ピアジェ遊戯論における遊びの根拠の一考察

猪田裕子(2004)「ピアジェ遊戯論における遊びの根拠の一考察」『教育学科研究年報』30, 41-50,関西学院大学

http://ci.nii.ac.jp/naid/110002963109

PDFあり

 遊びを幼児期の心理的発達を知る上で、ピアジェやフロイトなどが挙げられる。この論文は、ピアジェがどのように遊びを捉え、そしてその延長線上にどのような発達の道筋を見ようとしていたのかを概説している。この論文では特に、幼児教育における「遊び」のとらえ方と、大人の関わり方や、教育における遊びとは何かに焦点を当てて考察している。

 日本における保育は、どちらかといえば「子供の集団がいかに教育者によって上手く導かれ、滞りなく保育時間を過ごすことが出来るかに、視点が注がれている」(P.48)とされる。本来的に保育は、子供の自発性や創造性をはぐくむために遊びが教育目的に用いられている。この自発性はどうして子供にとって必要なことなのかをピアジェの発達心理学のあり方を参考にまとめている。なぜ自発性が大事なのかは、自発性がないと内的な秩序が形成されず、「いかに学びそれを自己の内に構成していくかと言う視点」(P.48)が育たないからである。とはいえ、子供が外からの助けなしでは、自発性を身につけるのは非常に難しく、「自発的行動を引き出すことは大人にとっても非常に難しい」(P.47)からであるとする。

 この論文は、その意味で、遊びという名の教育のあり方を論じている。間違っても本来的な遊びとは違う。しかし、その線引き(本来の遊びと教育的遊び)がしっかりしているため、読み手にはすんなりと入っていくことになる。ついつい、遊びを教育の道具にしてと反感を抱きそうな物だし、本来の遊びを追求することが大事ではないかと思わないでもない。しかし、保育者は、良き遊びを提供してその子供達の自発性や創造性をはぐくむことが幼稚園教育要綱や保育所指針でうたわれている以上、その枠組みで遊びをよく知っておくことが大事である。その意味でこの論文は、これはこれで保育者が遊びを提供するときの良い指針になると思われる。


スポンサーサイト

子どもが「遊ぶ」経験を問う

横井紘子(2006)「子供が「遊ぶ」経験を問う」『幼児の教育』105(8), 50-57

http://ci.nii.ac.jp/naid/120001935615

PDFあり

 これは論文と言うよりも、随想に似た文章。作者は、遊びを現象学的に捉えようとしており、形式的な遊びの定型化から「遊ばれている」体験の内実に迫ろうとしている。幼稚園教育では、遊びは中核的なカリキュラムであるが、「望ましい遊び」と「望ましくない遊び」に分けて考えられること。このことについて、

 子供の心身発達の基礎となる重要な経験(大人にとって教育的価値が付与され、重要であると見なされる経験)としての「遊び」が価値づけられ、その教育的な意義が認められる。

 しかし、遊びの経験そのものを考えたとき、それが「望ましい」のか「望ましくないのか」と価値づけられるのであろうか。その判断は遊んで「いる」当事者達にとって必要なのであろうか。

 そのことについて大人である保育者は、遊びを知るための態度として、子供の「遊ぶ」世界にお邪魔して、子供が経験している世界を共有することから始められるべきではないだろうか。との視点でゆっくりと述べられている。この作者の今後の研究の意気込みなども伺える。論文の背後にある思いを読める良い文章である。


現代における保育者の専門性に関する一考察

草信和世・諏訪きぬ(2009)「現代における保育者の専門性に関する一考察」『保育学研究』 47(2), 186-195

http://ci.nii.ac.jp/naid/110007522911

PDFあり

 保育の専門家とは何かについての論究で、特に身体知や暗黙知についての考察となっている。専門家のモデルとして、ショーンの反省的実践家が有名であるが、それよりも保育者は身体を子供との相互作用の中でつねに直接接しているのでむしろタクトを振ることが重要ではないかと論じている。例えば、

保育者は実践において即座に自らの行為を反省することが困難なほど子供との相互的な行為の直接性を生きているので、保育者の実践においては、「行為における反省」よりも「タクト豊かな」振る舞いがより重要な位置を占めるのではないだろうか

 と述べ、保育者の専門性を保育行為の只中の振る舞いに見いだしている。その他、省察は保育の実践の中で修練されていくことだという津守先生の説も言及している。

 研究方法は、VTRの観察、参与観察で、集団性に着目している。その中で、保育者の身体知に関する五つの視点での考察をしている。こうした観察などは、現象学的視点~認識の文脈的解釈について書かれていることが多いような気がする。とにかく身体知の五つの視点とは、

  1. 言葉のリズムで響き合う
  2. 身体の向きで響き合う
  3. 身体の形で響き合う
  4. 身体の動きとリズムで響き合う
  5. 身体の動きとリズムで響き合いを拡げる

 とされている。この枠組みで、VTRを見ながら、また関わりながら事例を当てはめて論じている。

保育者は主体である子供のヴァイブレーションを客体として感知し、そのヴァイブレーションを自らを響き合わせることで、共通の心理的基盤を構築することを可能とし、その行為を通して、彼らの求めに満たしうることが明らかになった。この響き合いは身体によって行われ、身体によって知られる。従って、響き合いの有り様や方法は、保育士に、身体知として成立している。

 若干大げさかと思うし、そこまで論考がついていたかと言えば、どうかと思うけれど、美しい所なので引用しておく。

響き合う保育行為を通して「生命」そのものを現出させる「リズム」の形成者であるように思われる。特に集団化された響き合いは「生命そのもの」を豊かに創出し、子供の「生きる力」を乳幼児期から培うものとして、価値を持つものであるといえよう。

 読みやすく、しかも考えさせられる内容。以前に述べた保育の専門性とは違った視点での論考。たぶん、専門性と言うよりも「専門職性」の部類の内容である。

 その後、精力的に継続研究をしていたので、下にあげておく。(2)(3)http://ci.nii.ac.jp/nrid/9000006975697

遊びの質を高めるための保育者の援助に関する研究

中坪史典・上松由美子ほか(2009)「遊びの質を高めるための保育者の援助に関する研究」『学部・附属学校共同研究紀要』38, 105-110, 広島大学学部・附属学校共同研究機構

http://ci.nii.ac.jp/naid/120002243815

PDFあり

 保育では遊びは重要であるが、その意味について端的に書かれている。

 幼児期の遊びは、学びの手段ではなく、むしろ目的であり、個々の幼児は、遊びの中で主体的な力を発揮し、能動的に対象と関わることで、外界への好奇心や探求心を育てたり、物事を思考したり、想像力を発揮したりしながら、知識を蓄えるための基礎を培う。従って、幼稚園教育の重要な役割の1つは、幼児の遊びの質を高めることと言えるのではないだろうか。

 こうした視点に立って、子供が夢中になって遊ぶことが大事であり、夢中になるにはどのような保育者の促しや夢中の理解が必要である。子供と遊んだり、子供が遊んでいる光景を観察することで、その夢中度を測ったり、考察しようと言うもの。

 研究の流れは、ビデオ・フィールドワーク→エピソード抽出→保育カンファレンスである。一人の児童を中心に、その子がどのように集団とか保育者と関わり、遊んでいるのかを考察している。

 内容はかなりじっくりと書かれており、ページ数はたった5ページ程度であるがかなりボリュームがあるような感じを受ける。それだけ中身の濃い内容である。考察がやや独善的に映ったり、こねくっているような所もあるが、たった一人の子供をケースにここまで見て、考えることが出来るのかと思える内容である。写真などもあり読み物としては飽きない内容となっている。

知的障害児の日常生活スキルの形成と長期的維持

五十嵐勝義・武蔵博文(2005)「知的障害児の日常生活スキルの形成と長期的維持」『富山大学教育学部研究論集』8, 31-42

http://ci.nii.ac.jp/naid/110004598159

PDFあり

 国立大学教育学部の修士論文を手直し修正した内容。要約にこの論文の言わんとしていることが全て述べられている。

 簡単に言うと、養護学校での日常生活に関わるスキルを学んでも、家庭で使えない場合が多いし、使えても、長期的に身に付かないケースがある。そこで、家庭での様子や独自のやり方などを取り込んで、適したスキルの習得を教育していったら一年間はそのスキルが維持されたことが確認されたとされる。

 教室で教える以上は、仕方のないことかもしれないが、一般化するためには家庭環境の中に阻害要因を見つけるという視点を取るのはどうか。むしろ相互における構造ややり方の違い程度に捉えておけばいいのではないか。もっとも、この論文では、だから家庭環境の変容を強制したり、家庭を下位と見るのではなく、教育でのスキル習得と家庭の相互作用の中で捉えているところに独自性があるといえる。それだけ教育は教育という枠組みで研究されている傾向が強いということか。

 さすが修士論文と言うべきかか、日常生活スキル獲得のための教育の流れがモデルとして提示され、その効果をしっかりと記録されている。この通りに行えば、1つのツール(方法)として行える丁寧さである。今回は、洗濯、食器洗いの二つについて、それぞれ2名ずつのサンプルとして提示されている。そのモデルは大まかに、課題分析→ベースライン測定→集中指導→フォローアップ評価→考察である。内容も明確で妥当なもののように思える。

 ただ、紙幅の制限があるのか、最後の考察は自画自賛というか予定調和のようにこのツールの良さを強調しすぎている嫌いがあるように思えた。

 とはいえ、知的好奇心を刺激する内容で、ツールの提示のために圧縮したと思われるので、その膨大な資料の提示と、さらなる測定の汎用化など改良の余地があるが、もし汎用化されるのならば、1つの教育方法として確立するのではないかと思われた。


「保育」の専門性

小川博久(2011)「「保育」の専門性」『保育学研究』49(1),100-110

http://ci.nii.ac.jp/naid/110008712057

PDFあり

 福祉とは、介護福祉士とかヘルパーを想起するし、少し詳しいと、ケアマネとか社会福祉士を挙げる人がいる。その中で、専門職とは何かと言われれば、多数は介護福祉士の名を挙げるし、福祉系養成校は社会福祉士と答えることが多い。現場では、ケアマネも挙げるだろう。いずれにしろ保育もまた福祉業界の一部であることがあんまり思われない傾向にある。しかし、国家資格としては社会福祉士と介護福祉士、精神保健福祉士と「士」があるが、それ以上保育「士」が多数存在する。この事実を案外知らない場合が多い。

 昔から、保育士とは幼稚園や保育所に勤務していることから固有の職業として認知はされてきている。しかし、ここ最近は、本来、保育ママやベビーシッター、子育て支援など「保育」の専門性を必要とする仕事がある。にもかかわらず、こうした職業では必ずしも「保育士」である必要のない人にも門戸が開かれている。それは、「専門職としての保育」が多様化し、曖昧になってしまうことに対する危機感が論じられている。

 その後、専門職としての成立要件とかプロフェッション(メジャーな専門職)とセミプロフェッション(マイナーな専門職)については、以前に論じたもの(石橋潔(2006)「専門職化によって形成される専門領域と非専門領域」を参照のこと。

 この論文のエッセンスは、

 「保育者」の専門性は、近代社会のシステムの分節化と共に誕生したものであるが、この専門性を生きた問題解決として確立するには、近代の学問の合理主義、実証主義的思考を越えて、現代社会に生きる大人達の中で幼児の実態を把握し、その発達を保証するために既成の諸学問の分節化された枠組みを相対化し、今、幼児が大人達とどういう関わりの中で明らかにし、大人-幼児関係の新たな組み替えを構想し、多面的関係を回復する手だてを構築しなければならない。そして、その上で、自らの実践を対象化、エスノグラフィーの手法で記録化し、省察し、次の実践の修正に役立ていることである。

 この論点に対して、いくつかの疑問がある。子供の世界を異文化としてエスノグラフィーとして描けるのかどうか。確かに、子供にはその時期の独特の世界はある。しかし、「保育」の延長線上に来るべき「教育」があり、その教育の帰結として社会成員としての生産などに従事する「大人」になるという連続性がある。保育学として成立することを念頭に置いた場合、「保育」は来るべき「大人」としての一時期であるに過ぎないのではないか。よって独自の大人と子どもの関係性・独自性を描くことに無理があるのではないか。

 もう一つが、近代の専門職成立の基盤は未だ揺らいではいないこと。やはり、効果が測定できず、実証されないものは専門性を確立できない。また、今のポジションよりも低い職業へと落とし込む(例えば、保育補助など)ものがないと、専門職の地位は得られない。これは、保育以外の社会福祉分野でも同様である。医師が看護師を生み出し、看護師が看護助手や介護員を生み出したように。この視点に立つと、もし専門職として確立するならば、シビアに、下部の職業を創設し、そうした人たちに専門的ではないとされる仕事を押しつけ、裾野を広げ、今の保育士取得者の数を限定しピラミッドを作ることであると思う。

 とまぁ、そんなことを思いつつ、保育にしては珍しく、専門職とは何かを広く取り上げているので、保育者の皆さんには考えるだけの価値がある内容だと思う。

『山海経』研究上の一課題

伊藤清司(1985)「『山海経』研究上の一課題」史学 55(1), 1-17慶応義塾大学

http://ci.nii.ac.jp/naid/110007410464

PDFあり

 山海経が一人の手によって書かれたものではなく、その時代時代に書き加えられてきたものであるとする研究者の概ねの見解に、その根拠は何かを論じている。古くは、『史記』にも出てくる山海経であるが、その後の巻数が増えたり減ったりしている。それは整理したものであるとか、書き加えられたものであると、この論文では、時代毎に整理している。特に最後の方では、論者はそれぞれに時代に累積されてきたものである。だから、山海経は、一元的に同定しようとしている事に対して、異議を申し立てている。例えば、

『山海経』の本質を論じるにあたって、あるものは地理誌ないしは物産誌として、あるものは古代神話伝承の書とし、またあるものは古代の旅行指南書、あるいは祭法の書、はては語怪の書や寓言集などと結論づけているのは、現行本の『山海経』の中で、研究者が最も強く印象づけられた要素から導き出した演繹的な解釈であるものが多い。さもなければ、この書に認められるあらゆる主要な要素を網羅し、「古代神話・故事・巫術・地理・博物観念の一大結集」などとする傾向が強い。

 けれども、時代背景が違うし、その意図も違うことから、1つ1つの著(経)に対しての性格付けをしっかりと行うことが必要であること。その上で、時系列の視点で考究される必要があることを提示している。

 よっぽど山海経について興味がないと面白くない論文であるが、よく整理されていると思う。


香山リカ『プチナショナリズム症候群-若者達のニッポン主義-』

野崎孝弘(2008)「香山リカ『プチナショナリズム症候群-若者達のニッポン主義-』」『貿易風 : 中部大学国際関係学部論集』3, 304-308

http://ci.nii.ac.jp/naid/110007025372

PDFあり

 無邪気に「ニッポン大好き」とはしゃぐ若者に対して、香山リカがその心情が『日本は特別な国である』という思い込みと深く関わっていること。このことについて、引用が長くなるが、

日本代表チームを応援するためだけに「日の丸」を振る新しい世代の感覚が、『これは戦争だ、日本の誇りを賭けてがんばれ』と「日の丸」を振る旧世代の感覚と統合、回収され、フランスばりのラディカルなナショナリズムが姿を見せる前に、何らかの手を打たねばならないと。この回収が自然に進みつつあることに、政治権力の獲得や権力基盤の強化をねらう政治勢力によって人為的になされる可能性があることに、彼女は危機感を抱いている。

 とされている。簡単に言って、右に偏ることに対して、危機感が無くまた言論人も警鐘を鳴らすことがあまり無いことを指摘している内容である。また、この熱狂的で歴史性がないナショナリズムは、目の前の現実、格差、生活困難性などを一瞬忘れさせるが現実に目がいった場合、このナショナリズムは排他的なものとなって顕れること。その排他性は、エリート階層でも底辺階層でも顕れ、その溝は深まっていくことを明らかにしている。その後、こうしたプチナショナリズムを廃して、デモクラシーとしてどう対抗していくかを簡単に説明している。

 ナショナリズムは必要であると思う。しかし、このナショナリズムが時に、他の国や人種を排他的にさせる作用がある危険性を大きく含んでいることは歴史が証明している。必要なのは、これまでの歴史とセットになったナショナリズムであると思う。ところで、香山リカの論文のほとんどは医中誌だけれども、いくつかはPDFで読むことができる。

 正直、香山リカはあんまり好きじゃないんだけれども、まぁ、サブカル的には暇つぶしになるといえる。

 PDF:香山リカで検索

http://ci.nii.ac.jp/search?q=%E9%A6%99%E5%B1%B1%E3%83%AA%E3%82%AB&range=2&count=20&sortorder=1&type=0

幼児理解のプロセス

岡田たつみ・中坪史典(2008)「幼児理解のプロセス」『保育学研究』46(2),169-178

http://ci.nii.ac.jp/naid/110007029706

PDFあり

 子供を保育の中で理解することについて、冒頭で既に結論が出ているので、それを引用しておく。

 保育者にとっての幼児理解は保育行為の中で積み上げられる私の中の〈その子〉を理解することであり、〈その子〉との関わりと通して得られた情報と、それまでの〈その子〉についての私の理解度を照らし合わせることで、その時点までの〈その子〉の理解を修正し、新しい〈その子〉の理解を構成しながら、次の関わりへと移行する行為のことである。従って、幼児理解とは常に暫定的であり、私の〈その子〉との関わりを通して、再構成し続けるものである。

 調査方法は、半構造化面接などの客観性の担保を取らず、直接参与による観察~オート・エスノグラフィーを取り、同僚の保育記録と自分の記録をつきあわせるときは、M-GTAの手法でカテゴライズしている。つまり、自身の保育記録をネタに、M-GTAで質的研究しましたよということになる。

 じっくり読める内容になっており、結論も、子供と一保育者だけではなく、保育者同士もまた思いを共有し、連結したり変化したりと支え合っていることを明らかにしている。言い換えると、同僚の保育の視点が記録に記載され、それを自身が読むことで、参考にしつつ、それを応用させたり、変化させたり。その逆も然りであると。

 ただ自分の保育記録を持って、オート・エスノグラフィーとするのはどうか。確かに、民俗学でいうところの直接参与と記録という意味ではそうかもしれないけれど、エスノグラフィーとは、自分のフィールドにない異文化を記述する手法のイメージが強く、論者はその手の専門職として長年働いているか、そのフィールドに身を置いていることから、エスノグラフィーと言って良いかどうか。また、同僚の保育記録との比較をしているが、論理の誘導に自分の記録が予定調和として使われているんじゃないかとか。そうした危うさを抱えながらも、まずは妥当な結論だったと思う。
 この保育学研究は非常に読みやすいし、保育では質の良い内容を揃えている。もし興味がある人は是非、ここの目録から読むことをオススメする。

保育学研究(出版年をクリックすると論題がずらりと出る:すべてPDFで落とせる)http://ci.nii.ac.jp/vol_issue/nels/AN10378027_ja.html

『山海経』と木簡

桐本東太(2001)「『山海経』と木簡」『史学』70(2), 287-292, 慶應義塾大学

http://ci.nii.ac.jp/naid/110007410896

PDFあり

 副題は、下ノ西遺跡出土の絵画板をめぐって となっている。

 新潟県の遺跡から出土した木簡に、縄状の物が巻かれた立木と首と手を縛られた人物、そして目鼻のある奇妙な生き物らしきものが配置された不思議な図柄が描かれていた。この図柄の解釈は様々あるけれど、山海経に出てくる蛇身人面とそれにちなんだ神話的な図柄と酷似しているという推論で展開している。

 山海経が日本に伝来してきたのは、奈良時代まで遡るとされる証拠を示し、新潟から出土した木簡も山海経のモチーフを模した物であると論理を展開している。そして、山海経で蛇身人面は不老不死の神獣であったことから、この木簡も不老不死を願ったものであるのではないかと憶説している。

 少し図表もあり、また読みやすい内容である。また蛇身人面の物語も原文を載せつつも解説していたりして、想像力をかき立てられる内容になっている。

障害者自立支援法による福祉実践の専門性の解体

植田章(2008)「障害者自立支援法による福祉実践の専門性の解体」『社会福祉学部論集 』4, 1-17,佛教大学

http://ci.nii.ac.jp/naid/110007975008

PDFあり

 副題は、知的障害者入所更生施設における業務調査から となっている。

 この先生は、結構精力的に障害者自立支援法や障害者について論文を発表している人。でもってそれなりにしっかりと論考をするので読み応えがある。時々論文作成でも使わせてもらっている先生だったりする。でもって、障害者自立支援法に対しては批判的だし、いろんな角度で論考をする。学会には精力的に参加しているし、社会福祉労働としては唯一の研究機関、総合社会福祉研究の理事さんでもある。

 この論文は、障害者自立支援法について分かりやすくスッキリと概説しながら、その問題点や様々な言説を編み込みながら、その事例として知的障害者更生施設の業務実態からいかに職員が専門性を持って取り組んでいるのかを明らかにしている。その上で、そうした目に見えない専門的な取り組みがいかに障害者自立支援法では認められていないかをあぶり出している。

 とくに業務調査では、些細な排泄援助や散歩の光景を取り上げて、いかに利用者のことを考えながら援助者は支援をしているのかを丁寧に読み解いている。近いところでは、「子どもたちの「生」を支える児童養護施設職員の専門性」とかもそうか。事例研究をする際にも参考になる構造となっている。

岡本晴美(2006)「子どもたちの「生」を支える児童養護施設職員の専門性」『総合社会福祉研究』 (28), 56-65

http://ci.nii.ac.jp/naid/40007225266

PDFなし

植田先生の佛教大学での論文:すべてPDFで落とせる

http://ci.nii.ac.jp/nrid/9000006593910

介護保険の10年

佐藤卓利(2010)「介護保険の10年」『立命館經濟學』 59(3), 281-292

http://ci.nii.ac.jp/naid/110008438926

PDFあり

 題名の通り、介護保険ができて10年。その歴史と概要について非常に分かりやすく書いている。介護業界にいると、ケアマネとか相談業務など実際に保険業務に関わっている人以外は案外、制度のことに無頓着だったりする。またケアマネでも、在宅と施設ケアマネでは視点も違い、通所の相談員は通所のことは詳しいが、ヘルパーの点数とか加算とか運用とか分からなかったりする。端的に、各論は強いが、総論が弱いと言うことだろうか。また介護保険制度ができてからこの業界に入ってきた人ってかなりの割合になるかと思う。その意味で、その前制度、措置制度って何?と思っている人って結構いるかと思う。

 ところで、「分かりやすい介護保険制度」とかだと、まるまる一冊読んだりしないといけない場合もある。この論文は実質11ページ。措置時代から介護保険に変わったこと。その後の事業の展開と、コムスン問題や倒産、そして今後について無駄肉無く素描している。中には、コムスン問題って何?って思っている人もいるかもしれない。

 私も実は介護業界に入ってまだ2年目。それまで障害者分野に長くいたし、どちらかといえば介護とか高齢者は苦手と勝手に思って、この業界に入ってあまり高齢者関連の論文とか読んでいなかった。この論文は、そういう意味で基本的なことをしっかりと押さえてあるので、下手な解説本よりもずっと理解できる内容となっている。ちなみに職場の介護員の友人に読んでもらったら面白かったとのこと。

 ぜひオススメの内容である。

「『遊び』それ自体」の発達についての一考察

横井紘子(2007)『「『遊び』それ自体」の発達についての一考察』『保育学研究』45(1),12-22

http://ci.nii.ac.jp/naid/110006366775

PDFあり

 遊びがそれまで実証的に捉えられることや体系づけられることによって科学化されてきた歴史がある。しかし、本質的に遊びとは、遊び手の中にあり、遊びという行為の中にしか遊びは存在しないとする視点が欠如しがちであった。そこで、遊びとは何かという主観的な体験を考察する分野に現象学がある。現象学とは、間主観的な現実把握を表現する学問として優れているからである。

 ここでは西村清和を中心に、ときおり美学者のガタマーを援用しながら遊びについてを素描する。現在、私も西村清和の『遊びの現象学』勁草書房を手がかりに研究を進めているので、論者のまとめ方は非常に参考になっている。以前に取り上げた、横井紘子(2006)「保育における「遊び」の捉えについての一考察」『保育学研究』44(2), 189-199, 日本保育学会 http://ci.nii.ac.jp/naid/110006197722 PDFありでは、J.アンリオを対象に遊びの構造に迫っており、今回は、より遊び手と遊び手の間にある遊びの体験に迫った良い内容である。

 後半、事例を元に論者が思考を展開しているが、遊びとは、主観的なものであるが、人や自然という応じる関係があって初めて成り立つものである。確かによく遊んだと実感するものを与えるものは、その主観を価値づける遊びというメタである。よって、遊びは遊び手の間にありながら、遊びとして成立させる「価値」であるといえる。

 ちなみに保育学研究は、保育関係では査読のあるもっともしっかりした学会である。また、精力的に研究をしている先生らしく、ここ最近毎年論文を発表しており、しかもPDFで全て読める。保育で子どもと遊ぶとは何かを考える上ではとても参考になる人だと思う。

横井紘子

http://ci.nii.ac.jp/author?q=%E6%A8%AA%E4%BA%95+%E7%B4%98%E5%AD%90

東浩紀の再帰的物語

今枝法之(2006)「東浩紀の再帰的物語」『松山大学論集』18(2), 163-184

http://ci.nii.ac.jp/naid/110006244418

PDFあり

 副題は、動物化するポストモダンと自由について、となっている。

 いわゆる東浩紀のオタク文化を介したポストモダン論に対する批評である。ポストモダンとは大いなる物語~イデオロギーで民衆をコントロールする時代が終わり、個別化と多様性が際だった世界になった。イデオロギーなどの価値観は絶対性を失い、相対的になり、曖昧になり効力を発揮することはなくなった。人々は閉塞的で変わらない世界の中を浮遊して生きている。しかし、イデオロギーの終焉は、個々人が個々人を監視する社会を生み出し、生きていることを管理する見えない権力~生権力が効力を発揮している。そうした、生権力の構造を暴き、人々はどう権力に対抗するべきなのかあるいは、そうした社会の中で生きるとは何かを論じる思想の一群である。

 それがオタク文化と道関係あるのかと言えば、メインのカルチャーと比べオタク文化はサブカルチャーであり、傍流である。この傍流であるという位置づけの中に、メインの文脈を変容させ、より自由に、あるいは、メインの文脈に隠された本質を逆に照射することをねらいとしている。つまり、メインから攻めていっても、メインとは何かを見ることは出来ないが、それから外れたもの~傍流を解釈することで、メインの本質を『観る』ことができるのである。

 東浩紀のサブカルチャーの解釈やそれを耽溺する人々のパーソナリティや価値観の描写は割愛する。この論文では、東浩紀の著書3冊をじっくりと解説しているので、それを参考にすればほぼ内容を理解することができる。それだけ整理され、良くまとめていると思う。私が、共感したのは、その後の論者による批評である。近代化は終わったのかというのが私も共有する問題意識である。確かに、社会主義は崩壊し、グローバリズムが幅を利かせてはいる。個人の嗜好も思想も人それぞれであり、昔ほど社会統制が取れているとも思わない。しかし、人々が共感することや共通意識とか、社会における労働のあり方とかは、個々人の価値観では抗しきれない大きな流れがあるのではないか。大きな物語も修正されながら、再帰的に人々に影響を与えているとする論者の問いはその通りであるといえる。

精神障害当事者と支援者との障害施設における対等性についての研究

三野宏治(2011)「精神障害当事者と支援者との障害施設における対等性についての研究」『立命館人間科学研究』22, 7-18

http://ci.nii.ac.jp/naid/110008089495

PDFあり

 いわゆる立命館で推し進められている「生存学」の研究蓄積をベースにして、当事者と支援者双方の対等性という意味についてのインタビュー調査である。この論文は、180人の参加者と11ヶ月という調査としては長い期間を経て作成されたモノであり、それだけで良くまとめ上げた内容であるといえる。ただ、従来言われているような社会福祉学が論じる「対等性」とは一線を画しており、それは生存学がどちらかといえば障害学から発展していった学問体系に依拠しているからといえる。障害学は、どちらかといえば、当事者主権や非専門家あるいは専門家不要説の立場を取るため、どうしても専門家が唱える対等性に対しては批判的な立場、それもかなり急進的な立場を取る。

 この論文は、やはりどちらかといえば当事者に寄り添う形で支援者に自省を促すような内容となっているが、それでも対等性について多角的に論じていて非常に勉強になった。特に、日本PSWの倫理綱領の発端になった1973年に起きた「Y問題」は門外には耳にしたことのないことであるが、PSWの倫理綱領を語る上では欠かせない原問題であることなどである。また、例えば、病状が悪化して隣人に暴力をふるって、強制入院をして、5年間病院に拘束されたが、これは当然のことなのか不当なのかどうか。当事者は、しょうがないと思っていたが、話し合っていく内に、それは不正義ではないかという疑問に変わっていくこと。しかし、読み手の私としては、じゃぁ、どうするのかと。刑事罰に問えないとしても、5年間の入院は罰せられた結果ではないと思っても、じゃぁ、病状が悪化したまま、そのまま自宅にいることはいいことなのか。結果として、入院して、服薬調整をして、今この場で発言できるのは、治療のおかげではないか。それを一義的に、同意をしないままに5年間入院によって身体を拘束されたのは不当だというのはどうかと思った。

 いずれにしろ、対等性というコンセプトは、「それは本当に対等なのか」という問いかけをする機能があり、対等性を語る文脈は、1.専門家、2.当事者、3.専門家と当事者の関係性という3つの視点で考慮されるべき事であるとする結論は大いに首肯する。

子どもの豊かな育ちと就学前教育

原子純(2011)「子どもの豊かな育ちと就学前教育」『共栄学園短期大学研究紀要』27, 145-165, 2011

http://ci.nii.ac.jp/naid/110008426924

PDFあり

 副題は、小学校教育との連続性を視点として、となっている。

 最新の幼稚園教育要領や保育所指針に目配せをしながら、いま就学前教育ではどのように子どもに教育をすればよいのかを論じている。問題意識として、就学前教育は大きく変わってきているが、小学校教育の指針とか方針があまり変わっていない事のギャップがいま問題になっているとする。

 中でも「小1問題」という言葉があるそうで、学級崩壊とか子どもが上手く順応しないとか、主体性を持って取り組まないと行った授業運営の困難さがあるとされている。論者は、それは少子化によって集団で遊ぶとか自然体験が不足しがちであり、自己の欲求と他者の気持ちを推し量りながら折り合いをつける体験の不足であると指摘している。その上で、この小1問題は

学級崩壊と言うよりも、集団としてまとまらない状態、集団を意識できない未成熟な状態といえる。子ども同士で学び会う経験が不足する中で、小学校に入学すると35人近い子供たちが一つの教室で学習するのである。様々な問題が起こっても当然であり、小学校と幼稚園・保育所が連携し、集団の中で人間関係を学ぶ経験や人の気持ちを推し量る経験を重視し取り組んでいく必要がある。

 と指摘している。その後は、ここ最近の幼稚園と保育所の一元化の議論など行政の流れとか教育スタイルについての概説をしながら、小学校と就学前教育のあるべき論、そして核になる、遊びをめぐる教師側の眼差しと望ましい取り組み方について提言している。

 読みやすく、またここ最近の動きを知る上では良くまとまった内容である。

プロフィール

kuma

Author:kuma
救護施設→知的障害児施設→通所介護施設(高齢者)と15年以上。これからも思考と体力で、働いていきます。

自分のサイトもあります。
kumaの学習ノート

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク