「他者への欲望」からみた教育の倫理

森岡次郎(2011)「「他者への欲望」からみた教育の倫理」『大阪大学大学院人間科学研究科紀要』37,149-170

http://ci.nii.ac.jp/naid/40018810353

PDFなし(秋田大学で収集)

2012年4時点で2010年までPDFで公開されている

大阪大学大学院人間科学研究科紀要

http://www.hus.osaka-u.ac.jp/kiyo.html

 副題は、障害者解放運動と障害学を経由して となっている。

 最初に、障害者の差別とかそうしたことを主題にしているのかなぁと読み進めていったら、後半は教育学での視点にシフトしていった。紀要の方向性が教育学だった事を気づいて、ちょっと失敗だったかなと。まぁ、はじめの方でも教育の倫理を論じるためにいささか迂回した議論になるがと言及していたけれど。

 障害者解放運動では、青い芝の会の運動を外すことはできない。いま、この青い芝の会のことを知っている人はどのくらいいるだろうか。まだ大学でも講義の中にやっているだろうか。1970年代の一代ムーブメントであった。脳性麻痺の子どもを母親が介護疲れで殺してしまい、それを地域住民が減刑嘆願運動を起こした事への反旗でもあった。本論では、まっすぐ、優生学への批判について述べている。その後、障害学では当事者性について、だれが障害者に仕立てるのかについての理論的運動について概説している。このあたりは、非常に読みやすく、しかも障害者福祉の歴史や現在についてコンパクトにまとめている。

 その後、新優生学的欲望とか他者への欲望についてレヴィナスなどを参照して書かれている。新優生学では、遺伝技術や生殖医療技術の発展で、障碍を持つ子供が生まれる「リスク」を減らせるようになったこと。あるいは、そのリスクを冒さないように出産する人が自己決定で行われていることを指す。障害がリスクとして捉えられること。この自己決定が無意識のうちに選択されること。これが新優生学的な欲望である。

 しかし、本論はそこから急展開を見せて、そもそも人が生むのも、どんな子供が生まれるのも未確定で不確実である。確かに人は合目的的に、自己の欲望を優先させる。でも、その欲望は元を正せば、自分一人で達成させるものではなく、つねに享受されるものである。享受は他者によってもたらせるものである。よって、享受とは他者に対して自己が受動的でなければならない。この受動性があって人は自己の欲望を満たすことができるのである。

 障害者を社会の成員として認めてほしいという欲望は何によって享受されるのか。それは、他者への欲望の中にある。とするならば、健常者/障害者という二項目での対立ではなく、もっと違う関係性があるのではないだろうか。あるいは、障害を持つ子供を産むことはリスクであるから排除することを選ぶ内なる優生思想を乗り越えるにはどうしたらよいのだろうか。それもまた、子どもを授かったという享受が何によってもたらせるのか。そうした根源的なことに思いを寄せることではないだろうか。

 最後に論じている文章が美しい。

 レヴィナスの論じていいる、欲望に対する原理的考察を進めていくと[…中略…」障害者たちが採用した批判と告発の形式や、社会構築主義的二項図式を越えた関係性のモデルとを、教育学的視座から提示することは可能となるだろう。おそらくそれは、ストイックな反省としてではなく、快楽を求める欲望の様態として描かれるはずである。

 快楽の様態とは何か。非常に気になるが、残念ながら次回に続くって感じで終わっている。近いところで小泉義之の『病の哲学』とかドゥルーズの『千のプラトー』とかがかぶってくるような気がする。

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人間であることの野性に向かって

鳶野克己(2010)「人間であることの野性に向かって」『立命館大学人文科学研究所紀要』94,1-24

http://www.ritsumei.ac.jp/acd/re/k-rsc/hss/book/ki_094.html

PDFあり

CiNiiにはないが、独自機関リポジトリで色々収録

立命館大学人文科学研究所紀要↓

http://www.ritsumei.ac.jp/acd/re/k-rsc/hss/book/kiyou.html

 副題は、内なるカマラを思い、カマラを生きる となっている。

 人間とは何か。この根源的な問いを、かの有名な「狼に育てられた少女(カマラ)」を題材にネットリと考え抜かれているすごく読み応えのある論文。難しい言葉もあまりなく、哲学者の考察とか引用とかもほとんど無い。ただ一点、人間とは何か。そして人間になるとは何かである。

 私たちは人間であるが、その自覚は、どうやって為されるのであろうか。また、チンパンジーはどこまで人間的なのかという場合の、【人間的】とは何を指すのか。そんなこと考えなくても、人間は人間だろという向きもあるけれど、では、狼に育てられたカマラは人間なのか。生物的に人間であることには変わりはないけれど、それだけで普段私たちは人間とは考えていない。生物的にヒトは、他の生物と同じように、呼吸をして、食事をして、排泄をして死ぬ。それが自然であるが、それだけでは人間だとは考えない。先のチンパンジーの例でもあるように、どこまでが人間的なのかとか人間として生きるとはと思考してしまう。この論文ではあまり触れていないが、最近は、というか倫理学では、人間であるだけではなく、大人になるとは何かとか、良き人生を送るとは何か、モラル・理性が欠けている人間は人間ではないとかそうした基準で、人間を捉える。

 カマラは、結局、人間として正常の発達を示すことなく死んでしまうと言う意味で教育の失敗例とされている。また愛情深く神父が育てたが、人間として身につけるべき行動が身につかなかったことから、人間らしく育てようとした事への失敗として語られるし、やはり人間が人間を育てないと人になり得ないという言説で語られる。

 しかしカマラの気持ちになったとき、果たしてそうであろうか。母親であった狼は人間によって射殺され、奇異の目で見られ、分離されたこと。また、果たして、人間の中で育つことがカマラにとって幸せだったのか。知らず知らずのうちに人間の傲りというものはなかったのか。そして、人は人間ではない何かになる可能性が、カマラの中に見ることが出来るのではないか。そんなことをネットリと。

 野性と対比される形で人間が語られるが、人は野性へシフトする可能性がある。その変容は日常の中でも穴を開けて待っているのである。この論文では語られていないけれど、人間よりもより高い知能を有する生物や宇宙人がいたとした場合、カマラは私たちである。そして、カマラである私たちは、その宇宙人の知性や知能を想像できない立場に置かれるのである。その時、宇宙人たちは我々をどう観るのであろうか。

 あの有名な狼に育てられた少女のことはかなり詳しく、かつオルタナティブな視点と思考で語られているので、教育学とか発達心理学に興味のある人は是非読んでほしい内容。

新韓流の文化社会学

黄順姫(2012)「新韓流の文化社会学」『社会学ジャーナル』37,1-20

そのうち、下記のURLに載ることになるかと思う。

https://www.tulips.tsukuba.ac.jp/dspace/handle/2241/94

PDFなし(秋田大学収集)

 副題は、韓国大衆文化の日本的遊び方の構造と実践 となっている。

 少し時期が早かったけれど、そろそろ今年度のジャーナル(紀要)がいろいろと出ているだろうと自動巡回をした。で、このジャーナルは結構おもしろいので、チェックをして、この論文をコピーする。そのうちPDFがCiNiiで公開されるけれど、タイムラグがあって、多分、10月とかそれ以降になるかと思う。新しいものを新しいウチに読むって、ちょっと贅沢な気分。

 この論文、かなりマニアック。今の韓流は昔~冬のソナタとかからは一世代後という位置づけで、冬のソナタ時代を元祖、いまのチャン・グンソクとか野獣系を新韓流と区別している。その上で、元祖と新の消費傾向とか趣向の違いについて分かりやすく?分析している。

 というか、オタク学におけるデータベース論が根底にあるので、それを踏まえないとちょっとつらいかも。日本の新韓流は、キャラ萌えとかイメージキャラクターを趣向する傾向があり、同じキャラで居続けることを望む傾向がある。韓国は、違うらしく、違う役柄を挑戦し続けて、多様な役を演じることで演技能力を証明することに重きを置くので、固定的なキャライメージが形成されがたいとされている。

 またキャラ萌えも日本で既にある「草食系」と「かかわいい男の子」と言った型にはめつつ、それを複合させながらそれぞれの年代がそのキャラを愛する傾向があるらしい。

 しかし、韓国の俳優などたちは、そうした日本の消費傾向を知りつつも、やはりイメージチェンジや再構築をしながら多様性や多義を提供し続けていること。それを日本のファンも受け入れながらお互いに消費をすること。共生的消費を形成していることを述べている。

 とまとめるとこんな感じだけど、オタク論を上手く敷衍しているので、何とも言えない説得力でもって描き出されている。日本の消費文化と韓国大衆文化の接点から、日本で受けている俳優や歌手の苦悩まで幅広く書いている。

〈物語〉の力に基づくロマンチックな科学の提案

竹下正哲(2009)「〈物語〉の力に基づくロマンチックな科学の提案」 『現代と文化 : 日本福祉大学研究紀要』120, 125-139

http://ci.nii.ac.jp/naid/110007576148

PDFあり

 副題は 「生きる力」によるナラティブの発展を目指して となっている。

 ナラティブアプローチは割と新しい援助理論であるが、その扱いが非常に難しい。精神医学では、このアプローチは使用されているが、社会福祉分野ではあまり使われてはいないのではないだろうか。本来、貧困とか在宅福祉などで自分の中にある凝り固まった価値観を解きほぐしたり、現状認識をかえるために使用されても良さそうであるが。エンパワメントやストレングスとの関連性のあるアプローチ法である。

 この論文は、ナラティブとは何かを広範囲に論じている。医療、福祉のみならず、ナラティブは人類学、民俗学などにも使用されていることやその研究方法も違いなどにも触れている。しかし、この論文の主旨は、そもそも〈物語る〉とはどういうことなのかを論究している。たしかに、物語ることは大事だとナラティブは言うけれど、そもそも物語るとは何か、あるいは物語ることはどういう作用があるのかである。

 心と体の相互作用を軸に、非常にユニークな論を展開している。なぜ人は正座をするのか。あるいは本当に正しい正座をすることはどういった効果があるのか。あるいは、あくびとは何か。直感とは何か。そして、物語に人は生きることを忘れてしまったこととは何か。

 例えも言葉の使い方も非常に易しく、また適時写真や図説も入っており、論者がすごく縦横無尽に思索の幅を広げて楽しく書いたんじゃないかと思わせる内容で、楽しかった。

「『遊び』の充実」を志向する保育者のありよう

横井紘子(2008)「「『遊び』の充実」を志向する保育者のありよう」人間文化創成科学論叢 11, 247-257,お茶の水女子大学大学院人間文化創成科学研究科

http://ci.nii.ac.jp/naid/120001437841

PDFあり

 副題は、現象学的視座から「遊び」援助の内実を探る となっている。

 既にこのブログでも3本を紹介しているけれど、いま論文を作成している最中に非常にお世話になっている先生(といっても会ったこともないけれど)。

 この論文も、西村清和とガタマーをベースに、エスノグラフィーを使って、遊びの光景を描写する。西村清和については、これまで言及してきたので割愛するけれど、西村清和の遊戯論、中でも遊隙、遊動を中心に、子供たちの遊びの発展とは何か、そして援助者の役割とは何かを考察している。分かりやすい事例と西村らの遊戯論を前段階でしっかりと解説しているから、その後の考察がよく整理されていて、文章も構成もよく練られているのが分かる。さすが、お茶の水の保育、大学院の研究論文だと思う。

 しかし、最後まで読んでいると、ふと疑問に思うことがある。確かに保育では遊びは重要である。そして充実した遊びをするためには援助者は、遊び続けるように仕掛けていくこと。そのためには、遊びとは何かを深いところで理解すること。その点に関してはまったく異論はない。繰り返しになるが、保育という現場は遊びを教育のカリキュラムとしている。よって、上手く遊べなかったり、「保育の時間」で遊ばないのは、保育の失敗、あるいは根幹に関わる。ならば、よく遊ぶにはどうしたらよいか、あるいは充実した遊びを提供するとは何かと躍起にならざるを得ないのかもしれない。しかし、そのことによって、遊び続けるように援助者がある種の強迫観念をもって、遊動を発動させたり、遊隙を見出したりするのはガタマーや西村が考える遊戯論とはちょっと違うのではないかと思う。

 仕事や日常生活/生存の行動様式と同じように、人は遊ぶ。そこには優劣はなく、ただそうであるとしか言えないとする。よって、遊ばないこともまた当たり前のことであり、遊ぶことも当たり前なのである。だから、遊び続けないからと言ってそれが、良くないとかではないし、むしろ保育の時間であっても遊ばないという選択を行動様式の中にあることも折り込むべきなのである。そして、その時に遊ばなかったからと言って、次に遊ばないとも限らないし、むしろいつかは遊んでいるのである。充実した自己表現とかそんなのはむしろ後付であり、むしろ西村らから学ぶのは、遊びは人間の基本的な存在様態であるという一点であると思っている。

 とはいえ、継続研究を重ねている横井先生は、非常に熱心に遊びを描写しようとしている。そして、私も大いに参考にさせてもらっている。今後の活躍を期待する先生である。

子どもの遊びとエンパワメント

柳田泰典(2004)「子どもの遊びとエンパワメント」『長崎大学教育学部紀要. 教育科学』66, 25-39

http://ci.nii.ac.jp/naid/110004600094

PDFあり

 端的に、西村清和の遊戯論を詳しく解釈あるいは概説している論文。保育学では、遊びそのものへの接近方法として、現象学の援用が行われている。現象学とは、生きられた経験をそのまま記述する方法を採る。エスノグラフィーとか質的研究とか…カテゴライズよりもその遊んでいる姿を描写する。主観的な思いとか相互作用を記述することで、そのものを手応えのあるものとして描出する。西村清和の『遊びの現象学』はまさに遊びそのものを描出したもので、保育学の一部の研究者にとっても無視できない存在。

 しかし、美学者である西村の言葉は、造語もありまた例えが分かりやすいようで難しい。また、保育は計画された遊びの提供であり、西村が捉える遊びは、大人も子どもも等しく遊ぶもので、子どもだけのものでないと一蹴しているだけに扱いが難しいのも確か。しかし、保育が遊びの総合カリキュラムであるならば、遊びとは何かに思いをはせることが必要。でも、案外、そんなことを考える人はいない。なぜなら、遊びは遊びであると死海得ないと思っている人が多いから。この論文は、遊びそのものへの接近を西村の遊戯論をほぼなぞる形で概説している。

 遊びそのものとは何か、そして西村清和とは何者か。それを知る手がかりになるかと思う。で、興味があったら(出たら)、西村清和(1989)『遊びの現象学』勁草書房を読んでみることをオススメする。

介護事業者のディスクロージャーに関する一考察

澤村孝夫(2009)「介護事業者のディスクロージャーに関する一考察」『千葉経済大学短期大学部研究紀要』 5, 13-22

http://ci.nii.ac.jp/naid/110007079040

PDFあり

 ディスクロージャーとは、情報公表とか財務諸表の公表とかそうした事を指す。いまゆるコムスン事件とか保険の不正請求とかが後を断たないために、介護業界で今後求められるのは、ディスクロージャーの意識だと。で、介護事業者にとってのディスクロージャーとは何かを紹介した論文。もともと、ディスクロージャーとは、会計・信用金庫などの金融機関などで義務づけられている業務および財産の状況に関する説明資料を指すし、コンピューターセキュリティ業界での情報公開を指す言葉である。それにとどまらず、いまは株式会社などでも広く浸透している用語である。

 介護業界でも民間業者が多く参入してきたので、株式会社方式でしっかりと情報公開をしていかないといけない。しかし、NPOなど脆弱な財政基盤で使命感はあるがそうした経営観念が薄いところでは、そうした情報公表などに対して意識が向いていない傾向がある。しかし、高齢者という従来の顧客とは違ったサービスを提供するものとして、いきなりの倒産はサービスの受給者である高齢者の命にも関わる問題に派生する。よって、そうした経営基盤や遵守されるべき労働上のルールを設定しないといけない。

 論者の伝えたい内容は、上記にようなものであるが、内容はやや盛り込みすぎな感も否めない。会社法の説明から介護業界の価格設定が市場によるものとは言い難い、公定なものであり、報酬改正による下方修正は経営にもろにかぶることになることなど、制度の説明まで多岐にわたっている。そのため、ディスクロージャーとして介護事業者はどうするべきなのかの論点が分散しているように映った。

 とはいえ、かなり詳しく介護事業者の今後の経営について論じているので、じっくり読めばそれなりに役に立つ内容になっていると思う。

「尊師」は,われらが同時代人

小谷敏(1997)「「尊師」は,われらが同時代人」『季刊社会学部論集』 15(4), 41-80, 鹿児島国際大学

http://ci.nii.ac.jp/naid/110004646068

PDFあり

 副題は、麻原彰晃と70年代の青春 となっている。

 オウム真理教のこととかサリン事件のことは、ほとんどの人が知っているが、あの頃の麻原彰晃がどんな人だったのかとかオウムがどんな活動をしていたのかはかなり風化してしまったのではないだろうか。20代にはピンと来ないだろうし、メディアですらサリン事件のことを調べないと出ないようになったんじゃないだろうか。

 サリン事件からオウム真理教が逮捕するまでの流れは、1995年からだが、私はちょうど大学生だった。ポアすると言う言葉が流行ったし、「私はやってない潔白だ~」と麻原彰晃がパフォーマンスしていた。街角には、変わった象の帽子をかぶった信者が麻原に投票するように選挙活動もしていた。その後、惨敗し、そしてその後にサリン事件、サティアンの捜索と続いていくわけだが…すでにあの頃は遠い昔のように忘れ去られている。

 この論文は、ちょうどその頃の時代の雰囲気を切り取った内容となっている。よく練られた構成で、語りもしっかりしている。だからこそ、これをそっくり読むと、なんだか納得させられるような気持ちになる。今の日本では民主主義が根付いていないとか70年代以降の若者はこらえ性がないとかナルシズムとかメディア漬けだとか…若者論、今の若い者は…という言説が上手く構成され配備されており、うっかり説得されそうになる。それだけ面白いことには変わりはないのだが、あくまでもそれはそういう「一面」もあるかもしれないという保留をしながら読む必要がある。

 今でこそ死語になりつつある、モラトリアム人間とかそうした大人になりたくない青年というキーワードを軸に麻原の生い立ちを重ね合わせてなぜ教壇がテロリストになっていったのかを上手く書いた内容となっている。もともと麻原が7人兄弟の貧しい畳み職人の中で育ったこととか、トラウマとか。そしてそれとその時代の雰囲気を重ね合わせていくその論述はかなり面白い。

 40ページあるが、じっくりとあの頃を思い出しながら読むといいと思う。若者論とはこういう内容なのねと言うこともよく分かると思う。

 その後の日本は、どうなんだろうか。現実はいつの時代も厳しい。それと向き合い、受容し、今を生きる。そうするしか人は大人になれないのかもしれない。大人とは何か。それを求めるのも若者論の命題なのかもしれない。

文学としてのマンガとか

山田利博

http://ci.nii.ac.jp/nrid/9000002309454

全てPDFあり

 この人、もともと竹取物語とか源氏物語の研究者なんだけれど、大学紀要の編集者から大学生が紀要を読まなくなって久しく、それはあまり望ましいことではない。なので、大学生でも興味を持って読めるなような題材を論文で取り上げてほしいという要望に応えて、マンガの『犬夜叉』を取り上げている。この先生、セーラームーンとかサクラ大戦とか、ああ女神様とか…それで、この人どんだけフリーダムなのよと調べてみたら、2012年現在で52才くらいの国立大(宮崎大学)の教授。でもって、早稲田大学の文学博士を取得している人だった。源氏物語の解説本とか論文も割と精力的に欠いている人だった。でも、この先生、かなり頭が柔軟というか…例えばサクラ大戦の論考で、あらゆるサクラ大戦に関する資料を集め、ゲームをクリアし、関連グッズを集めている。で、思わず噴いたのが、以下の引用

「サクラ大戦」には万歩計ポケット・サクラも存在し、さくらと一緒に、「サクラ大戦」ゆかりの地をたずね歩くというこの万歩計も、やはり世界の重層化を企図したものと言えよう。現に、現在は宮崎に在住している稿者、これを着けて懐かしい故郷・東京のあちこちを巡り歩くのは、ほのぼのとしたものがあった。

 52才になる学者がポケット・サクラを腰に着けて、サクラ大戦の地を歩くためにひたすら歩いているのを想像してしまった。ちなみにまだアマゾンでも売っていた。

 論文の形態は、そうした現代のマンガやゲームの中に潜む古典的な要素、あるいは引用について取り上げて、制作者たちはそうした無意識・意識問わず影響を受けていることとか素養があると言ったことを論評している。

 とにかく、セーラームーンとか犬夜叉の筋書きまで真面目に書いているので、連続して読んでいると頭が痛くなってしまった。特にサクラ大戦の筋書きがまたすごい。ついて行けない世界。

 これで大学生が紀要を面白がって読むかどうか…はっきり言って、それはごく一部なんじゃないだろうか。とはいえ、引用が世界を織り、文学は世界(織物)が重層化したものであるとする論者の意見だけはよく分かった。

ポケット・サクラ(上が万歩計のみ、下がGBと万歩計)

http://www.amazon.co.jp/MPG-002%EF%BC%88SK%EF%BC%89-%E3%83%9D%E3%82%B1%E3%83%83%E3%83%88%E3%82%B5%E3%82%AF%E3%83%A9/dp/B005XF5K3Y

http://www.amazon.co.jp/%E3%83%A1%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%AF%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%BC-%E3%82%B5%E3%82%AF%E3%83%A9%E5%A4%A7%E6%88%A6GB-%E3%83%9D%E3%82%B1%E3%83%83%E3%83%88%E3%82%B5%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%91%E3%83%83%E3%82%AF/dp/B0000645NB/ref=pd_sim_sbs_t_1


2012年の介護保険制度改正に向けての論点

吉田初恵(2011)「2012年の介護保険制度改正に向けての論点」『関西福祉科学大学紀要』15, 27-36

http://ci.nii.ac.jp/naid/110008754738

PDFあり

 要約に全て書かれており、端的に今回の改正のガイドラインを紹介した内容となっている。取り立てて斬新な分析もないし、論旨の核となるような思想も見たらない。それだけに今回の改正とは何かについて分かりやすく知ることのできる内容となっている。

 ただ制度設計の核となるのは、「ペイ・アズ・ユーゴーの原則」を採用していることについて割と丁寧に説明している。また今回の改正は地域包括ケアシステムにあることも詳しく説明している。地域包括ケアシステムはこの業界にいれば詳しく説明される箇所なので、省略するが、 ペイ・アズ・ユーゴーの原則はあまり聞き慣れない言葉なので若干の引用をしておこうと思う。

 ペイ・アズ・ユーゴーの原則とは、歳出増または歳出減を伴う施策の新たな導入・拡充を行う際に、原則として恒久的財源を確保するものとする考え方で、その財源(負担)を持って来なければ、サービスの拡充を認めないという原則である。新しいサービスを創設するときは、保険料を上げるか、消費税を上げるか、利用者負担をあげるかなどして財源を確保しなければならないと言うことである。

 これからはパイを大きくする場合は、根拠となる財源の議論も含めてどうするのかを具体的にしないと新しいサービスはしませんよと言うことであろう。思えば、宅老所が小規模多機能に吸収されたり、NPOが始めたニッチなサービスを保険としてどんどんと組み込んできたし、おまけに介護職員の給料のまかないまで保険に組み込んできた。そもそもの「保険」としてはもはや体を為していないという議論もある。今回の処遇改善交付金を利用者の負担としたのは、まさにペイ・アズ・ユーゴーの原則の応用技であり、試験的なものであると思う。

 いずれにしろ今回の改正について10ページ足らずでおおよその中身が分かるので、この業界にいて介護保険って分からないと思う人にもちょうど良い内容かと思う。分かりやすい高齢者の現状とかも載っているので、勉強中の人にもお勧めかな。相談職やケアマネ、地域包括の職員ならこの程度では物足りないかもしれないけれど…

プロフィール

kuma

Author:kuma
救護施設→知的障害児施設→通所介護施設(高齢者)と15年以上。これからも思考と体力で、働いていきます。

自分のサイトもあります。
kumaの学習ノート

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