーでしかもほぼ全盲に近い弱視の上、貧困にあえぐ女性であった。そんなビョークを支えたのが空想の世界と息子の存在であった。暗い現実と明るい空想の狭間で生きることで、時に人は生き続けることが出来る。そんなことを考えた論文であった。論者のまなざしも暖かく、読んでいてほほえみそうになる内容である。


エンパワメント論:ナラティブ・モデルの批判的吟味

加茂陽・木下由美(2001)「エンパワメント論:ナラティブ・モデルの批判的吟味」『社会福祉学』42(1),12-22

http://ci.nii.ac.jp/naid/110008093398

PDFあり:有料

 まだそんなにナラティブが日本では脚光を浴びていない時代の先行研究。ナラティブは、人は言説によって行動を規定し、自分を価値づけている事。たとえば、アルコール中毒の患者は、医療や周りの人々、家族、友人などなどとのコミュニケーション、またはさまざまな社会的な扱い:矯正施設・通院・就労の制限を自分なりに解釈し、知らず知らずのうちに構築し、アルコール中毒の人のようにふるまっている。

 ナラティブはそうして構築された世界にはその人を縛り上げる支配的な価値観があること。そしてそれ以外の生き方に目をつぶっていたり、気づかなかった他の言説を一緒に紡ぎだす事で違った価値観(語られなかった言説の発見)で生きていくことをサポートする技法である。

 この論文では、ナラティブの長所と問題点を非常に簡潔にしかもしっかりとらえている。さらに事例として日常の会話の中で生起する親子の会話の中に潜む支配的な言説と行動を紹介し、それがナラティブによってどのように変化していくのか、そのささやかな変化について紹介している。支配的な言説からの脱却とか考えると、すごく大がかりなことを考えてしまうが、日々の実践の中にある小さな変容を促す事。そうした細部にエンパワメントが存在するんだなぁと感じた次第。

 ちなみに加茂先生はナラティブの前から家族療法とかシステム論からずっと読んでいる人なので流れがわかるけれど、文体に慣れないと非常に小難しく書く先生なのでちょっと抵抗があるかもしれない。でも言っている事はすごくシンプルである。ぜひ頭のトレーニングに読み解いてほしい人である。

大地の母

松本守(2008)「大地の母」『藍野学院紀要』22,119-123

http://ci.nii.ac.jp/naid/110008682458

PDFあり

 実際にはフォークナーの『8月の光』のヒロインのことを愛情を持って論じた内容となっている。臨月の近い女が、逃げ出した男を探して旅をする物語である。そして道行く人たちに彼女の無邪気さや誠実さ、あるいは生の輝きに触れて生きることの希望を見出していく物語である。

 幾分、現代的ではないとしてもこの論文を読むと人が妊娠することやお腹の中で子供が育って行くことの宗教的な意味について考えずにいられない。中でも、大地の母に属する女性は多産で、自己犠牲的で、自ら進んで苦難に耐え、家族の維持と世話に献身している。彼女たちの生き方は物事の自然な秩序に対する楽観的な信頼である。あるいは、大地の持つ豊饒さと持続性に恵まれていて、あらゆる固定観念や強迫観念にとらわれずに自然の最も深い目的と静かに調和して生きている。彼女たちは「大地の母」の化身として人類の保存に本質的に必要な女性であるとまとめている。

 私の本棚にもあったような気がするけれど、ちゃんと読んでいなかったなぁ。今度ちゃんと読んでみるかな。それだけすごく面白くこの作品に対して深く分析している。


海を旅する人たち3・徐福

立平進(2004)「海を旅する人たち3・徐福」『長崎国際大学論叢』4,33-42

http://ci.nii.ac.jp/naid/110004677249

PDFあり

 この論文の面白いところは、昔の海流や今の海流から、もし中国から日本に船で来るにはどのような海流に乗ればどこにたどり着くのかを推論したことである。結果として、中国から日本へは海流に乗れば割とすぐにたどり着くことが出来るが、日本の場合は難しいことが明らかにされている。また、その論拠としてボートピープルが日本にたどり着いた際の海流図などを持ち出して説明されている。

 徐福は、ちょうど日本では弥生時代の始まりにあたる頃に中国から、不老不死の薬と求めて、蓬莱と呼ばれる日本に来た人であり、たくさんの技術者や稲(もみ殻など)を持ち込んだと考えられている。そして現在、この徐福がたどり着いたと言われる地が日本では30か所以上ある。では、もし徐福が海流に乗って日本に来たとすればどのようなルートでどこに上陸したのかを推論している。

 対馬海流や黒潮をメインに、その海流を巡る民俗学的な逸話を紹介しながら豊富な知識で分かりやすく説明している。ちょっとしたミステリーを読むような面白さがある内容である。ミステリーなのでネタバレはしないけれど、私は黒潮に乗ってきたんじゃないかなと思う。


仮面ライダーたちの変貌

小谷敏(2006)「仮面ライダーたちの変貌」『三田社会学』11,20-36

http://ci.nii.ac.jp/naid/120001671488

PDFあり

 副題は、新人類世代と新人類ジュニア世代 となっている。

 作者が骨髄移植などで長らく休職しながら小さかった二人の子供と仮面ライダーを見ながら思ったことを書いた内容。仮面ライダーのことはよくわからないけれど、問題点は、イケメン俳優を登用し、子供よりも親が熱狂していることによる、仮面ライダーを見せる上でどこを向いているのか。そして、敵役の暴力の過激さによるモラルの低下などである。

 幾分懐古主義的な趣もありつつも、商業主義的な色合いが強くなり、また大人と子供のボーダーレス化、ことにテレビというメディアの上では進んでいることを論じ、最終的には大きな子供であるいまの親世代のモラルの低さが子供にとって決して好ましいとは言えない状況を形成していることを痛烈に批判している。

 特に子供の凶悪犯罪がなぜことさらに誇張されるのか…。実質少年の凶悪犯罪は減少を続けている事や警察の意図、あるいはメディアにとっては少年の凶悪犯罪はキラーコンテンツであることなど正しい情報を伝えることが出来なくなっている事。あるいはパラサイトシングルを寄生虫としてみなして敵対視する風潮は社会の雇用状況を分析していないこと。そして何より、社会全体が子ども・若者をすでに育てることを放棄し、自分たちが生き残ることばかりを考えている大人が多いことを痛烈に批判している。

 若干、若者論を語る上で、別に仮面ライダーでなくても良かったのではないかと思ったが、切り口としては面白い内容となっている。


プロフィール

kuma

Author:kuma
救護施設→知的障害児施設→通所介護施設(高齢者)と15年以上。これからも思考と体力で、働いていきます。

自分のサイトもあります。
kumaの学習ノート

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