介護保険とソーシャルケアワーク

山田亮一(2011)「介護保険とソーシャルケアワーク」『高田短期大学紀要』29, 63-71

http://ci.nii.ac.jp/naid/110008151196

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 副題は自立を視点としてとなっている。

 題名だけを読むと、介護保険制度下のソーシャルワークの視点とは何かと言ったものを想起するが、内容はそうしたことを焦点化しているわけではない。どちらかといえば介護保険によって打ち出されているはずの「自立支援」という制度設計そのものが機能していないことを中心に論じられている。内容としては、社会福祉学部系の大学なら一度は習う、社会福祉学における自立の概念→障害者自立運動とかバイスティックの自己決定の尊重といったキーの復習となっているが、それだけにとどまらず、新自由主義における自立観が社会福祉分野に注入された事による相違が述べられている。

 簡単に言って、新自由主義の自立観は経済的合理的人間が理性を持って社会的に生きることを持って自立と為すため、従来考えられている社会福祉学の自立観とは全く相容れない。しかし、介護保険の制度設計がこの新自由主義の自立観を多分に含んでいるため、高齢者の自立はかなりハードルが高いものとなっている。そして、介護保険のキーはケアマネが握っているが、エンパワメントやソーシャルアクションを志向せずに、まさに制度の管理監督(マネジメント)であり、ソーシャルワークに馴染まない。論者も提案しているように、新自由主義、保険設計の自立支援とは別の生存権保障や発達権保障を軸にした社会福祉学で言うところの自立を核とした制度の創設が必要であるという主張には賛成する。


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介護労働者の労働条件をめぐる法的課題

瀧澤仁唱(2011)「介護労働者の労働条件をめぐる法的課題」『桃山法学』 (17), 29-58,桃山学院大学

http://ci.nii.ac.jp/naid/110008456821

PDFあり

 かなり批判的な論文。介護労働者の雇用に関する法律、条例、通知をつまびらかにして、その中にある欺瞞を暴いている。介護職の離職率が高いことは周知の通りであるが、その大きな要因が賃金の低さにある。その賃金の改善について行政や国はどの様に使用者に通知しているかを論じている。

 その結果、法律では、介護労働者の「雇用管理」の改善であって《雇用の改善》ではないこと。使用者は改善の「責務」があるとするが、「義務」よりも軽い言葉であり、文言の最後が「ものとする」と表現されるように、「しなければならない」とか「○○する」といった文言よりも弱い表現である。厚生労働大臣や知事の命令もかなり及び腰で控えめであること。改善交付金や助成金も事業者に入るものの労働者には全く入ることのない制度でありまったく改善する意志が感じられないこと。厚労省の通知も労働基準法を再読するような内容で、なんら介護労働者に特別に配慮するような内容であることを指摘している。

 この通知は使用者が労働者に対して周知徹底させておかないと行けない事項である。この事についてかなり痛烈に批判している。

 労使関係におけるごく当たり前のことをおおまじめに通知していることは、本来最低限の基準として守られなければならないものが労働行政によって守られてこなかった証明である。雇用管理の徹底を通知で是正するばかりではなく、この原因を厳密に分析して、それを打開するような労働政策を行ってこなければならなかった。そこにこの通知の問題点がある。

 その後規制緩和による競争についての批判を重ねている。いちいちもっともである。途中にある通知とか法律の列記は慣れない人にはやや面倒くさいかもしれないが、まとめから読んで、最初に戻るとすごく興味を持って読むことが出来ると思われる。


表象としての《夕暮れ》

堀家敬嗣(2009)「表象としての《夕暮れ》」『研究論叢. 第3部, 芸術・体育・教育・心理』 59, 303-318,山口大学教育学部

http://ci.nii.ac.jp/naid/120002104339

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 この論文は連作で計5作ある。以下紹介するのは、その内の一作目となっている。

 アイドル論として面白い内容。堀ちえみと伊藤つかさが近い時期に夕暮れをタイトルとしてシングルを出していることに着目し、アイドルにとって夕暮れを歌う意味について考察されている。それにとどまらず、アイドル産業の隆盛のメカニズムについても詳しく描かれている。

 最初に夕暮れの意味について、秋は夕暮れと歌った枕草子を引き合いに持ってくるあたりが面白い。結論を言うと、夕暮れという(アイドル)表象には、少女から大人への移ろうイメージ戦略と秋口にシングルを出していたという時期的なものを重ね合わせていたこと。そしてなぜ大人への移行を狙うのかという二人の登場から活動の背景を加味して解釈している。多面的な解釈で読んでいて面白い内容である。構成が良く、夕暮れという表象だけに焦点かするのではなく、その時期のアイドルの戦略を交えながら、それこそ緩やかに転調しながら最後には歌謡曲の意味について美しい箇所がある。

 歌謡曲とは、一つの楽曲を構成する詞と曲が不可逆的な時間の流れに沿って不可分の状態に融合した一体のものとしての音楽であり、その時聴き手には音楽の意味としか言いようのない何かが伝わっているはずである。あるいはむしろ、ここでは当の楽曲そのものが一つの時間の流れとして、これが聞かれる状況となって生きられる。

 それでもなお、歌謡曲は、これが拠って立つ時代の外部でも体験されうる。そうした時間の潮流に囲われる時には、ともすれば悪戯に郷愁を誘うだけの反動的な契機に終始するかもしれない歌謡曲は、けれどもひとたびその背景にある歴史的な文脈から離脱して体験されるだけならば、かつて生きられたそれとは全く異形の相貌を私達に見せることだろう。このような絶えず発見され、更新されるべき歌謡曲の魅力とは、いわば記号としての豊かさの内にある。そして歌謡曲が自らの出来事としての豊かさへと開くのもまた、この記号としての豊かさなのである。

 これは歌謡曲に限らずあらゆる芸術作品に見られることである。

認知症高齢者の帰宅要求に関する介護者の思い

平石淑恵・長野恵子(2008)「認知症高齢者の帰宅要求に関する介護者の思い」『西九州大学健康福祉学部紀要』38, 45-54

http://ci.nii.ac.jp/naid/110006993752

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 修士論文の一部をまとめたものとなっている。内容としては、3人の認知症高齢者にたいし、9名の介護員が介助しているなかでどの様に相手を思っているのかを分類したもの。調査方法は、予備調査を経て、半構造化面接でまとめている。

 介護者の思いをめぐる視点は5つあり、

  1. その認知症高齢者の世界に付き合いながら思いを抱く→相手のファンタジーに付き合い肯定も否定もしないこと。
  2. 現実の世界で思いを抱く→認知症であることを意識し、記憶の保持の程度などを勘案してつきあう。
  3. 自分に置き換えて思いを抱く→入所している状況などを自分に置き換えて相手を推測する。
  4. 相手の気持ちに立って思いを抱く→相手の寂しいとか不安などを推測して関わる。
  5. 自分の気持ちを抱く→相手との関わりでいらだちや困惑を抱く。

 その後、逐語録から数量化して、一番は5の自分の気持ちを表出していることが多いことが分かっている。その後、自分の気持ちと相手の気持ちに断った思いが表れるタイプ、自分の気持ちが強く表れるタイプ、現実の世界で思いを抱く気持ちが強いタイプ、5つの視点が偏在せずに現れるタイプに分類している。ともにタイプ別に図表化しており非常に分かりやすい内容となっている。なかでも相手の気持ちに立って思いを描くことは認知症と言うよりも一人の人間として捉えようとする共感的な姿勢であり重要視するべきである。いずれにしろ、この5つの視点で多面的に現実を見ることで自分自身の立ち位置を客観的に見ることが出来るとする考察をしている。

 この論文で取り扱っている5つの視点で現実を分析する視点は良く、まとめ方次第では例えば場面構成法の応用として使えるのではないかと思われる。


介護保険制度とモラルハザード

吉田初恵(2008)「介護保険制度とモラルハザード」『関西福祉科学大学紀要』11, 95-105

http://ci.nii.ac.jp/naid/110006594487

PDFあり

 この論文は介護保険が陥りやすいモラルハザード~保険用語で言う意味での~について詳しく述べられた非常に勉強になった論文である。

 保険用語で言うモラルハザードとは、保険というシステムに内在する機能的な問題であり、若干引用が長くなるが、

 例えば、自動車保険に加入すると保険に加入していない時よりも、保険に加入した安心感から事故に対する注意が幾分かでも希薄になることや、社会保障制度があることで病気や失業などの日常生活上のリスクを回避する意識が薄れることをモラルハザードという。これは、モラルがあるなしの問題ではなく、モラルがある人も、モラルがない人も、誰しもこの様な行動を取ってしまうことであり、機会主義的・合理的行動といえる。

 この様な視点から、意識の低下などから、結局は保険会社の保険金支払いなどの費用が増えるような行動という。保険機能には逆選択(ローリスクな人が保険加入をしない、脱落すること)やモラルハザードが常に内在していると言って良いと言われる。公的保険は更に、フリーライダーというモラルハザードがある。では、介護「保険」のシステムに内在するモラルハザードとは何か。大きく4つに分類されており、

  1. 被保険者(利用者、自律している被保険者)、介護者
  2. 介護サービス供給者(営利事業者)
  3. 介護サービス供給者(社会福祉法人の非営利事業者)
  4. 保険者(自治体)などについてそれぞれを考察している。

 その上で、2005年の改正が色々な特に1~3のモラルハザードを防止する強化策として行われたことを概説している。いちいち納得の内容であり、すごく納得させられた。その他、モラルハザード対策における介護保険が取りうる対策と無理な対策も妥当性がある。最後にまとめられている、一文はこの論文を良く表現している。

 2005年改正内容には、新予防給付の創設、ケアマネジメント業務の公正中立化、情報公開をはじめとして、介護保険制度に内在するモラルハザードがもたらす効率性の損失を減らす内容が盛り込まれている。しかし、介護保険制度のモラルハザードを抑制しようとすると、社会保障である介護保険制度に新たな公平性の問題が発生することが、今改正で現実のものになった。[…中略…]効率性と公平性というトレードオフの達成課題をいかに達成するかが、今後の介護保険制度の課題である。

 非常に勉強になった論文である。興味がある方は是非どうぞ。


人口減少社会における高齢者介護の需要

君島菜菜(2007)「人口減少社会における高齢者介護の需要」『大正大學研究紀要, 人間學部・文學部』 92, 300-289

http://ci.nii.ac.jp/naid/40015550888

PDFなし

 とても良くまとまった内容となっている。まるで、高齢者福祉の教科書を読んでいるかのような適切でかつコンパクトにまとめた内容となっている。この論文の内容は、最初の研究目的にまとめられている。

  1. 家族における介護機能の現状を既存の実態調査と意識調査の結果から示し、高齢者介護の社会化の状況を示すこと。
  2. 現在の要介護高齢者の出現率を基に要介護高齢者の将来推計を試算し、その結果から今後の高齢者介護における需要の見通しを示すこと。
  3. 福祉・介護マンパワーに対するこれまでの国の施策と、現在の福祉・介護マンパワーの状況を示すこと。

 以上、三点をもって人口減少社会における高齢者介護の需要とその課題を検討することを目的にしている。

 多くは既に語り尽くされた状況について図表を上手く使いながら説明し、結局は介護労働者の処遇改善~環境改善が急務であることを提示している。結局、家族で面倒をみて、一部的な介助だけでは対応しきれない家族形態~老老介護や独居が増加してくるのだから、介護の社会化はより需要は増えていくだろう。別の論文でも言及されているけれど、今回の介護保険制度は家族への再回帰~家族頼みになってきそうな様相である。しかし、それではもう対応しきれないところに来ている。介護「保険」となったのだから…

村上春樹「ねじまき鳥クロニクル」にみられる他者の理解と「対象」

田中雅史(2009)「村上春樹「ねじまき鳥クロニクル」にみられる他者の理解と「対象」」『甲南大学紀要. 文学編』158, 39-51

http://ci.nii.ac.jp/naid/110007056562

PDFあり

 前エディプス期、エディプス期の葛藤・暴力性という解釈で描かれた文学論。

 う~ん、どうなんだろうか。主人公が理解しようとする他者は、自分自身の内部を通って出会うものと描かれていることには異論はないけれど、他者という異物をどう処理するのかをエディプス期の混乱、あるいは前エディプス期の不安、母性回帰への幻想に当てはまるのだろうか。

 ただそういう考えもあるかなと思えるのが、人々は明確で目に見える光景、あるいは理性と知性で支えられた言語や思考だけではなく、形状しがたいものや自我の統制が出来ない思考や空気、日常的な意味から離脱したモノがあることを感情や感覚で知っている。この小説では「ぐしゃぐしゃ」したものとかうごめく何かと表現されるモノ。そうしたモノをいかに統合させるのか。統合した時、また新たな創造性が生まれると。

 この小説は非常に抽象的で隠喩があちこちに施されていて何通りの読み方も出来るないようである。確かに主人公の内的変容を扱ってもいるし、内的変容がそれぞれの意識の深層に微妙に及ぼしながら、主人公の周りのセカイがまた変容していくような読み方も出来る。私はどちらかといえば、一人の意識の深層が変化した事による日常生活の関係も含めた変容と捉えるので、このような一人称のエディプス期とか母性回帰という読み方は一面的なように映る。ただ、ここで言及しているβ要素とα要素の解釈は面白いと思った。

村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』論

小島基洋(2008)「村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』論」『文化と言語 : 札幌大学外国語学部紀要』68, 47-62

http://ci.nii.ac.jp/naid/110007045363

PDFあり

 副題が、鐘楼のスプーンあるいは208号室の暗闇で光るものとなっている。

 副題が示すように、小説の中でしばしば登場するホテルの一室208号室における主人公の行動や隠喩についての読解あるいは解釈を中心に描かれた論文である。その部屋は夢の中で室内の小物が変わっている。また後半になるとボーイが『泥棒カササギ』の曲を口笛吹きながら銀のトレイを持って出入りするシーンがある。この論文は、この『泥棒カササギ』の含意を冒頭で述べた後、部屋の風景とを重ね合わせて主人公が得たものとは何かを考察している。

 泥棒カササギとは、オペラの一小節であり、その物語は

 銀貨を盗まれた召使いピッポがカササギを追跡し、銀製品の隠し場所である鐘楼を発見したのだ。『泥棒かささぎ』には多くの人物が登場し、複雑な人間模様が描かれている~若い二人の恋愛があり、横恋慕があり、そこに父娘の絆から、一種の姑の問題まで含む。[…中略…]要するに、プロットの中心をなしているのは、カササギが盗んだ銀製品をめぐる誤解とその氷解なのである。

 そのことを隠喩として、主人公が妻を救うにはどうしたらいいのか。カササギの盗んだスプーンを見つけることによってヒロインが救出されたのだったら、ボーイの銀のトレイを見つけることは、妻の救出に繋がるのかもしれないと。

 部屋の変転をじっくりと描いており、夢の中で出てくるホテルの情景とその解釈は幻想的ですらある。また文学論にありがちな哲学や心理学の直接的な解釈がほとんどなく、するっと読めてしまう。よく練られた構成をしていると思う。

主に「自由遊び」の関連論文3本

A:工藤真由美(2009)「現代児童文化の一考察」『四條畷学園短期大学紀要』42, 18-20

http://ci.nii.ac.jp/naid/110007069888

PDFあり

B:中村ウメ(2002)「人間性の発達と子どもの遊び・その2」盛岡大学短期大学部紀要 12, 179-186

http://ci.nii.ac.jp/naid/110000964256

PDFあり

C:松本園子(2004)「昭和戦中期の保育問題研究会の活動(3)自由遊びに関する研究」『幼児の教育』103(8), 36-43, 日本幼稚園協会

http://ci.nii.ac.jp/naid/120001935363

PDFあり

 Aは、現在の子供たちは身体を動かさなくなってしまって、身体表現やそれに伴う創造力が減少していることを述べている。まぁ、ステレオタイプにステレオタイプな言説で重ねた感じである。ただ、どんなに環境が悪くても、子供たちに主体的な意志があるならば、そこはかけがえのない遊び場になる。その手だてを示すことが保育者の役割であるとする意見には賛成する。

 Bは、現在の保育や幼稚園の現状を簡単に概説し、特に手のかかる子~キレる子の対応に追われていることとか、自由遊びでどのように主体性を育むのかが見えにくいことなどを調査研究を元に論述している。特に、昨今は遊具に関する安全性配慮の是非を問うような指導が展開されている状態が多いことから思いっきり遊ばせることが難しいことなどが述べられている。中でも、熟達者の保育者についての言及が上手い。

 子どもを熟知した保育士は子どもの表現に対する気づきや考え出す動きがより自然であり、子どもを輝くように見せたいと思う衣装作りは学生のアイディアを遙かに超えた豊かな内容だったのである。積極的な舞台はまさしく動くアニメの世界であった。プログラムを計画した主催者側も感涙するほどだった。

 集団で遊ぶこと。創意工夫すること。そして、その事を通じて主体性を身につけること。それは遊びに限らず、人が生きて行く上で重要な要素である。そのために保育者は、どう遊びを観て、関わるのかが問われている。

 Cは、そもそも自由遊びは、保育時間以外の「自由時間」としてみるのではなく、保育の内容として位置づけるべきだとして考えられていることを踏まえて、戦中の保育実践について紹介している記事である。あまり興味のない人にはつまらないようかと思うが、1930年代後半の保育者と子供たちとの遊びをめぐる記録は、読んでいて、当たり前のことだけど、昔から子供たちは遊んでいたことが分かる。最後に書いてある、積み木をめぐって男の子と女の子の取り合いのケンカ、そして保育者の仲介と調整。最後にみんなで積み木でボードを作って、ピアノに合わせて皆で漕ぐ、一生懸命漕ぐ中で一艘では面白くないから二艘にしようと男の子とも女の子もすっかり仲良しとなり二艘のボートを造って競争することなど、戦中の記録にあることの事実。そんな子どもも80歳以上になっているわけで…こうした記録が残っているのが分かると、いかに保育は伝統的な専門職なのかが分かる。

 ちなみにこれらの論文で言及されている幼稚園教育要領は文科省、保育所保育指針は厚労省からダウンロードできる。

幼稚園教育要領

http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/new-cs/youryou/you/you.pdf

保育所保育指針

http://www.mhlw.go.jp/bunya/kodomo/hoiku04/pdf/hoiku04a.pdf

障碍をもつ幼児の保育(23)

津守真・津守房江(2004)「障碍をもつ幼児の保育(23)」『幼児の教育』103(7), 36-40,日本幼稚園協会

http://ci.nii.ac.jp/naid/120001935351

PDFあり

 主に障害児の水遊びからその子どもがどのように生き生きと遊んでいるかについての記述である。津守真先生は、知る人ぞ知る保育学の大家。奥さんとのざっくばらんな会話体で記述されており、子どもへの温かい眼差しが感じられる内容となっている。中に、子どもが水遊びをしている場面を総括する形で、書かれている箇所が美しい。

 子どもが水を流して遊ぶとき、自由でダイナミックな思いを持っています。そうすると、どろんこ遊びはただ楽しいだけではなく、人生の大事なことを学んでいることがよく分かります。二股に水が流れるとき、「分かれ道」であり、水が『行き止まり』になって行き場を無くしているとき、石ころが流れの縁に『立ち止まって』いるとき、成長する子どもにとってはいつかまた人生の大事なときに出会う出来事だと想うのです。

 青年が独り立ちするとき『砂場は僕の人生の原点』だったと言ったことを聞きました。言葉で表現できない子どもにとってもそれは同じです。

 最後に、障害児を持つ母親は焦らないでほしいこと。一見すれば意味がないような事をしているように見えても、その子どもにとっては、必要なことであり、心の中にイメージで蓄えることの大切さを説いている。そして、最後に…

 お母さんだけでなく、保育者も常識の枠を取り去って自由にダイナミックに心の流れを良くしてほしいと思う。

 流れないで溜まっているときは『行き止まり』の意味を考えつつ、溜まった水が次第に澄んでくるのをゆっくり待って、『保育者の思索を』をしてほしいと思います。

 と締めくくっている。う~ん、さすが、津守先生である。実質5ページもないので読みやすく、すぐに読み終えることができる。論文というか、なんだろうね。記事って感じで読んでみてはいかがでしょう。

プロフィール

kuma

Author:kuma
救護施設→知的障害児施設→通所介護施設(高齢者)と15年以上。これからも思考と体力で、働いていきます。

自分のサイトもあります。
kumaの学習ノート

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