メモ:キャリア・アンカーについて

梶原しげるの「プロのしゃべりのテクニック」

【142】大人達(40代)を責めないで  5ページ目

 憧れのデザイナー職を辞め、子どもの環境第一と田舎に引っ込み、今は非正規の職につきながら次のキャリアについて、思いを巡らしぽつりぽつり語る 人。40代。わずか20余年の職業人生の中で、それぞれに重い荷物を背負いながらも前向きに生きる40代に共通するのはしっかりした「キャリアアンカー」 を持っていること。

 キャリアアンカーとは人生計画の基になる志のこと(キャリアとは職業人生。アンカーとは船の碇)。産業カウンセリングでは最も大切な概念の一つとして学 ぶが、話を聞いた40代の「おじさん達」はわずか20年ほどの職業経験から、知らぬ間に「キャリアアンカー」を身につけていた。

 から抜粋したんだけど、キャリア・アンカーって何それと思ってwikiで調べたら

キャリア・アンカーとは、アメリカ合衆国組織心理学エドガー・シャインによって提唱された概念

ある人物が自らのキャリアを選択する際に、最も大切な(どうしても犠牲にしたくない)価値観欲求のこと、また、周囲が変化しても自己の内面で不動なもののことをいう。

  • シャインは主なキャリア・アンカーを「管理能力」「技術的・機能的能力」「安全性」「創造性」「自律と独立」「奉仕・社会献身」「純粋な挑戦」「ワーク・ライフバランス」の8つに分類した。

  • 管理能力 - 組織の中で責任ある役割を担うこと(を望むこと)。
  • 技術的・機能的能力 - 自分の専門性や技術が高まること(を望むこと)。
  • 安全性 - 安定的に1つの組織に属すること(を望むこと)。
  • 創造性 - クリエイティブに新しいことを生み出すこと(を望むこと)。
  • 自律と独立 - 自分で独立すること(を望むこと)。
  • 奉仕・社会献身 - 社会を良くしたり他人に奉仕したりすること(を望むこと)。
  • 純粋な挑戦 - 解決困難な問題に挑戦すること(を望むこと)。
  • ワーク・ライフバランス - 個人的な欲求と、家族と、仕事とのバランス調整をすること(を望むこと)なんだそうな。

  で、ふ~んとCiNiiでそのキーワードを入れてみたら、ほとんど看護職とか社会人大学院へのアンケート調査などが中心。会社側としては、管理能力とか人材育成を求めるので、個人の安全性とか創造性、奉仕など以下のキャリアアンカーはあんまり考慮されないってのがあった。

 自分の確固たる価値観、これだけは譲れないって言っても、そうはいかないのが世の中ってモンで、それをどう折り合いをつけるかってことなんかなじゃないだろうか。とはいえ、これまでキャリアアップとかキャリアパスといった組織の中で規格化していくことに躍起になっている福祉業界ではこうしたキャリア・アンカーのような話にまで行かない。しかし、仕事を続けていく中で自分がどうしたいのかを見定めたとき、このキャリア・アンカーはひとつの指標になるんじゃないだろうか。その意味で、看護で実施されているのならば、スケールはほとんどパクればいいから、福祉職について調査する人いませんかね。相談業務とか介護職に分けるとか男女の意識の差とか結構面白いモノが出そうな気がするんだよね。私は、超文系なので分析とかからっきしなんで、できませんが、視点としては研究に十分になりうる未知の分野かもしれない。

 自分自身が中堅以上にさしかかってきたときに、自分は何がしたいのか。これはとても重要なこと。私は多分、創造性とワークライフバランスかな。この職業に就いたからこそ、創造性を志向できたし、ワークライフバランスの大切さを知った。その意味で、仕事は私に生き甲斐を与えてくれた。これまでさんざん働いてきた。そしてこれからも働いていく。ならば、これから自分はどこを目指して働いていくか。それがキャリア・アンカーなんだなと理解した。

佐藤厚(2009)「キャリア・アンカーと仕事意識―技術者を中心に」『法政大学キャリアデザイン学部紀要』6, 139-180

http://ci.nii.ac.jp/naid/120003221880

坂口桃子(2003)「看護職の組織内キャリア発達-組織と個人の適合過程-」『国際医療福祉大学紀要』 7, 1-29

http://ci.nii.ac.jp/naid/110008677642

共にPDFあり

さらに福祉系では一件だけヒットした。こちらはPDFなし

田口潤(2008)「高齢者施設に働く介護職員のキャリア・アンカーと就労意欲に関する研究」『社会事業研究』 47, 106-109,日本社会事業大学社会福祉学会

http://ci.nii.ac.jp/naid/40016140914
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<重度知的障害者>とケアの分配について

田中耕一郎(2012)「<重度知的障害者>とケアの分配について」『北星学園大学社会福祉学部北星論集』49, 115-127

http://ci.nii.ac.jp/naid/110008916558

PDFあり

 副題は、『何の平等か』に関する一考察 となっている。

 論者は、日本社会福祉学会の学会誌でも精力的に投稿し、掲載されている一線級の人である。それだけよく考え込まれており、論旨はしっかりとしている。しかし、いま援助技術系での議論、正義論やケアの倫理の取り扱いが分かっていないと敷居が高い内容。でもって、ロールズとセンの理論もある程度押さえておかないと難しい。でもって、ケアの倫理ではレビナスもかすめておかないと…

 逆に言うと、この三人がいま援助技術系では議論の対象になっていることを手がかりに読むとたいていの論文が読めるんじゃないかと思う。昔はアンデルセンだったりフーコーだったりしたんだけどね…

 とにかく昔から社会福祉学は、「ある程度理性があり合理的な判断ができる人」がターゲットになってきたという前提を踏まえることが大事。いやいやじゃぁ認知症は? 生活困窮者は? は合理的だったのかと言えばそうじゃないだろうとなるけれど、それでも自分で判断ができることを前提にしてきた。しかし重度知的障害者は言語もなく行動に一貫性もない。こうした人たちは理性があったのかという残酷さがあった。せいぜい、そういた「人」も生きる価値があるって言うだけで、理性や合理性は不問にしてきた。

 ロールズもセンもその意味で彼らに対する正当な権利の主張はできないという限界点が存在することを明らかにしている。でも人として生きる権利があるとするならば、ケアのあり方が問題になるだろうというのがこの論文の主旨。

 ケアの倫理をまとめた後、正義論とこの倫理は交わることなく推移していることが問題であり、重度知的障害者にとってはどっちも必要とするというのが結論。上手く解説できないけれど、ケアが分配されることは効率とか公平とかそうした地平にはそもそも無い。しかし、ケアが無償のモノであるとするだけならば、重度知的障害者への「適切」なケアが為されているかどうか判断できない。よって、正義論からの公平性や道義的な監視が必要である。その一方で効率とか公平性を推し進めるあまり、合理的でも理性的でもないと放逐されている重度知的障害者の生存はおぼつかなくなる。よって、ケアの倫理による言説がその生の支えになるとするその意見には賛成である。

 ケアを職業としている者にとっては当たり前の話である。しかし、この所作は無意識であり取り立てて考えていないことでもある。その意味で、正義論からとケアの倫理からの言説を意識することは、良き職業人となるのではないだろうか。そこには折り合いとか葛藤とかで表現されるものなのかもしれない。

生活保護制度における自立論の到達点と今日的課題

戸田典樹(2009)「生活保護制度における自立論の到達点と今日的課題」『龍谷大学社会学部紀要』35, 106-115

http://ci.nii.ac.jp/naid/110008721735

PDFあり

 現在(2012年6月)、なんだか生活保護制度の不正受給とか扶養者がお金持ちなのに親とか子どもが生活保護を受けているとかそんなことが取り上げられるようになっている。この手の話は昔からあったし、生活保護費をもらいながら自立なんてできるのかとか根の深い問題である。あるいは、最近は不況とかリストラで就労能力がありながら生活保護費をもらっている人が増えていることが社会問題になっている。あるいは、国は借金まみれ、社会保障費の圧縮をしていかないといけないのに、保護費は上がり続けている。または、他の人たちが生活保護費以下の所得で頑張っているのに、働かずにいろんなモノが免除されて悠々自適に暮らしているとはけしからんと言う論調がある。つまり、生活保護受給者は今、非常に風当たりが強いのである。

 私はフルタイムで週休二日で働いても、生活保護費以下の賃金しかもらえない状況の方が異常だと思うが、そこはあまり論じられることはない。自立論を語るとは、このフルタイム週40時間働いても低賃金であると言うことの解消無しにはあり得ないのではないかと思う。

 とにかくこの論文では、そもそも自立助長はどのように捉えられてきたのかを制度成立当時の解釈から歴史的に叙述している。適正化、水際作戦などこれまでも生活保護受給のハードルは非常に高い。しかし、それでもむしろ生活保護を薦めてその人や家族をケースワーカーが守ってきたという事例もある。貧困は本当に悲惨である。人の可能性や希望を奪う。たとえ、その人の勤労意欲がないとか人格的な問題があったとしても、それでもって死ねといっていいのかどうか。

 そうした人を死ねと言った途端、その次は、違う要件の人が死ねと言われる。結局、負の連鎖が広がっていく。かつて私の恩師が、残酷なんだけれど、生活保護を受給している人がいるから、我々は生きていける。生活保護の後ろには何もセーフティネットはなく、それが無くなればただ死が在るのみである。ただでさえ、補足率が低く、いまも生活保護を受けていいはずの人が受けずに貧困にあえいでいる。その事実をどうするか。

 そんなことを思いながら、その人が生活保護を受給しながら自立を目指すとは何かを考えてしまった。

 博士課程後期の論文で良くまとまっている。ちょっと勉強していれば当たり前のことを丁寧に書いている。丁寧って所が学生らしくて好感が持てる(って、順当に行けば、この論者は卒業しているだろうけど)。

(続)道祖神考

本位田重美(1969)「道祖神考」『人文論究』 20(1), 1-15, 関西学院大学

http://ci.nii.ac.jp/naid/40001969814

本位田重美(1975)「続道祖神考」『人文論究』 25(3), 1-14, 関西学院大学

http://ci.nii.ac.jp/naid/110001068607

ともにPDFあり

 たまたま斉の神とか塞神を調べていたら出てきた論文。ちなみに、CiNiiで道祖神およびPDFありと検索かけると、14件しかヒットせず、しかも有料の「民俗学研究」が大半である。その意味で、無料で手に入るPDF論文としては貴重である。

 それでこの二本の論文、とても面白い。すごくこなれた文章で、読みやすく読んでいて楽しい。ちょっと調べたら、75年の方は、定年2年前に書かれていたことが分かった。おじいちゃん教授が自分のこれまでの研究を振り返りつつ、得々と笑顔でみんなに語っているような光景が浮かび上がるようなそんな内容である。

 特に最初の方の出だしが面白い。

 村の子は、女夫(めを)のくなどの 肩擁(だ)きています心を よく知りにけり

 「くなど」の「く」とは道ばたに男女が肩を抱いて並んでいる石像(道祖神)を指している。それは豊穣を願う心とか子宝を授かることとかそうした自然の営み全般を指しており、村の子供たちはそれと知らずにそうした地域で生きる心をその道祖神の姿からすでに学んでいることを歌った一首を出だしとしている。

 田舎に行けば、どうしてこんな所に石塚が建っているのか不明なものがある。それは菩薩だと何かの供養と思うけれど、単なる丸石だったり、男根を模した石だったり、男性と女性の立像だったりすると、それが何か分からない場合がある。この何が分からない石像は道祖神である場合が多い。そして、道祖神はあまり顧みられない民衆の信仰であり、研究もあんまり進められていない分野でもある。その意味でこうした論文はとても貴重だと思う。

 この論文で総合的に道祖神の生い立ちとか変容がゆっくりとした口調で語られており、非常に読みやすい。道祖神は、いろんな役割があり、

  1. 双立神(男女が肩を抱いている姿などの立像)は、農耕神、衝神(斉の神・塞神)、性神、手向神(旅の安全を守る)
  2. 猿田彦は、双立神に加えて、荒ぶる神
  3. 金精神は、農耕神、衝神、性神
  4. 丸石は農耕神、衝神、荒ぶる神となっている。

 私としては、塞神のように疫病とかから村を防ぐ神という一面、旅の安全を願う神としての一面があったエピソードが面白かった。また、猿田彦は庚申信仰とも結びついており、その意味で、庚申信仰も道祖神も民衆の信仰として習合していることが分かり非常に勉強になった。

 いずれにしろ、1~4の種類について、古典を紐解き、わかりやすく解説している。そして、かみ砕きながらも含蓄が深く、自身の研究の厚みから導かれた推論も混ぜられた非常に面白い内容となっている。

 道ばたにある不明な石塚や立像がちょっと違ったモノに変わるような気がする。

クロアチアにおける民族問題とセルビア人の地位

材木和雄(2009)「クロアチアにおける民族問題とセルビア人の地位」『IPSHU研究報告シリ-ズ』 42, 118-143,広島大学平和科学研究センター

http://ci.nii.ac.jp/naid/120002753684

PDFあり

 副題は、その歴史的変遷と内戦終結後の問題状況 となっている。

 ボスニア内戦が終結して14年。あるいはクロアチアの内戦では、セルビア人とクロアチア人がお互いに殺し合い、その葛藤とか難民になったセルビア人のこととか、学校教育での違い、人種間の軋轢などをNHKで放送していたことがあった。それがすごく印象に残っていて、CiNiiのBOTでたまたま流れてきたのでそれを拾っていた。それで高速バスで仙台に行く用事があったので溜まっていた論文のいくつかを消化しようとカバンに入れていたのが、この論文だった。

 世界史は苦手で、その流れとかはよく分からなかったけれど、紀元2世紀から現在までのクロアチア人とセルビア人の移動、政治形態や後ろ盾の違い、あるいは入植するに当たっての政治的な意図の違いなどが10ページ足らずでものすごくダイジェストに書かれている。ダイジェストなので、ある意味すごく分かりやすいというか。この論文から分かるのは、人は政治的な生き物であり、自分たちが民族として生きていくためにはどのようなスタンスで、誰に、どのようなプロセスで、政治に関わるのかによって違ってくると言うこと。まさに生存競争のための政治活動というのが良く伝わってくる。

 島国で96%以上が日本人で、日本人による統治されたこの国ではなかなか想像するのが難しい世界である。

 同じ意味で、ジェノサイド(民族浄化)が隣人同士で行われるってのも大陸ならではなんだなと、改めて思った次第。

 セルビア人はクロアチアにあって、内戦前でも12%程度しかいなく、クロアチア人は80%近く住んでいた。にもかかわらず、セルビア人の地位はクロアチア人と同じ待遇を受けていた。これは長い歴史の政治闘争で獲得したモノだと読める。しかし、こうした少数派が多数派と同じか有利な立場を占めると言うことは国際的に良くある。ちょうどイスラム教の宗派で、少数派が多数派よりも高い地位にいる事による反乱はここ数年とみに見られる。そして弾圧と混乱もまた同様である。

 逆に多数派が実権を握り、少数派が抑圧されることもあるが、このパワーバランスをどう観るか。ちょうど、クロアチア人がセルビア人を追い出したようないわゆる民族のうねりのようなモノは歴史的に常に起こりうる問題であることがよく分かった。その意味で、共存とか共栄とかテレビで流される「言葉」は単一国家である日本なんかが想像できないくらい、その意味は遙かに重いんだろうと思う。

医療ソーシャルワークにおける「退院援助」の変遷と課題

中野加奈子(2007)「医療ソーシャルワークにおける「退院援助」の変遷と課題」『佛教大学大学院紀要』35,221-235

http://ci.nii.ac.jp/naid/110007975237

PDFあり

 いまやMSWの主要な業務のひとつである退院援助、退院促進と化している現在、本来退院を援助するとはどういう事なのかを用語の変遷と共に描き出している。なかなかの労作で、MSWの創成期を第二次世界大戦まで辿っている。そもそも退院後の生活をどうするかということに主眼を置いて、社会復帰とか家庭のこととかかなり広範な概念でMSWが働いていることが分かる。退院援助がクローズアップされるようになったのは、1970年代の高齢者の社会的入院が社会問題化してきたあたりであること。そして、退院援助が定着したのが1980年代であり、医療費抑制のために強化されたのが1990年代と考察されている。その後、社会復帰と退院援助が区別されたり、定義についての考察とよく練られた内容だと思う。

 この間、保育士のソーシャルワークって何って話し合ったことがあったけど、SWって、相談、問題解決、言語的活動って日本語に直される。じゃぁ、保育所での相談とか問題とかってなんだろうか。それをどう解決させるのがSW的な実践なのかって話になった。結論は出ないけれど、それはMSWでも当てはまるんだよね。いみじくもその場にいた先生が、医者が患者を治すのか、薬が直すのか。たぶん、直接的には薬が直すが、それを見立てて処方する判断は医者って事なんだろうと思う。

 そう思うと、MSWの退院援助は、見立てなんだろうと思う。その薬が患者を治すかどうかは分からない。けれども、おそらく適切であろう処方をすること。これがソーシャルワークなんだろうと思う。とすれば、転院させるにしろ在宅に戻すにしろ、その見立ては処方である。医者は疾病と薬学の知識からマッチングさせるように、MSWはその人の生活課題を社会(福祉)学的にマッチングさせていくことにあるんじゃないかと思う。

使用した文献

 2012の学会発表予定の原稿に使った参考・引用文献のリスト。みな読み応えがあり、大変勉強になった。

PDFあり

杉谷修一(2005)遊びをどのように記述するか」『西南女学院大学紀要』94349

杉谷修一(2003)遊びにおけるルーティンの構成」『西南女学院大学紀要』78288

草信和世・諏訪きぬ(2009)現代における保育者の専門性に関する一考察」『保育学研究』47(2)8291

田中裕喜(2006)遊びの哲学」『滋賀大学教育学部紀要(教育科学)569398

高橋真由美(2011)子どもの遊びを支える保育者の養成」『藤女子大学紀要 Ⅱ』48,183-188

横井紘子(2008)「保育における「遊び」の捉えについての一考察」『保育学研究』442,93-103

植田章(2008)障害者自立支援法による福祉実践の専門性の解体」『社会福祉学部論集』4,1-17

恒川直樹(2005)保育の場で生きられた遊びの意味」『保育学研究』43(2),8-20

奥山順子・山名裕子(2007)幼稚園教育における計画の位置」『秋田大学教育文化学部研究紀要(教育科学部門)624351

猪田裕子(2004)ピアジェ遊戯論における遊びの根拠の一考察」『教育学科研究年報』304150

津守真(2002)保育の知を求めて」『教育学研究』69(3)357366

奥山清子・花谷香津世ほか(1993)「障害児保育拠点園における障害児の対人関係」『川崎医療福祉学会誌』3259-65

村田昌俊・及川雄一郎ほか(1994)「障害児の遊び・遊び場に関する研究」『情緒障害教育研究紀要』13,79-90

横井紘子(2007)「『遊び』それ自体」の発達についての一考察」『保育学研究』451,12-21

山口裕貴(2010)「ホイジンガ遊戯論にみる「遊ぶ主体」の意味するもの」『紀要』46,215-221,郡山女子大学

保積功一(2008)「知的障害者施設の役割と職員の専門性を巡って」『吉備国際大学社会福祉学部研究紀要』13,23-33

横井紘子(2008)「『『遊び』の充実』を志向する保育者のありよう」『人間文化創成科学論集』11,247-257,お茶の水女子大学

柳田泰典(2004)「子どもの遊びとエンパワメント」『長崎大学教育学部紀要.教育科学』66,25-39

保延成子・堀尾恵太郎(2009)「社会的養護の展開と課題(2)」『東京家政大学研究紀要』491,51-57

岩田香織・高畠裕子(2003)「知的障害児施設の役割に関する実証的研究」『静岡県立大学短期大学部研究紀要』17,105-114

宮崎光明・井上雅彦(2008)「自閉症児における『はさみ将棋』の指導」『発達心理臨床研究』14,143-153

岡田智・後藤大士ほか(2005)「ゲームを取り入れたソーシャルスキルの指導に関する事例研究」『教育心理学研究』53,565-578

関戸英紀(1995)「自閉症児における競争行動の獲得過程」『特殊教育学研究』325,119-125


PDFなし

片岡志保(2011)「児童養護施設職員の職務内容における現状」『社会福祉学研究』6,1-9,日本福祉大学大学院社会福祉学研究科

麦倉泰子(2003)『必要』と『ニード』のあいだで」『早稲田大学院研究紀要(第一分冊)495767

奥田健次・井上雅彦(2001)「自閉症児におけるパーティーゲーム参加への支援とその効果に関する予備的研究」「発達心理臨床研究」8,19-27

古屋義博・鷹野美香ほか(2002)「ある一人の知的障害児の社会性発達の過程と教師による関与との関係」『山梨大学教育人間科学部紀要』32,227-234

谷口純世(2008)「児童養護施設における日常生活支援」『医療福祉研究』4,81-97

大森隆子(2010)伝承遊び研究考(3)」『椙山女学園大学紀要論集(人文科学編)414353

白石正久(2009)「療育における指導とは何か」『障害者問題研究』373,198-206

秋田喜代美(2008)「乳幼児期の子どもを育む」『月刊福祉』12月号,28-31,全国社会福祉協議会


書籍

井上俊(1977)『遊びの社会学』世界思想社

増川宏一(2006)『遊戯』法政大学出版局

西村清和(1989)『遊びの現象学』勁草書房

中野茂(1996)「第2章遊び研究の潮流」高橋たまき他編著『遊びの発達学/基礎編21-60,培風社

森上史郎(1996)9章幼児における遊び」高橋たまき他編著『遊びの発達学/展開編153-176,培風社

松田恵二(2003)「遊びと学び」『おもちゃと遊びのリアル173207,世界思想社


プロフィール

kuma

Author:kuma
救護施設→知的障害児施設→通所介護施設(高齢者)と15年以上。これからも思考と体力で、働いていきます。

自分のサイトもあります。
kumaの学習ノート

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