社会福祉学の原理としての「存在」

中村剛(2011)「社会福祉学の原理としての「存在」」『臨床哲学』12,59-70,大阪大学大学院研究科臨床哲学研究室

http://ci.nii.ac.jp/naid/120003534607

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 副題は、人間本来の尊厳を露わにする『存在』の探求となっている。

 ハイデガーの存在をめぐる言説を参照しながら、社会福祉学がどのように目の前の利用者を理解するべきなのかについて論じている。ハイデガーの存在論についてはうろ覚えで、言及できないが、それでも中に引用されている箇所や構成から何となく、言わんとするところが理解できる。とにかく、この論文はハイデガーを抜きにしても、すごく考えさせられる内容である。何か、祈りにも似た静けさとその人間の内的世界へ豊かさへの探求が感じられる。その本質は、以下の引用に集約されていると思う。

 しゃべれない、見えない、歩けない、IQは測定不能であろうと無かろうと、「一人ひとり人は大切な存在なんだ」という思いが、社会福祉の営みにはある。社会福祉が対応する様々な問題が、必ずしも改善・解決ができるものばかりではない。それ故、時に無力感を覚える。それでも支援し続けられるのは、そこに「人は大切な存在なんだ」という思いがあるからである。

 そうしたことをハイデガーの言説を論拠にして進めているというわけである。そして、尊厳とは何か、そして人を理解するとは何か−社会福祉学としての−ということになるが、

 人々の経験そして自らの経験に対してリアリティを持って理解するためには、歴史/地域(世界)の内に存在している人々(現存在)の立場から、一人ひとりの人が生きている現実を理解する歴史的/実践的立場が必要である。この歴史的/実践的立場に基づく社会福祉学の理解が「存在の理解」である。

 と結論づけ、さらに、「なぜ私に、このような世界が与えられているのか」という問いを、社会福祉学における問いとして考えることができるとされる。その後、末期のガンにかかった作家たちの世界は輝いていることの記述などを引き合いに出して、なんでもない風景も、生が輝いていること、尊いことなどを論述して、世界は無意味なものはなく、何かしらの根拠があり、それだけでも意味があることを明らかにしている。

 「無くて当たり前にもかかわらず、こうしてあることの奇跡』という反転のロジック(存在の論理)が、この世界があることのかけがえのなさ、ありがたさ、大切さという「私たち一人ひとりに世界が存在していることの意味」を露わにしてくれる。

 いずれにしろ、こうした議論をする人がいなくなって久しいと思う。青臭くても良い、ヒューマニズムとは何か。そして、自分は何を考え、どう行動するべきなのか。自分のスタイルとは何か。そうした話し合いがいまこそするべきなんじゃないだろうか。(それでも)利用者が好きって素直にいえる人がどのくらいいるだろうか。

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ケアリング事例と倫理的問題事例の分析

工藤せい子・阿部よし子(2006)「ケアリング事例と倫理的問題事例の分析」『哲学会誌』40, 21-32,弘前大学哲学会

http://ci.nii.ac.jp/naid/120000917307

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 医療行為の複雑さや医療ミスの可視化が進み、そのことで医療ミスの増加と裁判沙汰がマスコミを賑わしている昨今、改めて、医療倫理あるいは看護倫理の重要性が問われるような時代になっている。たぶん、昔から医療ミスはあちこちにあったし、むしろ緩い時代のほうが多かったんじゃないかと思う。よって、現在は権利意識の高揚の結果、医療ミスの可視化と増加を生み出しているのではないかと思われる。そのため、現業者はより規範意識を高めないと、医療ミスが増え続け、賠償などで損害は増え続ける一方である。だから、倫理教育の徹底が必要であると。

 この論文は、ベテランの看護師を対象にインタビュー形式で調査し、かつそれをM-GTAでコーティングし概念化をしたもの。その分析結果を示せば、

  1. ケアリング達成のプロセス
    1. クライエントからの学び
    2. 相互関係からの強い結びつきの形成
    3. 勇気と決断と実行
    4. チームとしての関わり
    5. 医療現場の常識からの脱却
  2. 倫理的問題解決のプロセス
    1. クライエントの代弁者としての役割
    2. 悪しきパターナリズム
    3. クライエントの意向と医師の方針の調整

 この二つの上位概念にも当てはまらない中間概念として〈丸く収めたい〉〈コミュニケーションを成立させたい〉が抽出されたとのこと。ちなみに、インデックスが左にある二つ《ケアリング達成プロセス》《倫理的問題解決のプロセス》が最終的概念。〈クライエントからの学び〉などは、《ケアリング達成のプロセス》に至る〈中間概念〉である。

 大きく分けて二つの事例を提示し、この概念がどのようなつながりを持って構成されているのかを分かりやすく論述している。詳しくは、文中を参照してほしいが、要するに、いろんな事象から、倫理性を取り出すこともできるし、専門的知識の判断を取り出すこともできる。ようは、その実践、事象、現実から何を学ぶかである。そして、おそらくそこに介在している、思考や倫理性~思いをくみ出すことは非常に重要になっている。この論文は、ベテランの取り組みを新人に提示するための方策として、事例を提示している。こうして一つ一つをくみ出し、みんなで検討する。それが身近であればあるほど、納得感は非常に強くなるのではないだろうか。

 これは学校内での教育だけではなく、現場でも検討するべきだと思う。医療-看護だけではなく、福祉-介護でも同様に必要であろう。目の前の事象をどう理解するのか。それは非常に難しい課題ではあるが、それなくして、現場で働くことの意味を見出しにくいのではないだろうか。そしてこの作業は手間がかかり、正解のないことであるが、そうした確認作業を通して専門性を磨いていくことが、現場には必要だろうと思う。

 ただ、それをどう教えたらいいのか。その時、ベテランの力量が問われるのかもしれない。

 非常に読みやすく、じっくりと読みながら考えてしまった。まぁ、若干キレイにまとまりすぎているんじゃないかとか、予定調和的にも見えなくもないけれどね。

介護者支援の論理とダイナミズム

斎藤真緒(2010)「介護者支援の論理とダイナミズム」『立命館大学産業社会学部』46(1), 155-171

http://ci.nii.ac.jp/naid/110007767369

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http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/ss/sansharonshu/461pdf/04-03.pdf

 副題は、ケアとジェンダーの新たな射程となっている。

 要約にも明らかにされているけれど、簡単に言って、家族介護はほとんどどの家庭においても「仕方のないこと」として、家族が引き受けているが、その状況は非常に苦しいこと。その苦しさは、例えば、介護のために仕事を辞めないといけなくなったり、長期にわたることがあり、見通しが立ちにくいことから不安定で不安な生活を強いられること。そして、その介護状態が不可避的であることである。

 ながらく、介護は女性の仕事として位置づけられて来た。それはジェンダーの問題として提起され、男性も等しく介護をするべきであるとするキャンペーンが張られているが、介護を取り巻く環境は、そんな短絡的なことではなく、過酷な現実として問題であることを提起している。この論者は、より広い文脈で捉えるべきとのことで、「ケアの倫理」を手がかりに、その倫理をめぐっての様々な議論を引き合いに出し、新たなケアの空間をどう創出させたらいいのかを提言している。このケアの倫理やケア労働を感情労働として捉えて、奉仕や愛の精神が強調され、無償で働くべし→低賃金に甘んじるべきだとする言説が存在することはすでにいくつかの論文などで紹介しているので省略。

 この論文ではそのあたりのことをより精緻に『ケア労働の形態』として図表化し、介護支援のスキームとして象限化しており、議論のネタとして非常にまとめている労作である。また、単なる理論の紹介にとどまらず、現在の介護保険の改正に隠喩にヘルパーの適正化~同居家族原則の徹底など、再び家族の介護責任を強化することによって、制度サービスはあくまでも家族の後方支援へとその役割を縮小する、「再家族化」という様相を呈していることなどを紹介し、改めて家族介護のあり方についての問題の深さを浮き彫りにしている。

 この論者は、家族は介護しないといけないとすることは、政治的な空間で作られた言説であり、介護をしないことを選ぶには何かしらの後ろめたさを感じさせる空気(言説)がかなり影響していること。そのため、これを脱政治化するには、介護者のケアをする権利の他にケアすることを強制されない権利、そして被介護者もまた同様にケアされる権利とケアをされることを強制されない権利という考えを持つこの重要性を論じていると思う。

 そして、介護によって職を辞めざるを得なくなった場合の所得の保障と継続性を社会全体で行うことの重要性。またもっとも有効だと思うのが、介護者のニーズを反映させる介護者に配慮したケアプランの作成である。とくに、このケアプランはケア関係を閉塞化させない仕組みとして位置づけることができるといえるとされる。海外の状況を踏まえながら決して非現実的な提言でないことも踏まえており、説得力はあるといえる。

 多様なライフスタイルになっているため、介護者は女性だけではないこと。共稼ぎのために女性が家にいるとは限らないことから男性の介護の重要性が説かれている。しかし、その一方で、介護現場にいると、結構ひとり暮らしの人や老老介護の状態になっている場合もある。嫁や娘が同居しているケースであれば、この論文の提言はかなり有効であるが、それ以外の場合はどうなのか。そして、介護を要する人たちはどのように生きるべきなのか。独居で認知症があり、朝と晩に娘がちょっと家の中を確認して帰るだけの家でも何とか生きていくことができる人もいる。案外、人はこっちが心配するほど、ケアが必要だとはいえないのかもしれない。

 また、ケアされる権利と同様に、ケアされることを強制されない権利があるというが、そんな権利は有効なのか。目の前に介護を要する人がいる。家族はケアをすることを拒否した。その時、ケアさることを強制されない権利は発動するのか。あるいは、理性的な状態ではない時はどう判断するのか。認知症の場合、言語が無い場合、全身麻痺をしている人などケアされすることを強制されない権利はあるのか。どうするのだろうかと思った。

 ただこの論文から学んだのは、そこで家族がケアをすることを強制無い権利を発動し、介護を拒否したことに対して否定的に受け取ってはいけないことである。特に、外部サービスとして引き受ける介護従事者はそれに理解を示すべきなんだろう。ともすれば、介護従事者こそがそうした介護を拒否した家族への否定的感情を抱きやすいが、それは間違った感情であるといえる。

 とはいえ、介護は家族がしないといけないという空気は根強い。しかし、無理することはないし、それは作られた言説であることを明らかにした。その後、でも、やっぱり自分の親は死ぬまでケアをしたいとする気持ちもよく分かるし、悪いことではないよねと確認した。その上で、もっとケアをすることが気楽で安心できる環境を作るならこうした取り組みがありますよと言う感覚で読むと良いと思う。文体は硬いし、論じられている内容はかなり込み入っていているけれど、要するにそういうことなんだろうと思う。

災厄の痕跡(2)

鈴木智之(2006)「災厄の痕跡」『社会志林』53(1), 1-33,法政大学

http://ci.nii.ac.jp/naid/120000993350

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 副題は、日常性をめぐる問いとしての『ねじ巻き鳥クロニクル』(2)となっている。

 (1)は、他者性とか権力と闘争、あるいはアイデンティティの変容について述べられていて、どちらかと言えば言説~言葉の持つ力を中心に語られていた。(2)では、身体の感覚とか変容、身体と意識が中心になって述べられている。イデオロギーとしての言説、コミュニケーションによる他者との差異や同一性が(1)では語られたが、(2)では、そうした言説などが身体にどのような影響を与えているかである。つまり、痛感を無くした加納クレタ、不意に訪れた性的な欲望と快楽に押し流されるクミコの体、ゆっくりと皮を剥がされながら息絶える山本といった、身体の変調を権力との闘争を軸に語られたというわけである。

 身体は皮と感覚で外部と関わり、自己と他者あるいは自己と環境を区別する。そうであればこそ、感覚の変容は、世界の変容であり、世界の現れ方の変容であること。例えば、風邪を引いて味覚が変われば、それは主体の変容であり、その時に知覚する物事は、通常の状態と比べて世界が変容している捉えるべきである。

 その後、テクスト分析により、加納クレタの痛感の変容から統合、接触困難なクミコをどう奪取していくのかという闘争の問題、戦中の収容所での身体と支配と権力の構造などを例示している。その中で興味深いのは、人には二通りの肉体があるとされる。一つが、社交圏において互いに見せ合う[自己]…社会的な役割を伴ったもの。そして、もう一つが、タダの肉塊である。

 生きられた現実を有意味な空間へと分節化する媒体としての身体。それは同時に、その世界との世界とのつながりの中でそれ自らもまた分節化され、意味を帯びる身体である。

 これに対して、他方では、感覚的な分節の力を欠落させた、肉塊としての身体。それは、人称的な関係の外部に放棄される、没社会的な身体である。

 また、収容所での身体の有り様は、いわゆる生権力といわれる現代の支配イデオロギーをより剥き出しの形で具象化したものとして描かれる。収容所は、法的に全面的に宙づりにされた空間であり、それが故に、「何でもあり」の空間となる。収容所に入っている捕虜は、あらゆる政治的立場を奪われ、「完全に剥き出しの生へと還元される」とされる。

「収容所」においては、「生権力の最大の野心」があからさまな形で具現化される。それは「人間の身体の内に、生物的な生を生きる存在と言葉を話す存在、生命と生活、非ー人間と人間の絶対的な分離を生産」すること、すなわち「人間としての生活」を奪い取られたままの姿でなお「生き残る人間」を生産する。

 この収容所をめぐる考察では、要するに、戦時中の収容所における身体の有り様は、収容所という権力システムの中で変容し、生物的なものへと生かされること。あらがいがたいものであることとされる。しかし、ここ最近言われているアラブの春といわれる一連の変革は、既存の権力システム~今までの生活や生権力へのアンチテーゼとして立ち現れている。それは、またいずれ何らかの権力システムによって回収されるとしても、人々は自分たちが望むべく生活の有り様は自分たちで決めることができるのではないだろうか。ちょうど、収容所は戦争の終結によって解体され、また捕虜達も生き直すことができているように。

 いずれにしろ、収容所による生権力の挿話から権力と身体がより具体的に終盤、ノボルと主人公の対決へと収斂していく。ノボルは、身体を常に不確定な状態に置き、解体し再組織しようとするシステムの体現者として振る舞う。こうしたシステムは、身体は安定した自我の土台とならず、偶発的な変容を被る~こうしたシステムを汚れとも言い、そうしたシステムを身体のどこかに封じ込まれた状態を「災厄の痕跡」として論者は表現しているといえる。とするならば、主人公とは何か。ノボルが、汚すことによって離脱と移行を促し、主人公の僕は浄めること統合を可能にする存在らしい。ノボルが損なうことで支配する自分の力に、セラピー的な主体としての僕が敵対するのである。そして、それだからこそ、主人公の僕は、日常を守るために暴力の主体とならねばならなかったとする。「損なう者」から日常を守るには、そのものをセラピーするのではなく、退ける暴力こそが唯一の防御である言うわけである。

 一応、(1)と(2)を通して読んでみて…長かった…この本を読んだのももう10年くらい前だったので、セリフとか筋書きとかほとんど忘れていて、単になんか不思議な小説を読んだなという感覚でしかなかった。もう少し他の論文を読みながら、考えを深めていこうかと。この論文から文学論は単にテクスト分析ではなく、また文学という仮想の世界だけの話しだけではなく、文学で問われている現実を解釈し、取り出し、そして自分に引き寄せ、そして文学に返すという実践的な学問であることが分かった。

保育における「遊び」の捉えについての一考察

横井紘子(2006)「保育における「遊び」の捉えについての一考察」『保育学研究』44(2), 189-199, 日本保育学会

http://ci.nii.ac.jp/naid/110006197722

PDFあり

 副題は、現象学的視座から「遊び」理解の内実を図るとなっている。

 遊びを客観的に捉えるだけでは、保育者は子どもに遊びとは何かを伝えることができない。しかし、これまで遊びのパターンとかカテゴリーなどで研究されることはあっても、「遊んでいる」といった「遊ぶ」主体の内的態度は視野に入れてこなかった。現象学的な視点を取り入れることで、これまで主観的な物として排斥されがちだった、保育実践において子どもの『遊び』を捉えるという営みの実態が、生きられた体験により近いものとして明らかにすることをねらいとしている。

 J.アンリオの遊びの定義を軸に保育場面での論者の関わりの解釈が行われている。アンリオの遊びの定義は、

  1. <もの>として名付けられるレベル(<チェス>をして遊ぶとか)
  2. ある主体が実際に行っている行為の客観的・外部的レベル(チェスをしていることが観察される→遊んでいる)
  3. 行為を行っている主体的の内部的な態度(当事者同士が、チェスを遊びとして認識していること)

 特に重要視するのは、3である。遊びとしてそのものを認識しているかどうかが大事であり、1人遊びではない限り、その遊びは相互性を伴った間主観的な出来事であるといえる。言い換えれば、お互いに遊んでいると認識することで、その<遊び>は遊びとして成立すると言うことである。

 その一方で、保育者が<それが遊びだ>と認識するには、特に1の命名されたものを手がかりにするしかないことも明らかにしている。言い換えれば、当事者同士が何をして遊んでいるかを理解するには、外部(保育者)がそれがどのようなルール(遊びの構造)を持っているかを理解しないといけない。そのためにはこの命名が重要な意味を持つとされる。遊びの構造を理解すると、たちどころに、<それが遊びだ>と理解しできるとされるが、果たしてそうだろうか。

 この論文の中で、保育者(論者)がある子どもがひとりでトランプをいじっているのを見て、自分の理解の及ばない(遊んでいるわけではない)ことをしていた。しかし、その子にとって、トランプの絵柄を見たり、並べたり、保育者に数字を読んでもらって面白がっている姿は、遊んでいるのではないだろうか。西村清和あたりの『遊びの現象学』ではそう捉えるはず。まぁ、アンリオの定義の範囲で考察しているから、それ以上は踏み込めなかったんだろうけど。

 ちなみに、この紀要は、保育学では一応最高峰。ただで読めるので、興味のある人は芋づる式でリスト化してみても良いかもしれない。

現代社会における幸福と愛をめぐって

菅野博史(2011) 「現代社会における幸福と愛をめぐって」『帝京社会学』24, 41-59

http://ci.nii.ac.jp/naid/40018763688

PDFなし

 リストラやいじめ、鬱病など暗い話題ばかりが目に飛び込んでくる現代社会は、後世、人々から生き甲斐を奪うような暗く陰鬱な時代であったと歴史家から総括されそうであること。また、人々の閉塞感を分析していくための視点として、幸福と愛といういわば反対概念から考察した論文である。特に、学問をする上でのジレンマ、知れば知るほどその人の苦悩は深くなって、むしろ学問が逆効果になりかねないとする記述。

 例えば、非正規雇用労働者をめぐる格差社会についての社会学的言説を知れば知るほど、その知識を身につけた人たちが怒りに満ちていく一方で、自分たちが現実を何も帰られない無力感から自暴自棄に陥ったとしたら、むしろ何も知らなかった方が幸福だったと言うことにもなりかねない。

 取り上げられたのは、フロムとバウマン、そして菅野仁の『愛の本』を手がかりに、現代社会で生きる我々にとって愛とは何か。そして愛を手がかりに主体的に生きるとは何かを説いている。中でも参考になったのは、自己愛と利己主義の違いである。自己愛とは、自分自身への配慮、尊敬、責任、理解という健全な自己愛がなければ、他者を愛することができないこと。自分自身のエゴしか関心を向けない現代の利己主義者は、自分自身への配慮などが本質的に欠けているため、自分のことを本当は愛していないとする見解である。

 資本主義下の恋愛とは、自分自身と相手の商品価値を見極め、その商品の限界を見極め、取引を行うものであるとする。

 ふつう恋心を抱けるような相手は、自分自身と交換することが可能な範囲の『商品』に限られる。私は「お買い得品」を探す。相手は、社会的価値という観点から望ましい物でなければならないし、同時にその相手は、私の長所や可能性を、表のあらわれた部分も隠された部分もひっくるめて見極めた上で、私をほしがっていなければならない。

 その後、フロムの思想的なところをバウマンが引き継いだとした見解で、ソリッド・モダン社会とリキッド・モダン社会との対比で人間関係がより切片化してきていること、欲望が待ったなしになり、軽薄・短小になっていることを描いている。愛は、情動と欲望でいわゆるその場の恋、長期的な関係を期待しないでとりあえずつきあう恋愛関係が主流になっていることを論じている。

 その上で、いわゆる宗教が説くような愛は、現代社会では無意味なのか。あるいは、希望として描かれないかについて論じているが、端的に、道徳とか社会的、制度的な愛はあり得なく、本当に親密圏における、もっというなら二人称でしか愛は存在しないとされる。

 愛の行為を選択することは1人ひとりの行為者に属する事柄であるため、それを社会規範に解消することができないことになる。こうした個人的行為の積み重ねによってしか出現しないというわけである。

 まぁ、一般論としてはよく分かるが、例えば、旦那が交通事故になって働けなくなって、四肢が動かせなくなっても、離婚もせず、浮気もせず、家庭を支える妻は、資本主義のロジックで恋愛関係を営んではいないと思う。特に険悪にならなくても離婚するカップルもいれば、どんなにいざこざがあっても傷つけあっても離婚もせずに長続きするカップルもいる。愛とは何か?中にも書いてあるけれど、打算抜きの相手への配慮である。自分自身に向かう求心的な感覚ではなく、「そこに存在する物へと拡張し、越え出て、手をさしのべたいという衝動」として、私から外へと向かう遠心的な力である。

2010年度学会回顧と展望~障害福祉部門

 障害福祉分野では、障害者権利条約の批准という外圧的要件を背景にして議論が展開されてきたこと。「障害学」の視座に立った、社会福祉現象を捉える動向が見られたことが特徴として上げられる。社会福祉における障害者は、どちらかと言えば客体、あるいは行政・医学が捉える対象者である。障害学の障害者は、障害者になる「構造」に着目し、そこに権力性をかぎつけ、より主観的に捉えようとする。立命館が立ち上げた生存学のプロジェクトや障害学研究、上野千鶴子などが提唱してきている当事者学などといままでの障害福祉の学問領域は似て非なるものであったと言える。援助者が受容とか共感という用語を障害者福祉の学問領域では使うが、当事者のそれは、お前らに共感してもらわなくても結構という。そこにどのような接点があるのだろうか。

 知らず知らずのうちに、援助者は「施設の都合」で仕事をしている。施設の都合とは、行政の監査とか管理監督とかの目を気にしている。そして、より広義には国や社会の目を気にする。無難に、安全に、無理なく、つつがなく、利用者が無茶をしないようにソフトに管理するのである。

 もし当事者性を前面に出すなら、利用者が何をしたいのかを中心に据え、それに援助者は何ができるのかを一緒に考える事じゃないだろうか。たぶん、一緒に無茶をして、バカやって、迷惑を掛けながらも、気にしないで笑い飛ばすようなことをやることなのかもしれない。それで給料がもらえれば最高だよね。

PDFあり(有料)

江本 純子「精神障害者の雇用をめぐる政策課題 : 「採用後精神障害者」の問題を切り口として」

http://ci.nii.ac.jp/naid/110007701123/

古寺 久仁子「障害乳幼児の養育者のサービスニーズと関連要因 : 肢体不自由児通園施設に通う子どもの養育者の調査を通して」

http://ci.nii.ac.jp/naid/110007701125/

森地 徹「知的障害者入所施設からの地域生活移行が移行者に及ぼす影響に関する研究」

http://ci.nii.ac.jp/naid/110008513731/

白山 靖彦「高次脳機能障害者家族の介護負担に関する諸相 : 社会的行動障害の影響についての量的検討」

http://ci.nii.ac.jp/naid/110007682368/

津田 英二「障害の問題についての当事者性は多様な社会問題への認識とどう関わるか」

http://ci.nii.ac.jp/naid/110007882248/

PDFあり(無料)

中野 敏子・坂元 暁子「「意向確認の難しい利用者」の支援のあり方に関する研究--行動援護サービス事業所調査を通して」

http://ci.nii.ac.jp/naid/40018914884/

大谷 京子「精神科ソーシャルワーカーとクライエントとのあるべき関係性 : ソーシャルワークの価値、クライエントの期待、精神障害者福祉領域の固有性を鑑みて」

http://ci.nii.ac.jp/naid/110004998461/

三野 宏治「精神障害当事者と支援者との障害者施設における対等性についての研究 : 当事者と専門家へのグループインタビューをもとに」

http://ci.nii.ac.jp/naid/110008089495/

CiNiiにはPDFはないけれど、学内データベースから無料で手に入る

立命館産業社会論集

http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/ss/sansharonshu/index.htm

PSW系の研究を継続的にやっている先生。PDFで落とせる似たような研究あり

大谷京子 PSWとか精神保健福祉分野での論文あり

http://ci.nii.ac.jp/nrid/9000004558707

2005年くらいから学内データベースでPDF化。1500円とか書いてあるが、PDFで落とす分には無料って意味が無くね?目次から入れば論題がある

日本女子大学社会福祉学会「社会福祉」

http://mcn-www.jwu.ac.jp/sw/backnumber_index.html

ダウン症の子どもを持つ母親の「障害をめぐる揺らぎ」のプロセス

—障害のある子どもを持つ母親の主観的経験に関する研究— 関 維子

http://mcn-www.jwu.ac.jp/sw/backnumber_mokuji.html#51


2010年度学会回顧と展望~歴史部門

  社会福祉学において、資格制度によって実践にウエイトを置いた専門職養成科目によって福祉学の体系が変質し、歴史軽視や社会福祉原論の手薄さが顕著になっている。福祉史は福祉原論(哲学)とともに社会科学としての福祉学の基盤を形成する位置にあることは言うまでもないが、その原論が福祉のなんたるかを明確に位置づけることをしないままであると、歴史研究の立場も危ういという指摘は正鵠を得ているかと思う。また今年度は、室井が思想史への期待を述べているように、これまでどちらかというと史的事実を取り扱う傾向にあった社会福祉史から思想への射程を広げていることが伺えた。

 ざっと読んで、戦時下の福祉的な取り組みはブラックボックスな所があり、あまり語られないが、ここ数年で結構掘り返されてきた観がある。

 いずれにしろ、歴史を学ぶことは重要だといえども、現場で実践をしていると、「そんなの関係ねぇ」となるし、介護保険施設にいると次から次へと繰り出される行政の「お達し」に振り回され、やれアセスメントだモニタリングだと走り回る。歴史から学ぶには、史実を整理し、その中から「何か」を抽出する作業が伴う。しかし、古くさい資料を紐解き、難しい漢字を読んだり、過去の出来事を読むには徒労感が伴う。しかし、古き良き時代とまで行かないけれど、それでも何か「志」をもって取り組んだ先人達の声を聞くことは決して無駄ではないし、その「何か」を取り出せたときのうれしさは、現在から未来へとつながる鍵なのかもしれない。

PDF有料

山本 浩史「石井十次の孤児教育思想における真正の教育の成立過程 : 明治27年ルソーの影響を中心に」

http://ci.nii.ac.jp/naid/110008513726/

森田 昭二「好本督と「日本盲人会」の試み : 盲人福祉事業の先覚者が描いた夢」

http://ci.nii.ac.jp/naid/110007701122/

小西 律子「職業リハビリテーションの黎明としての大阪ライトハウス早川分工場」

http://ci.nii.ac.jp/naid/110008513725/

PDFあり

大原社会問題研究所雑誌 628号(フィランスロピーの特集論文を多数参照している)

http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/oz/628/index.html

大原社会問題研究所雑誌総合インデックス(労働関係の論文多数)

http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/oz/index.html

竹原 幸太「戦時厚生事業下における菊池俊諦の児童保護思想の様相--調和・統一思想を分析軸として--(付)戦時厚生事業下菊池俊諦略歴・文献目録」

http://ci.nii.ac.jp/naid/120002381773/

輪倉 一広「ふたりの宗教家にみる功徳の転換性の様相--救癩事業をめぐる比較思想史的考察」

http://ci.nii.ac.jp/naid/120002954883/

宮本 義信「"同志社人"稲垣藤兵衛の基督教社会事業をどうとらえるか--日本統治時期台湾の稲江義塾を中心に」

http://ci.nii.ac.jp/naid/120002834426/

趙 文基「在日コリアンの形成と植民地朝鮮の社会事業」

http://ci.nii.ac.jp/naid/110007709938/

PDFなし

輪倉 一広「近代日本救癩史研究における岩下壮一研究の視座と位相について--思想史研究の立場から」

http://ci.nii.ac.jp/naid/40017375214/

津曲 裕次「滝乃川学園史の研究--白痴学校形成期における園生の従事者化の検討」

http://ci.nii.ac.jp/naid/40017020765/

岡本 民夫「日本におけるソーシャルワーク導入と思想 (社会福祉の思想史--その可能性)」

http://ci.nii.ac.jp/naid/40017375212/

松岡 弘之「救護法施行前後の都市医療社会事業--弘済会大阪慈恵病院を事例に (特集 近現代医療環境の社会史)」

http://ci.nii.ac.jp/naid/40017275524/

川内 淳史「戦時-敗戦期の国民健康保険--三重県阿山郡東柘植村を事例に (特集 近現代医療環境の社会史)」

http://ci.nii.ac.jp/naid/40017275525/

金子 光一「ソーシャルワークの制度化に関する史的考察--J.S.Millの思想を通じて (特集 ソーシャルワークと思想)」

http://ci.nii.ac.jp/naid/40017652001/

津曲 裕次「知的障害児施設滝乃川学園史の研究--昭和戦前期(白痴院充実期:谷保前期)利用者の実態分析」

http://ci.nii.ac.jp/naid/40018742855/

愼 英弘「恐慌期植民地朝鮮における社会事業の動向」

http://ci.nii.ac.jp/naid/40018756035/

きむ みんじょん「日本における障害児保育の前史--恩賜財団愛育会による母子愛育事業と「異常児保育」の実験研究の展開を通して」

http://ci.nii.ac.jp/naid/40018800513/

河合 隆平「戦時下における小溝キツと「異常児保育」--保育記録にみる障害児保育実践の誕生」

http://ci.nii.ac.jp/naid/40017437339/

姜 克實「社会事業成立期における国家と宗教の位相--公益と愛の間で (社会福祉の思想史--その可能性)」

http://ci.nii.ac.jp/naid/40017375213/

石井 洗二「沖縄諮詢会および沖縄民政府における社会福祉--1945年~1949年」

http://ci.nii.ac.jp/naid/40018768378/

石井 洗二「1950年代の沖縄社会福祉協議会に関する考察--1958年までの組織整備を中心に」

http://ci.nii.ac.jp/naid/40016794698/

千葉・関東地域社会福祉史研究

http://ci.nii.ac.jp/ncid/AA1240807X

地域社会福祉史研究

http://ci.nii.ac.jp/ncid/AA12125563

中国四国社会福祉史研究

http://ci.nii.ac.jp/ncid/AA11759272

東京社会福祉史研究

http://ci.nii.ac.jp/ncid/BA86180613

引用されていた学者のインデックス

室田保夫

http://ci.nii.ac.jp/nrid/9000002256594

http://ci.nii.ac.jp/nrid/9000002364097

http://ci.nii.ac.jp/nrid/9000009480818

http://ci.nii.ac.jp/nrid/9000009480818

津曲 裕次

http://ci.nii.ac.jp/nrid/9000006121910

宇都宮 みのり

http://ci.nii.ac.jp/nrid/9000002393667

2010年度学会回顧と展望~理論・思想部門

 『社会福祉学』日本社会福祉学会は一年に一回、こうした回顧と展望をしっかりと載せてくれるので、いまの社会福祉の学問上の動向を知る上で非常に役立ってくれている。

 思想部門の切り出しは、社会福祉学が危機に瀕していると題して、いまこそ旧来の思想をより深く吟味するべき時が来ているのではないかとの問いは、私の心情にもぴったりである。効率や合理性、市場主義、効果的なサービス提供と課題の解決が優先され、なぜ福祉なのか?そこで生きる人たちの生活とは何か。その生活にどう福祉が関わり、ゴールを目指すのか。そして援助者はどうすればいいのか。青臭いかもしれないけれど、そうした問いがいまこそ必要ではないだろうか。文中にも出てくるけれど、面白いことを目指すこと、緩やかなつながりであること、開放的であること。肩の力を抜いて、背伸びしない等身大の率直な思想が求められているのかもしれないと思う。

 詳しくは本文を参考にしてもらい、ここではこの一年で理論・思想で取り上げられた文献、かつCiNiiで閲覧できるものをリストアップしておきたいと思う。興味のある人は、それらを紐解いて自分なりに吟味してほしいと思う。とりあえず、社会福祉学の最高峰での一年の総括なので、間違ったものは混在していないはずである。

PDFあり(無料)

秋山 智久「人間の苦悩と人生の意味 -社会福祉哲学の根本問題-」

http://ci.nii.ac.jp/naid/110008092092/

浅川 達人「生きる意味を回復するために : 対人援助を社会学的に読み解く」

http://ci.nii.ac.jp/naid/120002911313/

PDFあり(学会員以外有料)

中村 剛「福祉思想としての新たな公的責任 : 「自己責任論」を超克する福祉思想の形成」

http://ci.nii.ac.jp/naid/110008007032/

隅田 好美『「病いとともにその人らしく生きる」ための病いの意味づけ : 筋萎縮性側索硬化症(ALS)患者への質的調査を通して』

http://ci.nii.ac.jp/naid/110007682370/

田中 耕一郎「 <重度知的障害者>の承認をめぐって : Vulnerabilityによる承認は可能か」

http://ci.nii.ac.jp/naid/110007701124/

PDFなし

清水 まり子「人格的生存権の実現をめざして--鈴木義男と憲法第25条第1項の成立」

http://ci.nii.ac.jp/naid/40018844236/

荻野 剛史「わが国における共生概念の変遷過程」

http://ci.nii.ac.jp/naid/40018827136/

永岡 正己「吉田久一社会福祉史学の原点に学ぶ」

http://ci.nii.ac.jp/naid/40018844235/

阿部 志郎「基調講演 嶋田啓一郎の人と思想--生誕100年を記念して ([同志社大学社会福祉学会]第24回年次大会報告)」同志社社会福祉学

http://ci.nii.ac.jp/naid/40018763938/

右田 紀久恵「インタビュー 先輩からの助言(第9回)右田紀久恵先生」

http://ci.nii.ac.jp/naid/40018844240/

名前検索をすれば、いくつかはPDFで読むことが出来ると思う。例えば、以下の学者は個人的にオススメ

中村剛

http://ci.nii.ac.jp/nrid/9000006198071

PDFがなかった学者でも、永岡とか右田は超有名な学者。昔の論文のいくつかはPDFになっている。たとえば

永岡 正己「社会福祉の戦後四〇年を考える : 戦争責任・戦後責任の問題を中心に」

http://ci.nii.ac.jp/naid/110008093128/

乳幼児の遊びとその指導法

尾崎恭子ほか(2005)「乳幼児の遊びとその指導法」『中国学園紀要』4, 69-77

http://ci.nii.ac.jp/naid/110006184128

PDFあり

 副題は、「物と関わる遊び」における保育者の言葉掛けとその手立てを通じてとなっている。

 幼稚園教育要領でも保育所保育方針でも、遊びを通して総合的に指導することの重要性については認識しているが、具体的にどのような言葉掛けや手立てをすればよいかハッキリしていない。という論点に基づいて、主に、ボーリング遊びを具体例として、どのように言葉掛けなどをすればよいかについて論じている。

 遊びは、それ自体が総合的な学習の場であることを説得力のある内容で書かれている。ボーリングでも例えばどのように転がせば上手く倒れるのかという空間的思考、倒れた数に従って、何処に転がすのかという論理的思考、カウント、数の構造、集団で倒す場合は、指示や伝達などのコミュニケーションを一体として能力を発揮するわけである。物と関わる遊びには三つあり、

  1. 物を動かす遊び~蹴る、転がす、押すなど
  2. 物を変化させる遊び~絵の具を混ぜる、ロウを溶かしロウソクを作るなど
  3. 1と2がまざったもの~ふるいに掛ける、影踏み遊びなど

 その後で、物と遊ぶ時に関わる基準とか指導法が示され、それを踏まえた上でのボーリング遊びでの保育者の実際的な声掛けや指導法が論じられている。結論としては、子供の主体性を尊重しながらも、結果を作り出す遊びの導入、集団ゲームに発展させる、場面では子供が何を考えているのかの推察を中心に据える、遊びが終わる時は子供達が主体的にどんな遊びだったのかを話し合うように促すなどが上げられていた。

 ボーリング遊びだけではあるが、遊び自体、何か物と関わることで遊びが成立することが多いので、指針としては分かりやすく参考になるところが多かった。


災厄の痕跡

鈴木智之(2005)「災厄の痕跡」『社会志林』52(2), 19-47,法政大学

http://ci.nii.ac.jp/naid/110006199981

PDFあり

 副題は、日常性をめぐる問いとしての『ねじ巻き鳥クロニクル』(1)となっている。このあと、(2)もciniiに公開されていたので、そのうち寸評などを載せていきたいと思う。

 村上春樹の小説の中で、私が唯一読んだのが、このねじ巻き鳥であった。前に寸評した、ゼロ年代セカイ系の論文の中にも村上春樹が出てくるんだけど、何がセカイ系なのか、そしてしばしばポストモダンの代表的な作家としても取り上げられることから、この唯一読んだこの小説のことを書いた論文を読んでみたというわけ。この論者が捉える村上春樹の問題提起を以下のように記述する。

 村上春樹の作品-特に、長編小説-が描き出していたのは、「イズム」や「主義」の夢想から覚めて、「社会生活」へと引き戻された人々が、そこに生の拠り所となりうるだけの「現実」を見いだし得なかった状況であった。そしてこの点において、一つの世代の物語が、同じように「地べたにある」ような「現実」を実感し得ないその他の世代にも訴求力を持ち得たのだ、と言うことが出来るだろう。[…中略…]

 しかし、その物語が反復されればされる程、回帰すべき「こっちの現実」はますます心許ない世界、足場としてそこに立つことが出来ない脆弱な世界に変容していくように見える。[…中略…]

 自らの視点を基礎づけるような「本当の生活」など存在しない。その不在の感覚の中で、いかにして「現実」にとどまることが出来るのか、「現実」を生き延びることが出来るのか。そこに諸作品を通じて問われ続けている主題があったはずである。

 その後、ねじ巻き鳥は、他者との同一性をめぐる問い、身体と世界のつながりをめぐる問い、湧出する(歴史的)記憶をめぐる問い、世界を構築(秩序化)しようとする力との闘争がずれたり、もつれたり、重複したり、あるいは飛躍する形で複雑に物語が紡がれていると考察し、それぞれについてテクスト分析している。文学論にありがちな、心理学や哲学の援用などを交えて描かれている。ねじ巻き鳥に関する文学論の他文献はまだ未読であり、この論文の解釈だけでは把握しきれないが、この論文でなるほどと思ったのが、後半に世界を構築しようとする力との闘争についての記述であった。結局、だれかの世界構築の力~言説の権力的使用は意識することだけではなく、無意識的にも刷り込まれている。その言説は単なる「コトバ」ではなく、自己の生存に関わる命令文であり、自己の生を起動させる「言霊」である。だから言説は、自己を喪失させることもあるし、自分の生命力を失わせもし、また人との関係性にも重要な役割を与える物である。だから、その言説~命令文を書き換えるには、世界秩序を構築するための新たな言説を用意する必要がある。しかし、この言説を構築するのは、暴力の移行、あるいは創設的な暴力の間での選択であることを明らかにしている。結局、言説とは暴力であるし、どちらの暴力が正しいとかではなく、その人が生存するために選択されるものに過ぎないというわけである。そして、村上春樹が描くのは、その暴力の正当性ではなく、あくまでも正しさの不在の中で恣意的に押しつけられたものであるという身も蓋もない現実なのかもしれない。

学童期における「保育」の必要性+1

村井尚子(2007)「学童期における「保育」の必要性」『大阪樟蔭女子大学人間科学研究紀要』6,95-108

http://ci.nii.ac.jp/naid/110006238928

PDFあり

 就学前の子供に対する保育は充実しているが、学童期における遊び場~保育の環境は無いに等しいことを念頭に、学童期におけるいくつかの事業~放課後子供教室、放課後児童健全育成事業や学童保育を取り上げ、その現状と課題について、事例を基に書かれている。

 もともとは鍵っ子とかが1960年代から1970年代にクローズアップされて、小学校低学年児童の居場所作りからスタートしたが、今でもあると思われるのが、学童期における保育の必要性への認識の薄さ、三歳児神話に代表される女性への社会進出へのある種の忌避感とも相まって、その本質への問いが看過されてきたと言える(実際に就学前児童の保育事業が3千億円であり、学童期の保育の事業費は百億円である)。

 学童保育は、昼間留守家庭など放課後の保育に欠ける児童を対象として児童福祉的な色彩を帯びて展開してきたもの。これに対して、文科省によって管轄され、学校内で社会教育的な色彩を持って全ての児童を対象として展開されてきた事業を全児童対策事業として本論は展開されている。後半に、児童における保育の必要性として、小学生が入学するに従って共稼ぎの家庭が増えていることやコミュニティの崩壊に伴って遊びによる社会性の獲得が困難な状況であること、集団で遊びことから子供同士のつながりや親からの自立が図られていくこと。そうした場所を作るには、子供だけの力では不充分であり、大人の協力が欠かせないことなどを提言している。

 こうした制度から学童保育などは全く解らないことであったため、非常に勉強になった。

 似たような論文として、

高橋ひとみ(2006)「学童保育と「子どもの遊び」に関する一考察」『桃山学院大学人間科学』31, 21-40

http://ci.nii.ac.jp/naid/110004699922

PDFあり

 こちらは学童保育での遊びに関する基礎的資料を収集するために、3市、17箇所で、学童保育を行っている保護者を対象に質問紙調査を行っている。それをカイニ検定と平均の検定を行っている。その中で子供を学童保育に預けるのは、低学年が多く(高学年になると辞めることも多い)、また健康であることを一番に思っている(女性が働くことの前提になっている)こと。また学童保育を利用して良かった点は、安心して働ける、人間関係やルールを守れるようになった、親も子もクラス外や異年齢の友達が出来たなどである。


破滅への欲望

古木宏明(2008)「破滅への欲望」『竜谷大学大学院研究紀要, 社会学・社会福祉学』 16, 1-18, 龍谷大学大学院社会学研究科研究紀要編集委員会

http://ci.nii.ac.jp/naid/120002857392

PDFあり

 副題が、H.P.ラヴクラフト作品が求められる理由の考察となっている。

 間違っても、社会福祉学のセクションでの研究論文ではないが、一瞬目を疑ってしまった。CiNiiでラヴクラフトとキーワード検索したら、唯一PDFで落とせるのがこの論文だけ。あとは、1980年代に『ユリイカ』で特集されたぐらいであまり取り上げられていない人である。文学論として取り上げられても良さそうなものだが。

 内容は、ラヴクラフトを知っている人なら基本的なことばかりであまり参考にならないかもしれない。しかし、ここ最近、ライトノベルなどで、クトゥルフ系が出ていたりと作品が続いているので、クトゥルフの生みの親であるラヴクラフト大先生のことを知るのは、良い内容かと思う。この作者、大先生の作風について良く表現されているので、ちょっと長いが引用しておく。

 ゴシック・ロマンスを愛しながらも、そこに描かれる驚異に満足しきることなく。幼少の頃より科学に親しみながら、そのまま小説にできるほどの幻想的な夢を見る精神を持つ。恐怖や怪奇さを追求するために、人間を中心とした小説の書き方を抜け出す。そして、訪れれば享受するしかない、逃げられぬ恐怖の存在を誰より恐れている。そんなラヴクラフトだからこそ構築できたできたであろう。[…中略…]

 個人、それどころか、人間という種族そのもの−そして、それが築いてきたあらゆる文明ーが、宇宙全体からみれば、なんと儚く、ちっぽけな存在であることか。人間は世界の中心などではなく、その存在も、常識も、秩序も、全てが人間の暮らす限定的な場所でしか通じない、取るに足らないものなのだ。ラヴクラフトは、この考え方に基づいて作品を描く。故に、そこに現出する怪異どもは、他の誰かが創出したそれより、絶大な存在である。宇宙も、時間も、次元すらも、その全てを超越する。あまりに圧倒的な存在であるが故に、そこには対立すら発生しない。怪異がその気になれば、人間など容易に蹂躙されてしまうのである。現在、人間が反映を謳歌できているのは、怪異がその気になっていないか、あるいは、単なる偶然という幸運のたまものに過ぎないのだ。

 その後、気になって、ドゥルーズで確か、ラヴクラフトについて言及しているところがあったなと思って調べたら、『千のプラトー』に3カ所引用されていた。文学と哲学、そして時にオタク系とか取るに足らないパルプ小説すらも飲み込むのが哲学なのかと思えば、文学もまた哲学に返すこともまた学問なんだなと。ここ何本か、文学論をまとめながらそう思った次第。

人間の苦悩と人生の意味

秋山智久(2011)「人間の苦悩と人生の意味」『學苑』844, 45-59, 昭和女子大学

http://ci.nii.ac.jp/naid/110008092092

PDFあり

 福祉業界ではかなり有名な先生の論文。主に社会福祉専門職とは何かなどの論考が中心で、またそのたぐいの著書も多くある。ただ有名なだけではなく、第一線で論文を寄稿し、CiNiiでも容易に入手しやすい状況にある。

 この論文の副題は、社会福祉哲学の根本問題となっている。

 社会福祉「の」哲学とは何かとなれば、その独自な概念は無いと私は思っている。ドゥルーズがかつて『哲学とは何か』の中で、哲学とは概念を創出する学問であると言っていた。であるならば、社会福祉「の」哲学とは、より独創的で、固有な、「何か」がないといけない。この論文では、社会福祉とは人の苦悩や不幸、それと対置する形で幸福とは何か。そして、援助者はどのように関わるべきなのかというスタイルを古典宗教や代表的な思想家から惹く内容となっている。

 中にちりばめられている多様な思想家・宗教家の言葉や古典(方丈記など)を嗜んでいる人ならば非常に趣深く読める内容となっているが、そうした趣味がない人でも、よく練られた文章構成でスラスラと読める内容となっている。最後の方はフランクルの思想を軸にまとめているが、前段から後段まで考えされられる内容となっている。人が生きることは苦悩と不幸の連続である。不幸な人はどんなに努力しても不幸な環境に置かれがちにある。その一方で、取り立てて努力もせずに楽に生きることができる人もいる。社会福祉の対象は生まれながらにして不幸な人もいるし、苦悩を背負って生きている人たちもいる。援助者は、メサイヤコンプレックスに陥らずに、その人達の苦悩をどのように感受して、そして寄り添うことができるのか。

 そんなことをこの論文は問いかけている内容となっている。

障害児の遊び・遊び場に関する研究 : (1)

村田 昌俊ほか(1994)「障害児の遊び・遊び場に関する研究 : (1)障害児の遊び・遊び場についての調査」『情緒障害教育研究紀要』13,79-90,北海道教育大

http://ci.nii.ac.jp/naid/110000411298/

PDF論文有り

 健常者は年齢と共にその行動範囲が拡がっていくが、障害児の場合にはその広がりはあまり期待できない。

 一般的に障害児の遊びの内容は貧困であり、遊ぶのが下手な傾向があると言われるが、健常児の遊びの内容もそう変わらず貧困な場合が多い。むしろ、障害児が自宅や自宅付近でしか遊べていないのが問題である。障害児の遊びの保護と眼差しの中だけで保障され、それらの条件や環境設定が良くないと、障害児の遊びは発展性の乏しいものになる。

 調査論文で実態把握を行っている。特に遊びの内容に関しては健常者と障害児はそう変わらないとする理由も納得できる。

 その後、この論文は現在CiNiiで手にはいる限り3まで続報されている。共にPDF論文有り。

http://ci.nii.ac.jp/naid/110000411299

http://ci.nii.ac.jp/naid/110000411300

障害児教育実践論への心理学的視角(1)

土岐 邦彦(2002)「障害児教育実践論への心理学的視角(1) : 障害児教育実践における「遊び」の固有な意味」『岐阜大学地域科学部研究報告』10,87-95

http://ci.nii.ac.jp/naid/110004626004

PDF論文有り

 ともすれば諸能力を回復させることに重点が置かれやすく、したがって遊びの指導についても遊びを通して何らかの機能を身につけさせようとする傾向が強い。障害児にも遊びらしい遊びを指導する上で遊び心を持った指導者側の態度が重要である。

 子どもが遊びの何を面白がっているのかを正しく見抜く力と遊びの発達段階についての知識である。

 知的障害児の遊びの指導では

  1. 生活単元
  2. 言語発達のための手段としての指導法(象徴遊び)
  3. 発達年齢別にふさわしい「遊び」の導入
  4. 遊びの自発性を重視した寄り添いがある。

 同じ事を繰り返すことで子供たちは見通しとして思考する力を楽しみながら少しずつ獲得していく。同じ事を繰り返すことによって子供たちは新たな力を獲得し、教師との間に新しい関係を作りそして内面世界を広げていこうとしている。~この論考を行った理由として、ルーティンワークはしばしば退屈なこと。遊びは刺激的なこと。よって遊びは常に新しい導入をしなければいけないとする指導者側の気負いに対してルーティンとしての遊びの持つ力を示していると言える。

 この先生も結構精力的に論文を書いている。知的障害児と心理学あるいは教育学の範囲でアセスメントを中心に行っている。

http://ci.nii.ac.jp/author?q=%E5%9C%9F%E5%B2%90+%E9%82%A6%E5%BD%A6


子どもの遊びとその保障 : 援助者の視点から

堤 荘祐(2004)「子どもの遊びとその保障 : 援助者の視点から」『福祉臨床学科紀要』 1, 43-48,神戸親和女子大学

http://ci.nii.ac.jp/naid/110006159248

PDF論文有り

遊びについての諸理論の整理を行っている。

豊かな遊びの前提条件は

  1. 遊びの欲求を持っていること
  2. 遊び時間を持っていること
  3. 仲間がいること
  4. 遊び場があること

 遊びの価値を認めることが一番大事である。大人の遊びへの関わりとして子どもが主役であるが、方法や程度などにより子どもの遊びをより効果的に発展させるためには大人の関わりが必要である。論文の「まとめ」や「おわり」は参考になる。

 この先生、割と研究をしていて特に障害児と保育との調査を意欲的に行っている。

http://ci.nii.ac.jp/nrid/9000004546186

http://ci.nii.ac.jp/nrid/9000004551390


介護保険サービス事業の市場性

宣 賢奎(2009)「介護保険サービス事業の市場性」『共栄大学研究論集』7,65-78

http://ci.nii.ac.jp/naid/110007058341/

PDF論文あり

 本研究は、介護保険サービス市場の市場環境の変化を踏まえつつ、介護保険対象の訪問介護、通所介護、グループホーム、有料老人ホーム事業の市場性を検討し たものである。検討の結果、訪問介護事業の市場性が低い反面、その他の介護事業の市場性が高いことが明らかになった。なかでも、有料老人ホーム事業の市場 拡大の可能性が最も高い。しかし、市場性が高い事業といえども、介護保険制度に全面的に依存する経営では経営の安定性を図りにくい。したがって、介護報酬 に左右される介護保険サービス事業だけに固執するのではなく、いち早く介護保険依存経営からの脱却を図ることが望ましい。

 と要約にあるとおり。とはいえ、中にある介護部門は将来性の高い産業であること。日本の資産の80%を持っていると言われる高齢者へのサービスは今後より需要が高まること。またとかく社会福祉や社会保障は経済の足を引っ張るとされるがむしろ逆であり、雇用の創出、消費活動、内需拡大に非常に有効であることを論証している。

 介護保険事業だけではなく、広く高齢者の豊かな生活のために必要な高齢者支援事業があり、通常、介護保険の法定給付対象外のサービスは横出しサービスと言われる。これが今後はより拡大していくだろう。むしろ、介護保険の法定内サービスよりも…ということである。

 要約に挙がっている通所介護、有料老人ホーム等々の将来予測もそれほど的をはずしていないし、じっくりと書かれている。今後の事業の趨勢を考える上で概説的だがヒントになると思われる。読みやすいし、論拠もしっかりしている論文である。

老人ホームは生活の場か

井上英晴(2003)「老人ホームは生活の場か」『九州保健福祉大学研究紀要』4,13-23

http://157.1.40.181/naid/110000965977

PDF論文あり

 特養は入所施設、生活の場であるとされる前は、収容施設であるとされていた。地域福祉、コミュニティとの絡みで、かりに特養が生活の場であるならば、施設を拠点に地域に向かって入所者が外に出て行くことが求められるが…果たしてと、かなり刺激的な論考である。

 また家庭的な老人ホームをめざしていますと言うが、施設は家庭ではあり得ず、老人ホームはあくまでも社会的な場(つまり他人が寄り集まった場)である。家庭という幻想を捨て、社会的な場であるからこそ、収容施設的なものから解放するという視点を持つことが大切である。

 さらに施設は生活の場であると福祉関係者は言う。しかし、介護労働者は、仕事の枠やケアの提供によって賃金を得ているというビジネスマン(組織人)としての規範が働いている。だから老人は職員にとって交際相手ではなく、交渉相手である。本来、生活とは労働と一線画した言葉であり、労働を離れたつきあいこそ、生活の内容を彩るものである。生活とは仲間であり、なおかつ職員と労働を離れたつきあいが求められる。それが「生活の場」である。施設職員や施設が目指すべきは、特養は社会の場であるという認識の元、老人と一緒に考え、収容的な取り組みからの脱却~コミュニティ(コミュニティマン)になるべきだと。

 その後はハイデガーとかケア理論とかそっち方面に流れてちんぷんかんぷんになってしまっていたけど、前段は考えさせられた。総括すれば、コミュニティマン時々ビジネスマンと役割を柔軟に組み替え演技しながら、社会的生活の場としての特養をめざそうということだろう。しかし、それは感情労働との観点から考えると、演技することによる感情疲弊などはどう対処するのか。

 施設全体として社会的生活の場を目指し、老人と援助者が仲間として振る舞うとはいかなることかを追求するなら良いが、そうでないと組織としての施設の方針とのミスマッチが生じないのか。あるいは、コミュニティマンとして仕事をすることが正当に評価されるのか。もしされないのであれば、だれもそんなことはしないのではないかと思う。


ループする日常と成熟という夢

片上平二郎(2009)「ループする日常と成熟という夢」『応用社会学研究』51, 79-91, 立教大学

http://ci.nii.ac.jp/naid/110007031117

PDFあり

 副題は、(先駆的「モラトリアム」の作家としての押井守)となっている。

 昔、BSで押井守の特集で主要作品を一挙に放送していたことがあって、それで何となくほとんど観てしまっていたので、押井守がどんな作品を作っていたのかを知っていた。なので、この論文に出てくる作品について想像できるし、読んでいてそういう解釈もありなのかという納得できるところが多々あった。特に、うる星やつらの劇場版、「ビューティフル・ドリーマー」にはかなり衝撃を受けた。

 以前にポストモダンの世界観について書いているけれど、努力すればみんな成長やそれに基づいた自己実現や自己確立という物語は終わりを告げた。同じような特定の枠組みの中で競争し、お互いを高めあっていくような物語ももはや存在しない。あるのは、いま目の前にあるさえない日常が変わることなく、出口を出ても、また同じような風景が広がるだけという閉塞感だけが募っていくそうした世界観である。オタク文化論では、メタフィクションという。「ビューティフル・ドリーマー」は、そんな時代的な雰囲気をよく表している内容だし、論文の解説は非常に納得できるものであった。

 その後、パトレイバー2における戦争とメディア、虚構と現実の反転、テロリズムと兵器、暴力のあり方などなるほどと思わせる描写が続く。最後に、成熟について、押井守はスカイ・クロラにおいて若い人たちに珍しくメッセージを発している。それまでの作品は、ループする日常にある種の焦燥感をもって描かれていたが、スカイ・クロラにおいては、終わらない日常の反復を前提としながらもその世界を“生きていく”ことの姿を丹念に描いている。脱出しようと焦っても、ただ息苦しさの感覚は増していくだけである。脱出に向けて焦ってしまうと言う自体も否定されることなく、ある一つの風景として認めるべき事でもあると。

 最後の文章に私は考え込まずにはいられなかった。

  「成長」を止めてしまった社会、つまり「成熟」を迎えた社会において、その中を生きる個々の人々にとって「成熟」というものがどのような意味を持つのか、という問いはいまだ大きな意味を持っている。「…中略…」これから訪れる“新たな“社会が、個々人のとっての“新しい“形式の「成熟」を生み出す社会であるのか、それとも「成熟」など不要な社会であるのかもまだ分からない。だが、いましばらくの間、私たちは「成熟」の“困難さ“という課題の中で思考を続けていかなければならない。

 しかし、その一方で私は思うに、確かに見える世界は同じでも、人は認識を変えることができる。自分が成長していることが努力によって実感できるのならば、それは自分の日常の成長であるのではないだろうか。押井守のこだわりもまた、初期に比べるとスキルも表現も格段に成長している。終わり無き日常であったも、努力は無駄と無気力になるのは違うと思う。ただ、努力すれば報われるという簡単な世の中ではなくなったと言える。成熟するためには、ある意味、一筋縄ではいかない努力と繊細さが求められているのだと思う。

アニメにおける人物顔画像の萌え因子特徴評価と検索分類システムへの応用

河谷大和ほか(2010)「 アニメにおける人物顔画像の萌え因子特徴評価と検索分類システムへの応用」『映像情報メディア学会技術報告』34(6), 113-118

http://ci.nii.ac.jp/naid/110007581217

PDFあり:577円(2011年11月27日現在)

 一時期すごくtwitterで流れていて、興味本位で定額制にもかかわらずついつい買ってしまった論文。しかし、読んでみると…う~ん、理系の論文ってすごくあっさりなのねってのが感想かな。それで引用されていた、システムとか色々探したけれど、まだweb上では公開されていないようで、できれば無料で公開してほしいところ。

 萌えについてのデータベースはすでに東浩樹なんかが提唱していたので、あとはカテゴリーをぶっ込みながら、そのキャラの顔のパーツをトリミング・レイヤー処理して、カテゴリーをタグ付けして蓄積すればデータベースはできるだろうなぁと思う。といっても、その具体性となれば、がちがちの文系の私にはその方法論を知らないけれど…

 この論文はそんなことに挑戦して、一定の成果を上げた論文。目や顔の輪郭、髪の色や髪型などを抜き出している。正面を向いていないといけないとか背景を単純化させるなどの処理があるものの、最大5人の好みのキャラクターの画像をドラッグ&ドロップをすれば基本萌え因子(Basic MOE Factor:BMF)とか発展萌え因子(Advanced MOE Factor:AMF)を抜き出して表示してくれるという優れものの?のプログラムの公開であった。

 なんともいえないけれど、は~そうですか…といった感じだけれど…私としては、やはり先に書いてあるように、web上での無料公開をお願いする。

ポストモダンと社会福祉

丸岡和則(2007)「ポストモダンと社会福祉」『関西福祉大学研究紀要』10, 41-49

http://ci.nii.ac.jp/naid/40015498058

PDFなし

 副題は、「批評的ソーシャルワーク論」となっている。

 う~ん、難しいというか、小難しいというか…おおよその近代から現代主流の援助技術系の基礎知識がないと読めないかもしれない。また随所に、主体を巡る哲学の論考も入って読みにくいかと思う。かくいう私も全部理解できたのかと言えば、心許ないが…とりあえず、この論文は、ポストモダンの援助技術系の理論は「主体性」を巡って転回していること。あるいは、批判していることが分かる。

 しかし、読んでも読んでも、じゃぁ、主体(性)って何?となる。この論文はその辺が巧く処理されきっていないように映るし、そもそも「主体」を論じること自体が非常に難しいんだろうなぁって思った。私が腑に落ちた所だけを取り上げると、主体と個人は違う概念である。主体は、個人と社会システムとの接点の一つと捉えるものである。分かりやすく言えば、社会福祉の対象領域としての「主体」とは、個人の社会制度の社会関係の一つとして捉える。当然、個人と切り結ぶ社会制度や社会関係は、社会福祉以外にも多様にあるから、この場合の主体は、個人が社会福祉と関わる一主体と捉えるとする。

  1. 利用者の主体性の尊重とは、利用者が主役となって能動的に解決を図 る役 割と捉えがちである。しかし、ポストモダンでは、利用者が主役になって問題解決を図ることは、「問題解決しなければならない」ことを利用者自らが受け入れ、服従し=主体化し、その意味で主体的に問題解決をすると言うことである。言い換えると、利用者が自らを問題意識を受け入れ、積極的に解決するように、援助者が教えることでもある。
  2. 主体と他者との関係では、近代が描いたように人間存在の基本は、能動的・主体的な自己像を本質とするのではなく、むしろ、名付けられ、呼ばれる受動性こそ鍵があると考える.
  3. こうしたことをまとめると、服従するという主体というメカニズムこそ、国家が支配イデオロギーを再生産させる本質的メカニズムであるといった言説や一斉の可能性を捨て、ただ定められた規範に基づく訓練を馴化へと自らを従属する主体として、制度全体へと自らを規範化させる主体として教育し、自分を自由な主体と思いこんでいる人間にさせているとする指摘は重い。

 おざっぱに言って、主体とは、能動性とか主役と言ったものではなく、そこで生きる個人の有り様と言えそうである。利用者の主体性の尊重とは、これまで援助者主導で規範に当てはめてきたことの反省として使われるが、それでも、その個人の課題の克服という観点から捉えると、さぁ、あなたが主役です。この課題を克服するために努力しましょうということには変わりはなく、その主体性は、課題への従属を前提にしていると考えるべきである。

 じゃぁ、課題の克服をしたくないと利用者が言えばどうなのか。その時点で、「社会福祉における主体」ではなくなるだけなのかもしれない。しかし、問題はそう簡単ではない。利用者は社会福祉システム以外で生きることが困難な状況下にあることが多く、もし社会福祉システムから退出すれば、生きていけないことも考えられる。人は思ったほど、複数の選択肢を持っていないのである。

 と考えると、社会福祉システムを支えている権力者=援助者はどのような振る舞いをすればいいのか。この論文では、とりあえず、援助者としての自己を利用者としての自己に置き換えること。そして、夢や願望を生活の理想に置くのではなく、生活者としての生活問題として捉え直すこととしている。この立場を置き換えること、利用者の下に立つこと=understandといった主張もあり、それはまた別の話になってくるのだろう。


特別養護老人ホームの変貌に関する一考察

谷口泰司(2006)「特別養護老人ホームの変貌に関する一考察」『近畿福祉大学紀要』7(2),105-122

http://157.1.40.181/naid/110006428795

PDFあり

 副題が、介護報酬および要介護認定の視点からとなっている。

 措置制度から介護保険制度に移行してから特別養護老人ホームがどのような場所に変わったのかについて明らかにしている。論者が問題としているのは、重度化が政策誘導されたことで、経営が不安定になったこと。そして、虐待や放棄など入所をさせるべき人々が入れなくなったことである。なぜ重度化が経営を不安定にするか。重度の高齢者は、入退院がしがちである。この「入院による不在」が稼働率低下を招くのである。虐待・放棄の案件について、介護保険は一義的には対等な契約を旨とする。そのため措置制度が終焉を迎えた際に、従来緊急入所を一元的に管理してきた市町村の役割が否定されることになった。介護の社会化が入所待ちの高齢者を爆発的に増加を生んでしまった。抽選や先着順では決まらないとはいえ、入所コーディネートマニュアルには虐待・放棄による優先順位はない。また虐待されている高齢者は圧倒的に軽度な場合が多く、入所は遠のいていると言える。

 論者が「むすびにかえて」で

特別養護老人ホームは単なる"介護技術のみを提供する通過施設"ではない。もちろん、必要悪でもなく、常時介護と生活支援の双方を安定的・継続的に提供しうる”安心施設”であり、また放棄・虐待を受けている要介護者を安全に保護しうる機能を有している。何よりも特別養護老人ホームは、他のサービスに伍して、自らが尊厳を持って死ぬための選択の一つであり続けるべき使命を担っている。

 と考えると述べている。また、居宅基盤の重要性を声高に叫び、地域密着型サービスの重要性を叫び施設解体を迫るかもしれない。しかし、施設の是非については、行政や事業者、専門家や有識者に決定権があるのではなく、利用者および家族のここの内面にその答えはある。とする指摘は重い。 

 措置制度が知らない介護労働者が多くなった昨今、縦横無尽に数字を引き、報酬改定の時間軸の中でじっくりと書かれたこの論文はやや敷居が高いかもしれない。しかし、メッセージは明確で論拠もしっかりとした良い論文である。

コンドーム購入行動に及ぼす羞恥感情およびその発生因の影響

樋口匡貴(2009)「コンドーム購入行動に及ぼす羞恥感情およびその発生因の影響」『社会心理学研究』25(1),61-69

http://ci.nii.ac.jp/naid/110007358066

PDFあり

かなり幅広く文献をあさってコンドームをなぜ使う・使わないのかを調べている。この論文は、その中でも使わない理由(使用阻害要因)としてどのような羞恥心が男女に働くのかについて分析している。結構海外ではコンドーム使用についての尺度などが作られたりと研究の積み重ねがあることが分かる。

  サンプルは中国地方・関東地方の大学生522名。男性159名、女性344名と女性が男性の二倍になっている。調査方法や分析方法はかなり厳密で信頼性が高いことが伺えるが、文系の頭では理解できず。取りあえず、信頼するとして、その内容は、

  男女共通するのは、恥じらう、気恥ずかしいといった基本的羞恥やばつが悪い、気まずいと言ったいたたまれなさが強く発生している。これはコンドーム購入がそのまま性行為に直結する行為であるためと思われる。

  その一方で、情けないといった自己否定感や気後れと言った自責的萎縮感はほとんど発生していないことが示された。

  コンドーム購入時は男女ともどのように振る舞ったらいいのか分からない(相互作用混乱)という行動指針の不明瞭さが原因で羞恥感情が発生していることが示された。つまりコンドームの購入行動を普通ではないものと捉える特殊性があると観るべきである。

  購入時における男女の羞恥心の差では男性ではこの「相互作用混乱」が強い。また、かっこわるいといった規範意識も働いていた。

  女性は自己イメージの不一致(私がコンドームを買うなんて)と規範意識(女の私がすべきではない)であった。現在日本で販売されているコンドームが男性器に装着する使用のモノであるため、女性は購入に抵抗を感じるのかもしれない。

今後の課題として、パートナーとのやりとりにおいて羞恥感情が発生しやすいと考えられる使用時に関する研究が必要になるだろうとのこと。大いに期待したい。

そもそもの研究目的がHIV感染予防のはずであるコンドームがなぜつけたがらないのかといった問題意識から出発している。結果として、羞恥心を取り除くことが大事であること。教育としてコンドーム購入のトレーニングを取り入れると効果的であることなどが紹介されている。

戦後社会福祉労働研究の歴史的考察

五十嵐奈緒(2009)「戦後社会福祉労働研究の歴史的考察」『社会福祉学研究』4,27-35,日本福祉大学大学院研究科

http://ci.nii.ac.jp/naid/40016643820

 いわゆる社会福祉従事者が増加しているが、労働者研究に関して歴史的な考察が少ない。この論文はその概観となっている。福祉労働者を語るときに代表的なのが、「社会福祉労働論」と「福祉専門職論」という大きな二つの議論の流れがある。

 福祉職員の過酷な労働実態の改善を目指すとともに、社会福祉に携わる労働について原理的に追求した「社会福祉労働論」が1960年代後半から1970年代にかけて活発に展開されている。のちに1970年代半ばから1980年代前後には社会福祉労働研究における論点が変化し、1980年代以降、福祉サービスの担い手である「マンパワー」の問題が論じられる。それは専門職性の研究としてソーシャルワークや援助技術に焦点を当てた「福祉専門職論」へと結びつき、今日においても議論の中心となっている。

 福祉サービスの拡充と共に効率性と運営が主眼になり、本来論じられてきた労働者としての保障は後景に追いやられて、今日まで来たと解釈した方が良さそうである。

若きソーシャルワーカーのライフヒストリー研究(その2)

鈴木眞理子(2005)「若きソーシャルワーカーのライフヒストリー研究(その2)」『岩手県立大学社会福祉学部紀要』7(2)31-41

http://ci.nii.ac.jp/naid/110006457861

PDF論文あり

社会福祉系大学ではない二人の大卒者がどのように社会福祉士取得を目指したのか。そのモチベーションと取得の意味について考察している。

二人のライフヒストリーを専門的力量形成過程と契機という視点でまとめられている。表の列に、年齢、ライフステージ、印象的な出来事、力量形成の契機とある。

キレイにまとまっている感もあるが、二人ともその時々で考えさせられる環境の変化、人物との出会いがあることが分かる。中途で取得を目指す人の共通点は、コンプレックスの払拭である。あえて苦労して中途で資格を取ろうとする者の資格のあこがれと取得後の自負の念こそ、この資格の社会的地位を高めているのに大いに貢献しているといえると考察している。学卒取得者のようにすんなりとった人には分からないぐらい既卒取得者は資格に対してあこがれを抱いているとする見解である。

この学者はずっとソーシャルワーカーのキャリア形成について研究しており、CiNiiで検索すると割と出てくる。ライフヒストリー中心なので実像を描き読みやすい内容が多い。興味のある方は是非どうぞ。

http://ci.nii.ac.jp/nrid/1000090279638


ソーシャルワーカーの成長に関する研究の方向性と課題

吉川公章ほか(2006)「ソーシャルワーカーの成長に関する研究の方向性と課題」『聖隷クリストファー大学社会福祉学部紀要』5,1-15

http://157.1.40.181/naid/110006457846

PDF論文あり

吉川、須藤八千代、福田俊子、村田明子がここ最近の継続研究の出発点となる論文。簡単に言って、専門職が現場の中で成長するとは何かを軸に据えている。その問題提起は、明確である。

SWはいかにして専門家となるのか。そして、優れたSWとはいかなる知識や技能を習得している専門家を指すのか。

社会福祉士の業務内容、養成の理論や実践研究は徐々に進められているが、この上の問い応えられるような研究蓄積は少ないと。これは、ショーン(Schon)の「反省的実践家」や尾崎新の「ゆらぎ」あたりの流れを汲むと思う。この論文は有名なSW理論家や専門職あるいは専門家とは何かの言説を俯瞰し、看護・教育分野の実践家モデルの先行研究の紹介をしている。根底には、ポラニーの暗黙知、中村雄二郎の臨床の知~科学性や合理性から一旦解放されること、そして個を丁寧に見つめ、クライエントとワーカーの中で知を発見していく姿勢があるといえる。

技能習得に関するベナーモデルのソーシャルワーカーへの適用

吉川公章ほか(2007)「技能習得に関するベナーモデルのソーシャルワーカーへの適用」『聖隷クリストファー大学社会福祉学部紀要』6,67-79

http://157.1.40.181/naid/40016055335

PDF論文無し、入手:東北福祉大

 P.Bennerは初心者、新人、一人前、中堅、達人という職業人にはレベルがあり、その段階とその内容をモデルを示している。

 これは教育や看護の分野研究の蓄積があるが、社会福祉分野ではあまりない。この論文は調査~聞き取りを中心にSWの成長過程の指標を明らかにするために書かれている。精神保健福祉分野での病棟であり、広範囲にわたるSWのフィールドには適用できるかどうかは疑問があるとしながら、指標として、以下の概念が抽出された。

1.見立て・予測、それに基づいた関わり

2.専門性のとらえ方

3.振り返りの方法

 1はベナーの言う技能に当たる。ベテランと新人の力量の差は、過去や将来の時間軸で利用者を見立てること。2はベテランは専門家としての自己や専門職の役割に行き詰まりを感じるとのこと。この気づきが重要な契機になる。3は行為についての省察(D.Schon)SWが困難な臨床経験に直面したり、専門職としての生き方の壁にぶつかったりしたときの省察をも含む概念である。


日本の「婚活」風景

森川麗子(2011)「日本の「婚活」風景--ジェンダー視点より」「椙山女学園大学研究論集 社会科学篇」42,73-85

http://ci.nii.ac.jp/naid/40018723391

PDFなし

吉川延代(2011)「婚前カップルにおけるパートナーに対する期待内容の特徴」『人間科学研究』 32, 189-196,文教大学 &nbsp;&nbsp; http://ci.nii.ac.jp/naid/120002854385

PDFあり

 1は統計とか無くて読みやすいけれど、2は調査系で数字が苦手な人はちょっと引くかと思う。最後の考察だけでも読めばいいかも。

  で、この二つの論文に共通するのは、男性には経済的な安定とコミュニケーション能力が高いことを女性は求めていることであった。例え、年収が高い女性で あっても男性は自分よりも高い人で能力の高い人を選ぶんだそうな。また婚活をする女性はあわよくば専業主婦になりたくて、男性に経済的に依存したいと思っ ていること。男性はどちらかといえば共働きをしてほしいし、女性には包容力を求めているんだそうな。

 その他、なぜその未婚の男女の親たちが躍起になっているのかとか、むしろ問題はその親たちにあるのではと言う考察はうなずける部分もあるものの、この専業主婦願望などは一面ではないかと思う。

 というのも福祉系は女性の職場である。確かに一時的に寿退社をする人もいるが、ほとんどが結婚しても勤め続けている。というのも、婚活をする女性の結婚の基準は年収600万以上とのことだが、そんな若者は実は4%もいないのである。

 なので結婚している若いカップルは共稼ぎをせざるをえず、専業主婦を主体的に選ぶ場合はその年収のランクを下げる必要があるといえる。福祉職の既婚男性の妻達もほとんどが共稼ぎである。

 一時期、福祉職の男性はこんな賃金だと結婚もできないと男性版寿退社をする人がいることがテレビで紹介されていた。私は、それは嘘だと思う。

 そんな人はいくら賃金が上がっても結婚はしないと思う。結婚したいけど、いまの賃金じゃ彼女を幸せにできないと思っている人は、多分、賃金以前の問題だと思う。

  フリーターでもパートでももっと低所得な人も結婚しているし、子どもを育てている。上を見ればきりがないが、下にもずっと結婚している人たちがいっぱいい る。そこには多様な生活スタイルがあり、女性に食べさせてもらっている男性もいれば、少ない稼ぎでやりくりしながら子どもを育ている人もいる。女性が男性 よりも賃金が高いカップルだって割といるんじゃないかな。

 じゃぁ、結婚って何ってことになるけど…結婚すれば結婚しないよりもいくらか の優遇措置があり、社会的にもいくらかのメリットがある。何より、子どもってのは育ててみればまた味わい深いものである。子供を持つとき、結婚というシス テムは何かと便利な場合が多い。それ以上に太古からある「結婚」というシステムにはそれなりの意味があるとしか応えようがないけど。一番は、その人と一緒 にいたいことと結婚というシステムが合致あるいは容認されるものだったからかもしれない。むろん、そんな難しく考えないで、「その人」と結婚したいからし たとしか言いようがない場合が多いと思うが。

 むろん結婚しなくても子どもがいなくても、カップルとして長い年月を共にするという形態もあるし、一生独身で(特定のあるいは1人も)連れ合いとかいないまま生活する人もいる。

 そうした多様性に目を向けたとき、賃金の多寡とか人格とかだけで人を見ているウチはなかなか踏ん切りがつかないんじゃないかなぁと思う。


遊びの哲学

田中裕喜(2006)「遊びの哲学」『滋賀大学教育学部紀要(教育科学)』56,93-98

http://ci.nii.ac.jp/naid/110006244715

PDFあり

 遊びは、子どもの諸能力の発達を促す教育方法であるよりも前に、人間が「生きることを楽しむ技法」である。されば、幼児教育において何よりも必要なのは、子どもが将来のために幼児期に達成しておくべき発達課題を列挙して、その発達課題を達成するのに適した遊びを開発することではない。

 と述べて、その後、保育者が遊びを通じて子どもと関わる際に配慮しないといけないことが3点述べられている。

 まずもって保育者が遊びの往還の輪の中から生の充溢を得ているかどうか。そして、その往還に子供たちを誘う手だてを持っているかどうか。そして、遊びの奥行きや発展性を見通しているかどうかとなっている。

 遊びの往還とは、遊び手同士のやりとりが空間の中で繰り返されていくことを指している。それは、相互浸透的に、能動と受動が交互に入れ替わり、大人とか子どもという関係よりも、単なる「遊び手」同士という関係性になることを指す。

 遊びの本質の一つに、主体・客体と切り離して理解する分かり方とは別の、身体感覚を通じながらも対象の内側から分かり学んでいく可能性を有しているとする。

 とするならば、保育者は子どもと遊ぶこととは、人が生きる上でまた必要な行為であるとする使命があるのではないだろうか。

 私が共感する部分でもある。


プロフィール

kuma

Author:kuma
救護施設→知的障害児施設→通所介護施設(高齢者)と15年以上。これからも思考と体力で、働いていきます。

自分のサイトもあります。
kumaの学習ノート

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