文学としてのマンガ

山田利博(1998)「文学としてのマンガ」『宮崎大学教育学部紀要(人文科学)』85,33-43

http://ci.nii.ac.jp/naid/110000350252

PDFあり

 副題は、現代版竹取物語・「セーラームーン」について となっている。

 出だしからうけるのが、大学紀要が学生に読まれなくなって久しく、刊行委員および前委員長の依頼を受けて、普段から趣味でその方面を研究している稿者が、そのネタで稿を草したという。なぜ、セーラームーンなのか…。この作者はこの他、アニメやマンガをネタに論文を書いているので興味のある人はどうぞ。

 作品の概略をまじめに語り、変身では化粧で行われることの原点に、民俗学的な考察を行い、少女の成長に心理学のフロイトのエディプスコンプレックスを軸に語っている。また主題歌の考察では、韻を踏んでいることや漢詩に近いことを明らかにしている。またジェンダーとキャラクターについて語っている。

 ある意味こじつけとか本当にそうなのかと思うこともあるけれど、これが文学の解釈とか人文科学の学問スタイルなんだろうなぁと思う。とにかく、こうした切り口で解釈をすればまたその作品に対して深い理解をして、その作品を楽しめることができるといえる。この論文を読んでセーラームーンを全部観ようと思う…かなぁ…でも面白い内容。

山田利博先生の文学論(マンガとか多数含む)
http://ci.nii.ac.jp/nrid/9000002309454
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高齢者ケアマネジメントにおける倫理的意思決定

沖田佳代子(2002)「高齢者ケアマネジメントにおける倫理的意思決定」『社会福祉学』42(2),150-159

http://ci.nii.ac.jp/naid/110008093423

PDFあり:有料

 副題は、ソーシャルワークにおける道徳的推論の適用に関する議論からの一考察 となっている。

 高齢者のケアマネジメントは、様々な倫理的なジレンマに陥る。例えば、利用者のニーズなのか家族のニーズなのか、必要なサービスと費用抑制の圧力、利用者の判断の尊重と、自律性と干渉主義、組織とゲートキーパーとしての自分などなどである。その時、どのような判断を下すことがベターなのか。その基準が倫理的なのか官僚的にするのか。おそらくその間を揺れ動き、100%倫理的な判断をする訳じゃないと思う。

 ただ、では何が倫理的な判断なのか、あるいは倫理的と言われるジレンマはどこにあるのかを明確にしている。また倫理的判断としては、欧米のソーシャルワークの倫理綱領や議論を紹介しながら高齢者のケアマネジメントは、自律性と相互性、権利と関係性、正義と徳の構成概念を内包する視座のもとで推論を行うこと。実際の行動は、主観的視座と客観的視座、専門的志向と管理的志向、クライエント中心とシステム志向、ニーズと規則の社会的文脈におかれることを整理している。

 自分の行いが正しいのかどうか。これは非常に難しい問題である。ただ、基準としての倫理的判断というものはあまり考慮されない。しかし、専門職として利用者に働きかけると言うことは倫理的な判断無しでは語れない。その意味で、この論文の整理は非常に実践的と言える。やや難しいけれど読み応え有り。


高齢者福祉施設生活相談員が必要と認知する対人福祉サービスの構造化

井上祐子(2010)「高齢者福祉施設生活相談員が必要と認知する対人福祉サービスの構造化」『評論社会科学』93,67-79,同志社大学

http://ci.nii.ac.jp/naid/110008428250

PDFあり

 京都にある高齢者福祉施設223施設に送付し、そこで働く相談員約190名からアンケートを採り、業務上特に対人援助でどのようなスキルを重視しているかを研究している。統計としては共分散構造分析を使って、それぞれの変数がどのような関係にあるのかを明らかにしている。くどいようだけど、私はまったく分析とか解析とか良く分からないので、この手の論文は結果だけを読むことにしている。

 それによると介護福祉士を取得している相談員が多く、また勤続年数も9年以上と長いことから、一つのキャリアプランニング、介護員から相談員に上がることが一つの指標になっている。

 その上で、相談員に求められるスキルとは、「相談面接業務」「援助計画策定業務」「ネットワーク形成業務」「権利擁護業務」「危機管理業務」の5つが統計結果抽出されている。介護福祉士の教育の中にそうしたスキルを養成する項目を含めていくべきであると提言している。

 このことは施設の相談員とは社会福祉士ではなく、介護福祉士が介護からのキャリアアップとして捉えられていると言える。とはいえ、従来相談員の仕事は上手く表現、あるいは定義されておらず、いわゆる施設の便利屋、何でも屋、雑用係と見なされていた。そのため、仕事の範囲や役割が明確にされてこなかったところがある。この論文では、その意味で相談員の範囲や役割が明確にされていて、普段何でも屋の相談員にも自分の価値を契機になるかと思う。また分析の手順などを読み飛ばせば、すんなりと読める内容になっている。


「社会福祉士養成課程の新たな教育内容」とソーシャルワーク教育

田川佳代子(2008)「「社会福祉士養成課程の新たな教育内容」とソーシャルワーク教育」『社会福祉研究』10, 31-36,愛知県立大学   

http://ci.nii.ac.jp/naid/110007722029

PDFなし

 副題は、問われぬ〈社会ビジョン〉 となっている。

 何かと読んでいる田川先生。この人の語り口調がハキハキしていて読んでいて気分が良いというか、読みやすいんだよね。

 この論文は残念ながらPDFがない。まぁ、それでもこの手の議論はだいたい似通っている。ただ田川先生ははっきり言いたいことをしっかりと書いているので、この論文を読めば、社会福祉士の立ち位置とか養成校の苦悩がだいたい分かる。

 この手の議論は、きわめてシンプルである。それは、社会福祉士はソーシャルワーカーとは言えない。また養成校は厚労省のカリキュラムをこなすことで精一杯で独創性とか本来のソーシャルワーク教育とはかけ離れていると言った論調である。

 ソーシャルワークとは、個人の問題を社会文脈の枠組みから理解し、解決していくだけではない。むしろ、社会に散在・偏在している問題から、必要であれば社会の変革や新たな社会資源の提言を含めてエンパワメントしていくスタンスを持つ必要がある。あるいは、今の社会ではなく、目指すべき社会のビジョンを持つべきであり、そのビジョンの実現を図っていく力量を養うのが教育であると。つまり創造性を持って社会に足りないものを見つけ、それを作りだし利用者の自己実現を一緒になって適えていく役割である。それが社会正義とか公平性とかそうした価値観を重要視するというわけである。

 欧米ではそうした実践があるらしいけど、あまり興味がないので読んでない。そうした事例を読むのは今後の課題として、じゃぁ、社会福祉士って何? となる。残念ながら、社会福祉士は機能不全状態が20年以上である。職域も広がっていないしね。それはどこかでも書いたと思うので省略。それよりもこの論文を読んでいてふと、思うのが、多分、ソーシャルワーク教育を志向するのであれば、やはり歴史から学ぶことに重点を置くべきではないかと思う。

 それこそ何も無いところから養護施設などを立ち上げた先人がいる。糸賀とか…そうした実践家のスピリットを学ぶことが何よりではないかと。あと、何も新しい社会資源を生み出すことだけがソーシャルワークの成果ではない。創造とはそうしたことの他に、文章や言葉で伝わることがある。だから、ソーシャルワーク教育で重要なのは、そうした発想を滋養することであろう。今の社会に何が問題で欠けているのか。そしてそれに対してこうした方が良いんじゃないかと思うこと。そしてそれを言葉に載せて表現すること。それもまたソーシャルワークではないだろうかと思う。

身体障害者の性生活支援における一考察

斎藤隆之(2007)「身体障害者の性生活支援における一考察」『国際医療福祉大学紀要』 12(1), 13-27

http://ci.nii.ac.jp/naid/110006445945

PDFあり

 この時期、セックスボランティアとか障害者同士のセックスの介助を施設でやった事などが紹介されたことがあった。障害者のセックスとは何か。この論文では何人かの障害者、特に脳性麻痺によって四肢が永続的に麻痺している人から聞き取り調査をしている。

 前提として、障害者は性に対してタブーとされてきたこと。または歴史的に断種がされてきたことなど、不利益を被ってきたこと。そして現在、この性というものを捉え、そして生活の中で位置づけていくべきかが考察されている。博士課程の論文なので意気込みはよく伝わってくるが、性風俗の活用や実際のセックスについてどうするべきかについての具体的なものが欠けていると思う。というか、セックスの先にあるものへの考察がより為されるともっとおもしろい内容になっていたと思う。

 性教育や性情報、そして風俗あるいはパートナーを得ると言うこと。それは帰結としてセックスへと結びつく。確かに身体障害者だからこうした一連の情報や行為が規制されることは不利益であり、またそうした行為に結びつくことは社会参加やニーズの充足につながるだろう。

 確かにパートナーがいればセックスは生活の一部だし、一人であっても自慰の自由はある。しかしだ。セックスすることが社会参加なのか。自慰することがニーズの充足なのか。パートナーがいない人は確かに風俗店でお金を払って昇華させるだろう。しかし、そんなことをしなくても人は生活できる。本論でも指摘していたけれど、そうなのだ。生きる・死ぬという緊急性がないが故にあまり議論されてこなかったのである。それを福祉業界が何とかしないといけないことなのかと。

 私にはよく分からない。ただ、まぁ、この論文を読みながらそんなことを考えさせることが出来た。論文自体は非常に労作となっていて読み応えはあると思う。

在宅要介護高齢者の主介護者に対する社会的支援

川西恭子・官澤文彦(2000)「在宅要介護高齢者の主介護者に対する社会的支援」『日本在宅ケア学会誌』4(1), 31-38

http://ci.nii.ac.jp/naid/40005192607

PDFなし

 簡単に言うと、家族で要介護状態の高齢者がいて、そのお世話をしないといけない状況にある人(主介護者)がどのようなニーズがあるのかを調査している。

 看護師それも博士課程の人が書いた論文なので、当然理系、因子分析、カイ二検定、多変量解析などなどばっちり高等統計を駆使している。なので、文系の私は結論をさらっと読んだだけ。

 やはり主介護者は、なんだかんだいって介護を負担に感じているものである。これが私の宿命と受け入れていたとしても。そうだからこそデイサービスやショートスティで一時的にしろ誰かが世話をしてくれるとホッとするのである。余暇活動が制限され、人と会うことも少なくなる。いつ終わるのか、どうすれば良いのか分からないケアの連続。だからこそ、こうした在宅介護サービスの物的な支援が重要である。そして、当然、主介護者への情緒的な支援、あるいは同じような境遇の人との集まりなども重要なサポートである。苦労を共有し、お互いをねぎらうこと。そして、家族の中でもみんなで介護をすること。それによって主介護者は報われるのである。

 そうした主介護者がケアをすることを受け入れ、そして時々ため息をつきながらもそれでも、どこかそれでも良いと思うこと。それは介護されている高齢者にとっても善きことである。それは虐待や冷たい介護とは対極の場所にあるのだから。

食を考える

石岡靖(2008)「食を考える」『顎機能誌』14,75-81

http://ci.nii.ac.jp/naid/110006666070

PDFあり

 CiNiiのbotから流れてきて面白そうだなと思ってダウンロードしていた論文。実質5ページしかない論文であるが、食文化の概説をコンパクトにまとめている。そもそも食べるとは何か。神人供食の由来、また食に感謝する祭りや風習等々、食が文化として定着していき、それがその国の文化の基底になっていることを提示している。

 その上で、現在の食の乱れや食に関する法律や傾向なども幅広く紹介。中でも面白かったのが先に挙げた神人供食と箸の文化についてのうんちくであった。実は、日本においてはすでに聖徳太子の時代以前からあったことなどが明らかにされていた。

 いずれにしろ食と文化は密接につながり、日本の四季などとも連動したまさにその国の精神史を形作っている。そしてそれが地域や家庭において風習として染みこみ、継承されていることが良く分かる内容であった。

 良いものを読んだなぁとちょっと思わせてくれる内容である。雑学程度に読んでみるのも良いかもしれない。ちなみに結構引用されている文献でもある。


社会福祉士実習生のジレンマ体験の特徴とスーパービジョンのあり方

浅原千里(2012)「社会福祉士実習生のジレンマ体験の特徴とスーパービジョンのあり方」『日本福祉大学社会福祉論集』127,81-99

http://ci.nii.ac.jp/naid/110009485726

PDFあり

 副題は、事例の分類を通して となっている。

 社会福祉士の実習では、介護や現場体験の実習を行う場合が多い。介護福祉士はそうした現場体験をスキルに変換していくことが可能であるが、社会福祉士の場合は、必ずしも介助をするわけではなく、その意味でそうした体験をどう消化していけばいいかが課題になる。この論文では、それは現実と理念のジレンマあるいは、現実と倫理のジレンマとして捉えることであるとする視点に立っている。その上で学生はこのジレンマをどう考えているのか、そして悩むのかを類型化している。

 一応、社会福祉の倫理を考える上で、正義とケアの両面に目配せした上で、新任職員や実習生が現場で何を悩むのかと知った先行研究をしっかり踏まえている。その上で、60名からなる実習生の悩みの記述を分類している。

 結果としては、現場の体制や取り組みに関するもの、学生自身によるものと大別され、さらに体制については、実践と倫理・責務の板挟み、理念とシステムの板挟み、個別支援とトラブル回避などが分類される。学生自身については頭で理解しているが思うように関われないこと、介助への不安、利用者の言動を受け止めきれない、援助関係、職員と利用者の板挟みなどに分けられていた。その分類の例示もしっかりと行い説得力のある内容になっている。

 今度社会福祉士の実習に行く予定の学生、受け入れている施設など参考になることが沢山書かれているので是非読んで欲しい。あるいは、昔実習をした人が読めば、あるあるとくすっと笑えるかもしれない。もし私が実習指導者ならこの論文を先ず読ませるかもしれない。


社会的弱者(マイノリティ)に対する現行実定法の不備と運用課題

赤井朱美(2008)「社会的弱者(マイノリティ)に対する現行実定法の不備と運用課題」『神戸親和女子大学研究論叢』41,51-61

http://ci.nii.ac.jp/naid/110007025801

PDFあり

 表題は社会的弱者となっているが、実質ホームレスの法的保護の脆弱さを指摘している論文。常々、どうしてホームレスは生活保護を受けないのだろうかと思っていた。単に、本人がそれを望まないからと思っていた。どうして望まないのかを個人の責任に帰していたため良く分からなかった。どうして望まないのか。それは生活保護を受けるための敷居がホームレスには非常に高いことがこの論文によって明らかにされている。

 生活保護と並んで、「行旅病人及行旅死亡取扱法」というのがある。しかし、ホームレスは段ボールやビニールテントに住んでいることから定着と見なして病人になっても適用していない。あくまでも旅行中の外国人に適用され、死亡して初めてホームレスは適用される。生活保護でも、ホームレスは度々市町村を移動する傾向があることや資産調査などの実施が困難であるという理由で生活扶助は受けられない。病院にかかったときのみ医療扶助が単給されること、また年齢上稼働能力の有無なので容易に扶助されないなど詳しく書かれている。原理原則から裁判事例などなどを豊富に解説し、ホームレスのおかれている状況が描かれた良い内容となっている。

 簡単に言って、ホームレスという形態自体に生活保護が適応できていないという事実が明らかにされている。しかし、ホームレス自体、非常に長い歴史を有しており、それが現在も対応できにくい事象であると考えれば、福祉国家とは何かということに突き当たる。

 じっくりと考えることの出来る内容。


社会福祉士の「実践知」形成過程に関する仮説的研究

齋藤征人(2010)「社会福祉士の「実践知」形成過程に関する仮説的研究」『帯広大谷短期大学紀要』47,31-44

http://ci.nii.ac.jp/naid/110008508063

PDFあり

 社会福祉士を有する、主に相談業務に3年以上就いている10人からインタビューなどを行い、M-GTAで概念化した質的研究である。

 日々の業務、特に自分が専門的な判断をしているとき、それはどのような根拠があるのか。あるいは専門職として働き続けるためのモチベーションとは何かについてカテゴリー化して整理している。

 こうしたキャリア形成についてはまず、学びの動機や専門的な判断をする際に参考になるエピソード、失敗体験とそれによるモチベーションの維持と向上、あるいは利用者から学ぶことが一番の学習であるなどが浮かび上がる。この論文でももれなくそうした結果になっている。

 この論文の独自性は、たぶん、身近なモデルとなる人との出会いや乗り越えたいとする人の存在がいるからこそ向上できることをカテゴリーとして明確にしたことだと思う。また周り、同僚や資格取得で知り合った仲間との支えなど、当たり前のことだがあまりこうしたキャリア形成では重要視されていない部分が大きく取り上げられていることである。

 カテゴリー構成が文末にあるので、一旦切り離して見ながら読むと非常に分かりやすい内容となっている。逆に言うと、カテゴリー構成が文末にあるため、最初から読み出すととまどいを覚える内容となっている。

 悩める相談職の皆さんに読んでもらえればと思う。


障害者の地域生活移行支援にかかる諸課題

谷口泰司(2012)「障害者の地域生活移行支援にかかる諸課題」『関西福祉大学社会福祉学部研究紀要』16(1),47-56

http://ci.nii.ac.jp/naid/40019457225

PDFあり

 副題は、養護老人ホーム・救護施設・障害者福祉計画の現状より となっている。

 基礎構造改革から施設から地域への流れがメインとなっている。それは精神保健福祉法や障害者自立支援法の改正などでも見て取れる。しかし、それでも救護施設や養護老人ホームなどの障害者はこれらの地域生活移行支援の対象とされず、無関心、無理解の下混合収容が続いている。このことに焦点を当てて、全国調査などを引き合いに出して議論している内容。

 障害者福祉法の敗戦直後から現在までの沿革を簡単にまとめており、さらにあまり論じられることの少ない救護施設の実態や養護老人ホームの社会的に排除され、貧困層の共生場所であるという痛烈な批判~無関心な行政などと示唆に富む内容となっている。

 特に制度上の課題として、自立支援法に基づく障害者支援施設のへの入所は一部の例外を除き、障害程度区分4以上でないと入れなく、緊急一時保護を除き、若年層は救護施設へ、高齢層は養護老人ホームしか受け皿がないと言う現状である。また地域生活移行支援も精神病床や障害者支援施設であり、過去に措置された者は埒外におかれている。その意味で制度に組み込むことや劣等処遇の過去を清算するために議論をしていかないと行けないとする主張はもっともである。

 福祉業界にいる人は一度読んでみると良いかと思う。考えさせられる内容である。


新自由主義と社会福祉の市場化

田川佳代子(2007)「新自由主義と社会福祉の市場化」『愛知県立大学文学部論集(社会福祉学科編)』56,67-77

http://ci.nii.ac.jp/naid/110007044452

PDFあり

 基礎構造改革前は公的責任における機関委任事務のような形で行われてきたこと。しかし、改革以後は市場化と新自由主義の思想の下で社会福祉の対象や介入の仕方が変化したことを概説している。市場化、ポストフォーディズム、契約方式、措置制度の解体、行政の責任の後退など一連の取り組みを簡単に説明しており、こうした基礎構造改革と介護保険の問題点を押さえる上では非常に分かりやすい内容になっている。

 結局のところ、計測、マニュアル、管理でもってケアを行うこと。ケアを受ける人は受益者として尊重されるが、本質的には管理されているにすぎない。この論文では最後にケアの倫理について触れているが、そこまで行き着くには紙幅が足りなかった。

 現在の介護保険を批判的に考えたい場合に参考になる資料となる。

知的障害者の地域生活移行支援に関するスキル

中村剛(2012)「知的障害者の地域生活移行支援に関するスキル」『関西福祉大学社会福祉学部研究紀要』16(1),83-90

http://ci.nii.ac.jp/naid/40019457243

PDFあり

 知的障害者にとって地域生活移行は推進されているが、なかなか難しいのが現状。その中でも割合うまくいっていると見なされる長野県西駒郷の地域生活支援センターの取り組みについてまとめた論文。

 筆者はしばしば『日本社会福祉学』という社会福祉系では最高峰の学術誌にも掲載される人で、どちらかといえば人文(哲学・思想)などが主な人である。なので、この論文は、最先端のセンターへ訪問し、レポートを書いたものであるが、視点や構成がしっかりしており、読みやすい内容となっている。

 最後の方でもし自分が地域移行の取り組みが必要とされる施設のソーシャルワーカーであったなら、何をしないと行けないのかという視点とまとめている。当たり前のことだが、施設自体に働きかけること。情報を共有すること。そして職員間で合意することが前提になる。その上で、利用者には地域移行にするか否かを本人が決められる雰囲気を作る。じっくりと人生などを聞く環境、現実的な生活スタイルを利用者に目に見える形で支援するなど。また家族への働きかけの仕方まで分かりやすく論述している。机上だけではないかたちでの提示で説得力がある内容となっている。方法論としてより詳しく書かれるとさらに面白い内容になるなと思った。

若手の相談支援専門員が必要としている研修の内容に関する基礎的研究

木全和己ほか(2012)「若手の相談支援専門員が必要としている研修の内容に関する基礎的研究(その3)」『日本福祉大学社会福祉論集』 127, 145-182

http://ci.nii.ac.jp/naid/110009485730

PDFあり

 障害者向けの相談職にたいしてのキャリア調査。約40ページもある調査研究である。対継続研究3年目~7名となっている。(その1)と(その2)を読んでいないので分からないけれど、おそらく継続研究であるから一年目、二年目とその都度調査していたと思われる。その際、当初12名で行っていたけれど、今回の調査では異動などで7名になったことが明らかにされており、考察の方では、3年で半数近くまでいなくなることは専門的力量を積み重ねることにたいし憂慮していた。

 手法としては半構造の面接と相談員が自分で力量をアップさせるためにどのような研修を行うのかを自分で計画を立てて実施して評価するといった「アクションリサーチ」の技法を使っている。実際には、事例研究やスーパービジョンの場を設ける、自主学習などを自分で立案、実施ということである。相談職としては、発達支援部門ではないものの割と7年とか5年とか中堅ぐらいの人を対象にしているようである。もっともそうでないと自分で力量を見極めて研修などの計画立案などは出来ないだろう。

 ほとんどのページをこの7人へのインタビューに割かれており、現在相談職としてそこそこ年期の積んだ人がどのように次にキャリアアップしていけばいいかとかそうしたことを読むことの出来る内容となっている。とはいえ「相談支援専門員」としては3年というのは周りの状況を把握し、個別性とか地域や行政などとの調整など手応えを感じつつある時期であり、その意味で「ようやく何とか独り立ちが出来るところまで」といえそうであるとのこと。その他、キャリアアップの道筋などは取り立てて目新しいものはない。OJTやスーパーバイズ体制などの継続的保障などなどである。こうした大学機関とのパイプがあれば良いだろうけど、ほとんどの相談職は一人職場で研修も自己研鑽も体系的とは言えない。自主的な勉強会の開催などを通じてネットワークを作ることが大切であろう。その意味で、アクションリサーチの手法でそれぞれがネットワークを形成する力量をつけていくことが大切なんだろうと思う。この論文ではそうしたことをねらったのかなと思わないでもない。

相談援助実習導入教育としての現場体験学習のあり方

高梨未紀(2012)「相談援助実習導入教育としての現場体験学習のあり方」『日本社会福祉大学社会福祉論集』127,127-143

http://ci.nii.ac.jp/naid/110009485729

PDFあり

 いわゆる本実習前に行われる1週間の体験実習で、学生がどのようなことを考えたり悩んでいるのかについて調査した論文。

 私が社会福祉士の実習を行ったのが2013年の時点ですでに20年くらいなので隔世の感はあるけれど、体験実習から本実習の流れはそう関係ないなとこの論文を読んでみて分かる。また実習生の悩みで、とりあえず「何をしてよいのか分からない」ってのが最も多く、そして実習後は勉強になった、あるいは社会福祉や施設などに興味を持ったとする感想は全く変わらない。私自身、ボランティアサークルに入っていないので、体験実習が初めて利用者との関わりとなっていた。この論文でもそうしたサークルに入らずに実習をする学生が多いことが明らかにされていた。

 大学側としては、そうしたサークルなり実習に入る前にそうした福祉の利用者とふれあうきっかけを持つことが望ましいとされるが、学生の主体性を考えるとそうもいえず、だからこそ強制的にでも体験学習をさせることの必要性を再確認していた。

 体験学習などを受け入れている事業所などは参考になる内容となっている。

駄菓子屋の教育的機能

岩本廣美・細谷恵子(2005)「駄菓子屋の教育的機能」『教育実践総合センター研究紀要』14, 65-74, 奈良教育大学教育学部附属教育実践総合センター   

http://ci.nii.ac.jp/naid/120001075465

PDFあり

 子どもたちが集う場所として、今はあまりなくなった駄菓子屋にスポットを当てて、そこでの店の人と子どもとの相互作用の中にどんな教育的なやりとりがあるのかを明らかにしている。ちょうどこの論文に巡り会う前、最近、子どもを連れてホビーショップに連れて行った。そこでは、カードゲームをする子どもたちがいてみんな思い思いに遊んでいた。お店の人は「おっちゃん」と呼ばれて信頼されていた。またカードだけではなく、駄菓子とかそういうものを置いていていた。その意味で、厳密には駄菓子屋ではないが、駄菓子屋的な場所となっていた。その意味で自分が経験した風景とこの論文で描いている風景がリアルに響いてきて面白かった。

 内容は奈良にある駄菓子屋3店をフィールドにして計150人以上の子どもたちを対象に調査している。そこで、実際にどのくらいの時間いたのかとかどういう目的で駄菓子屋を利用しているのかとか、店員と子どもの会話の叙述だったりとバラエティに富んだ内容であった。意外だったのが、駄菓子屋を利用するのは女子の方が圧倒的に多いことや案外中学生も立ち寄っていることだったりする。

 中でも店員との会話の分析は面白く、読んでいてすごく説得力がある。一店に絞ってじっくりと描くとより面白い内容になったのではないかなぁと思ったり。教育でもなく、かといって商品を売りつけることだけの関係でもなく、親と子どもでもない、大人と子どもの関係っていうのが非常に良く描かれていた。結局、同じ学年だけ、教師とか親といった濃密な関係の大人、そうした中だけではなく、他人としての大人、違う学年の子どもと同じ空間にいること。そうした普通の社会のような縮図として駄菓子屋は存在する。そこで、人は社会的な事を知らず知らずのうちに学ぶんじゃないかなと。

 ちなみに駄菓子屋と検索して、唯一PDFで読める論文。またこうした学校以外での子どもの居場所について論じるものは少ないのである意味、かなりレアな論文といえる。

境界神としてのサルタヒコ

張麗山(2012)「境界神としてのサルタヒコ」『東アジア文化交渉研究』5,103-113

http://ci.nii.ac.jp/naid/110008793766

PDFあり

 道祖神信仰を調べているウチに、この論文を知ることが出来た。民族伝承では、道祖神は多様な神様が祀られている。その中で塞神や岐神など外部と内部を隔てて内部を守るために道祖神が祀られていることがある。私が興味を持ったのが、仕事柄高齢者の家に来るまで迎えに行くと、塞神のお札が貼られていた。それはどんな神様なのか。それが道祖神信仰への興味を持つきっかけになった。

 また私の仕事をするエリアには、猿田神社というのがあって、地元でもかなり大きな神社らしい。で、猿田神社の由来がサルタヒコにあるらしいと。では、サルタヒコとはどういう神様なのか。それを調べていったらこの論文に突き当たったというわけ。

 この論文はサルタヒコ一本に絞って多角的に、この神様の由来や伝承について詳しく書いてある。また、一般の人にも読みやすいようにかみ砕いて書いてある。実際、サルタヒコは謎の多い神様らしく、少なくても15種類の神格(呼び名)を持っていることが明らかにされている。有名な説から中国(漢や山海経など)や韓国(風水:チャンスン)の影響などの考察とその幅は非常に広い。

 要約すれば、そもそも衝神として外部と内部、あるいは外と内の境界に立つ神であったこと。それが天孫降臨の説話が出来たときに道祖神と習合したことなどが明らかにされている。

 道祖神とか民間信仰に興味のある人は是非読んでみてください。面白いと思います。

会話の中における知的障害者の不利益の提示

堀内浩(2012)「会話の中における知的障害者の不利益の提示」『北星学園大学大学院論集』 3, 69-88

http://ci.nii.ac.jp/naid/110008915163

PDFあり

 当事者主権や現在の障害学などを参照にしたもの。従来、知的障害に関する研究は先に挙げた領域に対してある一定の距離を保ってあまり論じてこなかった。そのため差別や偏見、あるいは健常者側にある目に見えない支配などをえぐることが少なかった。

 北星学園は北海道でも有名な福祉系大学。また独自な研究スタイルを長年続けており、良質な論文が産出される所でも有名。その意味でも、最新の研究成果が無料で読めるので、興味のある人はこの紀要と『北星論集』をチェックしたらよいかと思う。

 この論文では、健常者と知的障害者が会話をすること。その会話の細部に既に知的障害者であるということを位置づけてしまう作用が働くことを筆者とベーカリーショップで働いている知的障害者との会話の記録から考察されている。要するに会話の叙述(スクリプト)を例示して、その背後にある作用(トランス)を考察したもの。

 通常、このスクリプトを使ったエスノグラフィーを志向する論文は、会話の叙述を多用しながら考察を加えていく形式であるが、この論文はそうした叙述が少なく、逆に説得力の欠ける内容である。仮に、本文に差し込まないとしても、参考資料でスクリプトの一部をまとめておく等を行えばより説得力が増したのではないかと思う。読み手は、どうしてそういう結論に達したのかを会話の中から知りたいのである。

 それはともかくとして、会話の中に知的障害者だからと同定させてしまう作用は確かにある。空気を読まない、すぐに分からないと答える、あるいは答えることが出来ないだろうと会話を打ち切る。イエス・ノーとする。あるいは質問をするのは健常者で、答えるのが障害者側が多いとか。そうした微細な力関係が知的障害者を作り出すこともある。

 脱構築の方策としては、たぶん、遊びなどのフラットな関係作り何じゃないかなぁと思ったり。

 視点としては面白いし、読み応えはあるので、良い論文ではあると思う。

縄文文化における信仰の原風景をさぐる

米沢弘(1997)「縄文文化における信仰の原風景をさぐる」『文教大学国際学部紀要』7, 73-87

http://ci.nii.ac.jp/naid/110001139952

PDFあり

 亀ヶ岡遺跡や三内丸山遺跡の発見、ストーンサークルや土偶の祭祀的な使われ方の変化など、イマジネーション豊かに記述しているとても面白い内容。 最後に岡本太郎の縄文文化への情熱に触れている。それまで畳みとか障子、かっこの良い、器用で繊細なものが日本的とされていたものが、この縄文土器や土偶に見られる芯の太さとか荒々しさ、あるいはパッションに感動したことなどに触れている。

 縄文文化について何も知らない人や教科書でしか知らなかった人にとって、この論文は非常に刺激的で、いまどのようなことが議論されているのかまでを踏まえて総体的に理解できることの出来る内容となっている。特に、土偶の変遷で、前期の土偶は地母神だったが、後期の遮光土器は、宇宙神といったスケールになったのではないかと言った大胆な推測がそこかしこに見いだすことが出来てスリリングである。

 世界の信仰や現存する信仰まで幅広く縦横無尽に論じながら縄文時代の信仰や生活などを分かりやすく論じた良い論文である。参考資料に遺跡のいくつかも載せられており丁寧な作りとなっている。


架橋する実践

児島亜紀子(2012)「架橋する実践」『社会問題研究』61,15-28

http://ci.nii.ac.jp/naid/40019178516

PDFあり

 副題は、ソーシャルワークの価値と倫理における『正義』と『ケア』をめぐって となっている。

 児島先生の一連のソーシャルワーク論で、正義と公平さをめぐる議論、ケアの言説をめぐる議論と引き続いており、この論文ではケアと正義がいかに咀嚼していけるのか。そして統合あるいは共存できるのかについて考察をしている。

 簡単に言って、ケアの倫理は、親密圏とか近い立場の人たちにどう手をさしのべるのか。あるいは、人がケアをするとは何かを追求している。その一方で正義や公平性は、普遍的に社会的に弱い立場におかれている人々をどうソーシャルワークがその問題を解決していくのかというポジションの問題である。よってケアは無条件性が強く出がちであるが、正義は何かの与件が問題になる。

 児島先生はケアの倫理に内在する普遍性、人は弱い存在であり、支え合うものであること。そして正義の倫理もまたそうした普遍性や個の尊重など、ケアと正義はそう反するものではなく、両立可能であり、ソーシャルワーカーの中で反復されるべきものであると主張する。

 日本において、社会正義とか公平性がソーシャルワークであると言われてもピンと来ないし、何がソーシャルワークなのかがしっかりと把握されていない。その意味で、児島先生の連作は海外の議論をよく咀嚼し、紹介し、考察しているので是非興味のある方は連作を読むことをおすすめします。

児島先生の連作リスト:すべてPDFあり

http://ci.nii.ac.jp/nrid/1000040298401

介護老人福祉施設の介護業務における介護労働時間とその負担度と達成度の関連性に関する研究

國定美香(2011)「介護老人福祉施設の介護業務における介護労働時間とその負担度と達成度の関連性に関する研究」『日本保健福祉学会誌 』17(1), 1-8

http://ci.nii.ac.jp/naid/110008712109

PDFあり

 いわゆるタイムスタディ(業務時間)計測における調査。勤務時間中に介護員はどのくらいの時間、どんな仕事をしているのか。そして、その仕事に満足度を得ているのか、逆にストレスを感じているのかを調べている。

 相関係数の何かを下に数値をはじき出しているようだけど、その手法は全く分からないので、結果だけを読むと、最も一日の業務で時間をかけるのが、社会生活支援であり、次に行動上の問題であった。また負担度が最も多いのが認知症などへの行動上の問題対処であり、そして介護記録など書類の整備であった。達成度が高いのは、機能訓練など目に見える効果が期待されることであった。入浴や食事、移乗に関しては、負担とも満足とも言えず、中程度であった。また介護度の軽重での変化は認められなかった。よって、身体介助や介護度の軽重は業務上の範囲であるが、記録や認知症の問題行動に関してはストレスを感じており、対策が望まれるという結論だった。

 タイムスタディでは、入浴や食事などに大きな比重が掛かっていると思ったが、それよりも社会生活支援などが上位になっているっていう結果は面白いと思った。


研究論文はいかにあるべきか

二木立(2012)「研究論文はいかにあるべきか」『現代と文化』129,151-171,日本福祉大学福祉社会開発研究所

http://ci.nii.ac.jp/naid/110009485720

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 副題は、研究倫理を踏まえた研究論文の書き方・指導方法 となっている。

 201210月に行われた日本社会福祉学会の秋季大会の基調講演の内容をまとめたものになっている。社会福祉学における研究方法や論文・レポートの書き方に関して書籍はいくつかあるものの、実際の指導教官の立場での雑感・本音が優しい口調で書かれた良い内容となっている。

 学会向け、それも若手研究者に向けての内容なので、大学院、修士と博士の研究スタイルの違いとか論文の質の違いなどを中心に論じているので、そうした環境にある人には非常に参考になると思う。特に研究の王道とは、現実の認識を深める(できれば認識枠組みを変えることに寄与する研究であり、実践に直接寄与する研究ではないこと。無理に研究と現場を直結させようとすると結論先にありきの歪んだ研究になる危険性があるとする指摘は、私にとってすごく大事にし、自問自答しないといけないことだと思った。

宮沢賢治「イーハトーヴ」試論

千葉貢(1988)「宮沢賢治「イーハトーヴ」試論」立正大学文学部論叢』 87, 91-114

http://ci.nii.ac.jp/naid/110000476808

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 宮沢賢治の童話や書簡から、彼が現代へのアンチテーゼとして自給自足や自然を畏怖し、和を重視する縄文人的な生き方を思考したとする仮説に基づいて論じている。また彼がほぼ生涯地元に生き、そして死んでいったことに着目し、閉鎖的で自然の厳しさに身を起き続けながら縄文人として生きていこうとする覚悟があったと論じている。

 とはいえ、縄文時代は遙か昔のことであり、いくらその様に生きようと希求してもそうはならない。この論者は、現代の社会は弥生時代からの文明であり、弥生文化とは自然の克服や効率性追求であるとし、そうした縄文人のように(自然を恐れ、和を尊ぶ)は生きれないこと、それが宮沢賢治の生きづらさを生んでいたとする。

 縄文時代の遺跡や遺物が東北から出土していたことや宮沢賢治の小説の中にそうした遺物への興味などが伺えることなどを重ね合わせながらある意味縦横無尽に論じている。

 ややくどい内容で途中で息切れしそうな内容だけど、着眼点が面白いので、宮沢賢治のことが好きな人は読むと面白いのかもしれない。


施設コンフリクト研究の課題

野村恭代(2012)「施設コンフリクト研究の課題」『関西福祉科学大学紀要』16,61-72

http://ci.nii.ac.jp/naid/110009486355

PDFあり


 そもそもコンフリクトとは1960年前半に主に研究され、その対象は軍拡競争、暴力、侵略といったもので、二つの当事者間で発生する利害対立、資源や地位の希少性を巡る争いなど、工学や社会学など広範な領域で捉えられている。主にコンフリクトは「葛藤」と見なされているが、本来紛争を含めた二者間以上の中で目標のことなるもの同士の衝突と見なすものである。その一方で、こうしたコンフリクトがプロセスを経ることで新しい秩序を作る機能があると言った主張もある。

 コンフリクトはことに福祉では施設を建てる上で近隣住民の反対運動などに焦点が当てられている。その地域社会強力な反対運動で建設が頓挫したり、同意の引き替えに大幅な譲歩を余儀なくされる状態と見なされている。

 なぜ施設建設で地域住民とコンフリクトが起きるのかは、障害への偏見やスティグマ、例えば精神障害者が街にいる事による犯罪の発生など地域生活の安寧が脅かされると言った地域住民の不安である。こうしたコンフリクトをどう解決していくべきかを先行文献を下に概説している内容である。

 社会福祉学ではコンフリクトの厳密な概念に基づいていないことや定義がないとする指摘をしており、コンフリクトは主に施設建設だけではないと問題提起している。福祉のコンフリクトとは何かに興味のある方は読みやすいので参考になるかと思う。


英米文学における超自然

金井公平(1990)「英米文学における超自然」『明治大学人文科学研究所紀要 別冊』(10), 193-208

http://ci.nii.ac.jp/naid/120004081325

PDFあり

 副題は、現代における恐怖小説の復権:H.P.ラヴクラフトの場合 となっている。

 ゴシック小説の解釈をしたものとは違い、こちらはラヴクラフトの作家生活や日生活までを詳しく書いている。ラヴクラフトはそもそも大衆のため、生活のために書いているのではなく、純粋な自己表現を追求したものであったこと。それでも我慢強くつきあってくれるマニアがいることでよいとするスタンスで小説を書き続けてきた。孤高の表現者であったこと、あるいはそうしたスタンスを保ち続けてきたものとは何か。そうしたスタンスで論考されている。

端的にそれは、ラヴクラフトが打ち立てた、人類発生以前の太古の地球を遡る神話体系の構築、あるいはコズミックホラーである。そしてそれをいかに写実的にかつ現実的に書くのか。そうしたうまく言語化できない出来事や形容しがたいものを表現することに心血を注いだのである。

この論文では同人サークルなどへのたくさんの書簡、あるいは多様な作品や他の作家などの引用などふんだんに取り入れており、労作となっている。

後半はクトゥルフの呼び声、インスマスの影などへの解釈は書簡などから補完され、なるほどと思わせる。共通するのは遺言執行人の手紙であり、その執行人だけが読むことを前提に書かれていることである。この論文の最後に、そうしたラヴクラフトの幻夢境の秘密はいわば彼の作品の遺言執行人たる読者だけは共有することが出来る。語り手と読者がもっとも緊密に通じ合うのは夢想を通してであるのだとする結論に至るまで、一本軸が通った内容となっている。


西洋文学における超自然(1)

金井公平(1999)「西洋文学における超自然」『明治大学人文科学研究所』(44),93-105

http://ci.nii.ac.jp/naid/40003635185

PDFあり


 副題は、H.P.ラヴクラフトとゴシック小説 となっている。


ラヴクラフトの評論『文学と超自然』、『恐怖小説覚え書き』で捉えられているゴシック小説の質、そしてラヴクラフトが評した恐怖のあり方について論じたもの。ラヴクラフトは人間の最も根元的な感情は、恐怖であり、そして未知なるものへ対する恐れこそが最も古いと定義している。それで、恐怖小説が成立したのが18世紀後半のゴシック小説であると着眼し、それらの小説群の評論を行っている。ゴシック小説とはゴシック様式の建築に見られる荘厳でどこか暗い古城が場面となり、そこで繰り広げる陰鬱な群像、幽霊や隠された地下墓地、あるいはジメジメとした広い廊下などを喚起さ、読み手に恐怖感を与える小説群である。こうした小説群からラヴクラフトが本質的な恐怖とは何かとか未知なるものとの遭遇とは何かを評論している。

この論文は、現代では、ほとんど読む事が出来ないあるいは困難な小説が多用されているが、そのあらすじから内容まで簡単に解説してくれており、すらすらと読むことが出来る。また現代風に解釈を施し、非常に分かりやすい内容となっている。

なにより連綿と続くホラー小説の起源から現代まで、ラヴクラフトの仕事を評価しながら、それ以後の状況までを概説しておりちょっとした案内書として面白い内容となっている。

この先生怪奇小説について色々と書いており、フランケンシュタインやドラキュラに関してかなり詳しく別論文で論じている。PDFでほとんど読めるので興味のある人は是非。


プロフィール

kuma

Author:kuma
救護施設→知的障害児施設→通所介護施設(高齢者)と15年以上。これからも思考と体力で、働いていきます。

自分のサイトもあります。
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